「なあ、ウタ。それならなぜ、封魔はシャドウになり、おまえはもとの姿になったんだ」
 訊ねると、す、とウタが瞳を細める。だから、教会か、と恋はさらに深く溜息をついた。
「そう、教会よ。キアランが逃げたあと、やつらはすぐにわたしが何であるのかを隠したまま『黯い魚の歌』を禁書として、見つけたものはただちに差し出すようにとフロストロイド中に触れた。けれどすぐには見つからなかったわ。だから懸賞金をかけ、なにも知らない連中にも探させた。そしてようやくわたしを見つけたやつらは、嬉々として緑の魔封じを剥がし『黯い魚の歌』を読もうとしたわ」
 しかし、けれど、とウタのくちびるは不敵な笑みにつりあがった。
「もちろん、キアランはただ普通に読むだけで破壊の力が手に入るような、そんな魔道書にはしなかった。キアランの魔法文字は、ある隠された方法で解読しないと封印する『歌』を解放しない。綴られている文字は、それを文字と知らない者にとっては、なんの意味もないただの模様でしかないわ。『黯い魚の歌』は、その文字を正しく解読した者にのみ従う。その制約として、金の表題である律がおかれているの。正しい解読法も知らずに、それでも無理に解放しようとした場合、封魔が牙を剥くように。そのために律がいる」
「……なるほどな。だからシャドウは人間を襲い、律は自分の鎧である血肉が消滅してしまわないために人間に呪いをかけるのか」
「違うわ。現出した封魔が人間を襲うのは、お腹が空いているからよ。元は文字でも、現実に血肉を得ればお腹は空くでしょう? それに、間違った方法でわたしを解放しようとした愚かな年寄りは、その時点で食い殺されているもの」
 けろりとして言われた言葉に、恋は自分の頬が引きつるのを覚えた。ああそう、と笑って見せるが、それは隠しようがない。
「だから、封魔がシャドウとなって現出したままいまだに地上をうろついているのは、教会と封魔の隙をみてわたしが逃げ出したからよ」
「な……」
「キアランに、会いたかったの」
 会いたかった。
 ただそれだけのこと。それだけのことだ。
 震えるようなその言葉は、どうしようもないほど切ない響きを持っていた。
 わからないわけではない。その気持ちがまったくわからないわけではないのだ。
 けれど、
「それで、なぜ逃げ出したおまえは、シャドウを放っているんだ? 『黯い魚の歌』本体のおまえなら、あいつらを制御できるんじゃないのか? どれだけの人間が、この五年で……」
「制御はできないわ。でも、悪いのは人間よ。酷く殺されても、仕方がないわ」
「おい……っ」
 そのひどく冷酷な言いように、かっ、と頭に血が上った恋は、思わずウタの細い肩を強く掴んだ。だが、ちら、とその手を一瞥しただけで、ウタは軽く首を振り、
「そう……思っていたのよ」
 と続ける。そして白く細い指で、肩を掴む手に触れた。
 ひんやりとした指が、怒りに熱を持った手を冷やす。
「ずっとわたしを探すシャドウたちから逃げながら、人間が殺されていくのを黙って眺めていたわ。恋に……会うまでは」
 あなたに会うまでは、人間なんていくら死んでも構わないと思っていた。
 そう言って銀色の長い睫毛を伏せるウタは、ふたたび弱々しく首を振る。
「……だから、恋に優しくされる資格なんて、わたしにはないの。ごめんなさい。許してもらえないのは、わかっていたわ。だから、話したくなかった。わたしはどうしても汚い。どんな姿をしていても、忌まわしい存在だから……」
 熱いしずくが手の甲にこぼれ、滑り落ちた。
「あなた、言ったわ。良い人なのか悪い人なのかなんて、この町ではどうでもいいこと。その人がいま、敵なのか味方なのかは自分で感じ取るしかない。こんな町で自分の愛するものを見つけるのは大変だろうけど、でも、はじめから全てが敵だと決めつけるのも、少しもったいない、って。そう教えてくれたわ」
「…………」
「わたし、キアラン以外の人間なんてどうだってよかったの。恋が、わたしのまえに現れるまでは。そんなことを教えてくれる人間は、いなかったもの。でもわたし……恋に酷いことをしていた。封魔のしたことも律のしたことも、全部、わたしのしたこと」
 わたしのせいで、あなたは二度死にかけたわ。
 震える声音がくちびるからこぼれ、そのたびに、ウタ自身がその言葉の刃で傷つくように見えた。
 掴んだ肩から、触れた手から、その痛みがじかに伝わってくる。
 恋は、ゆっくり首を振った。
 その痛みにつられて込み上がるものから逃げるように、手指を離す。
 すると、銀の双眸は縋るように追ってきた。しかしすぐにウタは伸ばしかけた手を止め、かわりに膝の上でピンクのワンピースの裾を、ぐ、と握る。
 しばらく黙ってそれを見つめた恋は、やがてテーブルの上に置いたままの新しい銃を手に取り、空のシリンダーに弾を繰り入れながら言った。
「目玉は取り返す方がいいのか?」
 ウタが、瞳をまるくして顔を上げる。
「教会からシャドウの目玉を取り返すか」
 左腿と右腰、左腰のうしろにそれぞれホルスターを取り付けて、くせのついた前髪をかき上げながら再度訊くと、弾かれたようにウタは椅子から立ち上がった。
 ふわり、とやわらかな長い髪が揺れる。
「ううん。放っておいても、いいの」
 てっきり取り返すものだと思っていた恋は、それを聞いて首を軽く傾げた。
「金の表題が手に入らないなら、正しい解読法を見つけたとしても魔法文字は読めないわ。封魔……シャドウを操ってわたしを探すことも不可能よ。それにいくらかわたしがシャドウを強制的に文字に戻したから、全ての目玉を集められないもの」
 おそるおそると言ったようすで恋に近寄ったウタが、これを見て、と銀の髪をかきやって首のうしろあたりを見せた。
 触れればこちらの体温で解け落ちそうなほどに白い肌に、なるほどうっすらと黒い模様が刺青のように浮かび上がっている。
 律の瞳のなかに見たものよりも、ずっと簡単な線の組み合わせ。町のあちこちで普段目にする文字とは、全く異なる形状のもの。これを文字だと教えられなければ、ただの模様だ。
「これがシャドウの実体よ。読める?」
「読めない」
「……そう、よね。ごめんなさい」
 髪を直してふたたびうつむいたウタに、恋は軽く溜息をつく。そして、
「そのほかにも、あるのか? 肌に」
「え? ええ、そうよ。数えてはいないけど」
「ってことは、全てのシャドウを文字に戻したら、おまえは真っ黒になるわけだ」
「そう……ね。わたしは黒い本に戻ってしまうわ。戻りたくは、ないのに……」
「白い肌がなくなるのが心配か? 戻した封魔を数えていないなら、俺が数えてやろうか? あとどのくらいで黒くなるか楽しみだな」
 に、と黒いコートをはおりながら意地悪く笑むと、いらない、と膨れ面で睨まれた。
「あ、そ。それじゃあ、出かけようか」
「え? あ! ちょっと待って!」
「キアランに会いに行くんだろう? さっさとしろよ」
 とたんに上がった素っ頓狂な声に呆れながら、ベッドルームからチョコレート色のパーカを持ち出し、それをピンクの薄布に包まれているだけのウタに頭から被せてやる。きょとんとしているウタに袖を通すように言って、銀色の髪をフードで隠した。
「いいか。シャドウが現れたら、俺が撃つ」
 男物のパーカのなかで腕をもぞもぞと動かす姿を眺めながら恋が言うと、ウタはうなずく。
「絶対に俺から離れるな」
 ようやく袖から手を出したウタは、ふたたびうなずいた。そして腿のあたりまでくる裾を直し、にこ、と自分の足を指差す。キャサリンのような靴じゃないわ、と言うウタの靴は、ワンピースとおなじピンク色のやわらかく踵の低いレースアップシューズ。
「オーケー」
 恋がうなずくと、チョコレート色から覗くピンクの花弁をひらひらと揺らしながらウタは椅子のところまで戻り、背もたれを掴んで持ち上げた。それをテーブルのそばに戻すと、
「オーケー」
 嬉しそうに、恋の口真似をしてみせる。
 それに肩をすくめてみせ、恋はゆっくり瞬きをしたメリッサに瞳を移した。
「ベッドルームとシャワールーム以外なら好きなところにいていいから、留守番よろしく」
 うなずくメリッサを残して、さまざまな色と形の影が蠢く、朝のフロストロイドへ。
 左手でウタの右手をとって、灰色に滲む瓦礫のなかを歩き出した。
  

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