乾かさずに眠ったせいで乱れている前髪をかき上げつつベッドから滑り降り、恋は黒の薄手のセーターとフェイクレザーのパンツを身に着けた。そして、わずかに湿っているシーツを剥がしマットレスを起こして立てる。
 シーツを手早く丸めてベッドルームから出ると、石の腕が伸びてシーツを横から取り上げた。かわりに、シャワールームに置き去りだったはずの青いセーターとジーンズを手渡された恋は、部屋に張ったロープにシーツをひろげて掛ける石像の姿を、ぼんやり眺める。
「…………どうも」
 恋が言うと、メリッサは半分壊れた顔をこちらに向けて、少し斜めに傾けた。
 どういたしまして、と返されたようだ。
 乾いた青いセーターとジーンズを手にベッドルームに引き返し、案外冷静な気持ちでそれをたたんで片づける。
 ふたたび顔を出すと、テーブルの上に三挺の銃が並べられていた。
 棚から弾をとり椅子に座ると、どこをふらついていたのか、ふわふわとした足取りのウタが部屋に入ってくる。恋の姿を見るなり、慌てふためいてメリッサを追い出そうとした。
「追い出さなくてもいい」
 メリッサがどこか嬉しそうにウタを見て、恋がそう言うなら、とウタはうなずきを返す。
「じゃあ、恋の邪魔にならないように。そのへんに立っていて」
 こくり、とうなずいたメリッサは棚のまえに移動すると、そこで動かなくなった。
「もうだいじょうぶなの?」
 ウタが子猫のように首を傾げると、メリッサも首を傾げる。
「ああ。だいじょうぶだ。寝癖が酷いくらいだな」
 手早く銃の整備をしつつそう言ってみせたあとは、いつもの通り軽く身体を動かした。
 キッチン上の窓はほのかに明るい。時計を見るとまだ夜が明けて間もない時刻だった。
 昨日あれだけ重くつらかった身体は、律の目玉が腹にあるのが嘘のように軽い。
 二人分のパンを焼き、コーヒーを淹れた。
 狭い部屋にひろがるその匂いに刺激されて、腹が鳴る。
 テーブルの上にウタの分の朝食を運んでやると、ウタはそれをキッチンに戻しにきた。
「いらないのか?」
 キッチンにもたれてコーヒーをひと口飲んだ恋は瞳をまるくするが、ウタは首を振る。そして恋を真似てキッチンに背を預け、カリカリに焼けたパンを嬉しそうに齧った。
「せまいのに」
 肩をすくめてみせると、ウタは微笑を返す。
「だってコーヒーをこぼすと、恋、怒るんだもの」
 すました顔で言って、ウタは流しに向かってコーヒーを飲んだ。しばらくそうして慎重にコーヒーを飲んでいたウタが、不意に、
「……あのね、恋」
 と暗い表情でカップを置く。
「やっぱり、聞かないで。あなたはなにも知らない方が、いいと思うの」
「そうだろうな」
「わかっているなら、聞かないで」
「いや」
「どうして? 律の呪いのことなら、キアランにちゃんと頼んであげる。でも、わたしたちのことは聞かない方がいいわ」
 見上げてくる銀の双眸に一瞥をくれて、恋は残りのパンを腹につめ込んだ。それから細い顎でメリッサを差し、
「もとに戻せるのか」
 と短く訊ねる。するとウタは瞳をそらし、いいえ、と答えた。
「要らないなら、壊してしまうしかないわ」
「つまり、もうもとには戻らない。戻ることはできない。メリッサだけじゃない。俺の日常も、おまえがここにいた時間も。壊すしかないんだろう? だったら、話して聞かせろ」
「恋!」
「それに、思い出したんだが。俺の昔話は高いんだぜ? その分の報酬として、話せよ」
「……タダじゃ、なかったの?」
 美しい顔を子供のように歪めて言われ、そうだっけ? ととぼけてみせる。すると、ピンク色のくちびるから溜息がこぼれた。
「なにを話していいのか……わからないわ」
「だったらまず、シャドウ。おまえは封魔って呼んだな。あいつらは一体、なに?」
「封魔は……封印の獣よ」
「ああそう。それで?」
 ウタの顔がまた歪み、くちびるを尖らせて軽くこちらを睨み上げてくる。しかししばらくすると諦めたように、パンをひと口齧った。そして、
「正体は……文字なの。ひと文字ひと文字が独立した単純な構造の命を持っているわ。それが外の世界に現出して、赤い瞳の黒い獣という形状になったの。それが、あなたたちのいうシャドウ」
「……へえ。文字、ね。ってことは、魔道書『黯い魚の歌』に記されている文字か」
「どうしてわかったのっ?」
「黒いから」
 にやり、と笑って肩をすくめると、一瞬ウタは絶句し、そして、
「意地悪」
 白い頬を軽く膨らませた。
「それはどうも。それで、本来はなにを封印すべき文字たちだ? 律のことを金の表題だとも言っていたな。魔術師キアラン・シンクレアが著した魔道書の題は、『黯い魚の歌』。その表紙の金文字を『律』と呼ぶなら、キアラン・シンクレアはそのほかの文字をなんらかの掟で縛っていた、ということだろう。文字のことを『封印されていた獣』ではなく『封印の獣』と呼ぶなら、やつらが封印していた『なにか』があるはず。違うか?」
「……その通りよ」
「キアラン・シンクレア。つまり『黯い魚』は、いったいどんな歌を文字に守らせた?」
 封印されていたものはなに。
 中身を飲み干したカップを持ったまま、濃い青色の瞳でまっすぐ、うっすらと差し込む儚い朝の光にでも煌く銀色を見つめた。
 ウタは無言で、パンに食らいつく。
 その不自然なほど美しい顔に、表情はない。
 無理やり口に入れたパンをコーヒーで胃に流し、そしてピンク色のくちびるを引き結んだ。
「……ウタ、というのは本名か」
 答えはわかっている。わかっていて、訊ねた。はじめはそれを知る必要はなかったが、いまは違う。なぜなら、
 魔術師キアラン・シンクレアは、意思を持つ魔術兵器を生み出した。
 教会は、魔道書『黯い魚の歌』の文字であるというシャドウの、その文字が浮き出た赤い瞳を集めている。
 それを知ってしまえば、あとへは引けない。
 この身を食おうとした律の目玉を飲み込んだ、自分。
 そして、この口のなかでなにか熱いような歌を歌い、ほかの人間なら放っておいた、とどこか甘いようなことを言う、ウタ。
 関わるな、と言われても、もう遅い。
「『黯い魚の歌』には、意思を持つ魔術兵器が封印されていた。違うか、ウタ」
「ほんとうに、意地悪。わかっているのに……訊くのね。でも、少し……違うわ」
 長い睫毛とかたちの良いくちびるを震わせて、ウタが小さくつぶやく。ぐ、と流しの縁(へり)を掴む指先が、いっそう白くなった。
「確かに……そう。わたしのほんとうのなまえは、『黯い魚の歌』」
 磨き上げられた刃物のような色の髪が流れて、ゆっくりと表情を隠す。そして、
「わたしは、意思を持つ魔術兵器。そして魔道書『黯い魚の歌』、そのもの。最強の魔術師キアラン・シンクレアの、最凶の破壊の歌。本に封じられていたわけじゃ、ないの」
「ウタ」
「わたしは……最も危険な魔道書で、最も忌まわしい魔術兵器」
 そう言って、人間ではないという女は白く美しい顔を上げ、にっこりと笑ってみせた。
「いつ、気付いたの?」
「……いま」
「そう。でも、ずっとおかしいとは思っていたでしょう? 人間じゃない、って」
「まさか本だとは思わなかったけどな。だが、そうだな。美人過ぎるし阿呆過ぎるから、人間っぽくないやつだ、とは思っていた」
 肩をすくめて白状すると、ふわ、と風のなかに取り残されたちいさな花のように笑まれる。
 それがとても悲しげで、痛々しかった。
「キアランはね。わたしを封印して、捨てたの。わたしがあまりに禍々しいものだったから」
「……封魔で?」
「違うわ。緑色の帯のような魔封じでわたしをぐるぐる巻きにして、ほかにもたくさん本が捨てられていた暗いところに捨てたの。封魔は違うわ」
 そうか、と静かに言って、恋は瞳を伏せる。
 それはどれほどに、寂しいものだろう。
 どれほどに、つらくて痛いものだったか。
 愛されたい。
 そう願いつづけながらも、伸ばして縋りつきたい両の手を押さえつけ。
 愛されてはいない。
 そう思い知りながらも、夢の中でさえその姿を探す。
 そして、自分を取り囲むものはただ、湿って息苦しい闇の穴。
「……けれど。それでも、愛している?」
「ええ、そうよ。要らない、ってそう言われて捨てられても、わたしはキアランが大好きよ。あなたが、いまでもデボラを愛しているように。だって。こんなわたしでも、最初はキアランも愛してくれた。キアランは、わたしを必要だと言ってくれていたわ」
 でも、と搾り出すように言ったウタの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 しずくは震えるカップのなかに落ちて、いくつもいくつも波紋を描く。
「騙されていた」
 濡れた瞳は、くちびるが凍えた声を吐き出すと、鋭い憎悪に閃いた。
  

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