「…………リ、ツ?」
「今朝、殺したでしょう。左の耳に、穴が開いていたわ」 ああ、とあの悪魔のようなひときわ大きいシャドウの姿を思い出す。そして、低く嗤った。 「目玉を、抉ったから」 呪われて当然、とふたたび瞳を閉じる。しかし、 「そうじゃないわ。呪いは背中の傷と一緒に受けたのよ。恋。あなたこのままじゃ、死ぬわ」 「そう」 「そう、って……怖く、ないの?」 もちろん死ぬのは怖い。けれど死と隣り合わせのこの町では、呪われて死のうが喉を掻き切られて死のうが、シャドウに殺されようが人間に殺されようが、たいして違いはない。誰もがいつかは死ぬ。少しばかり潔癖ぶっていたとしても劣悪な環境ではどうせ、それほど長くは生きられない。運良く白髪頭になるくらいに生きたとしても、体力が落ちればその分いまよりもずっと簡単に殺されてしまう。 それに、別にいまここでこうして死ぬのも悪くないような気がした。 ウタが何者だとか。そんなことを知らずに、彼女の白い腕のなかで終わるのも。 「恋、律の瞳はどこ?」 ウタが銃を包んだバスタオルをひっくり返す気配がした。一緒に包んでいた革の袋を開けて、一対の赤い目玉を白いてのひらに落とす。 「律のものだわ。良かった、これが教会に渡ってしまわなくて」 「……なぜ、わかる」 ぼんやり瞳を開けると、ぐい、と目玉を差し出された。ウタまで濡れそぼち銀の髪を白い肌に張り付かせながら、目玉の赤い部分を指差して見せる。 「よく見て。文字が見えるでしょう。あなたたちがシャドウと呼んでいる獣にはみんな、これがあるわ。おなじ文字の瞳を持つシャドウは、おなじ形態をしているの。全部で四十三種。ただし、律とおなじ形態のシャドウはほかにいないわ。この文字を持つ瞳はたった一対だけ。だって律は、金の表題だもの」 しかし、文字だ、と言われたそれは、恋の瞳にはただ複雑なだけの模様にしか見えない。真紅の奥にうっすらと光る金色の模様だ。 ウタがなにを言いたいのか、よくわからない。ただひどく眠くて、身体を叩く湯に全ての体力が攫われて、そのまま排水溝に流されていくようなのだ。 細い指に無理やり顎を掴まれ、鋭い刃物のように光る銀の双眸が、ぐい、と近くなった。 「眠ってはだめ。恋。よく聞いて」 なに、とくちびるを動かすが、声は出なかった。 「あなたはいま、律に命を吸い取られている最中なの。傷の呪いが律を覆う血肉の死によって発動したのよ。外界では血肉がないと無力だもの。律が外界で無力化すれば現出している封魔はまとまりをなくし、ただ凶暴なだけでなんの目的もない獣になってしまう。律は、ほかの封魔たちとは違うわ。ほかの封魔をまとめる封魔だもの。だから律は呪いをかけるのよ。外界で律を守る血肉が機能しなくなれば発動する、呪いを。ねえ、わかるでしょう」 わかるでしょう。そう訊かれて、苦笑にくちびるを歪めた。 背中が熱くて、思考が流される。 そこから胸の奥の方に低く響く声が、先ほどからずっと呼んでいるような気がするのだ。 眠りの淵は深くて、暗い。 シャドウの毛色と同じ色の闇が、こっちへおいで、と啼いて呼ぶ。 そこにかすかに光る金色を、もっと見たくて、月のない道をただ歩いていくような。 「恋。あなたはこのままじゃ死ぬ。そして律になるわ。あなたは、律の一部になってしまう。徐々にあなたの命を吸い取った律は、やがて闇の塊となったあなたの身体を、律を覆う鎧としての新しい血肉に再構築する。そうしてあなたは、律のものになってしまうのよ」 「……は」 それは嫌だな、と笑おうしたが上手くいかなかった。 背の傷が、激しく痛みだしたのだ。 まるで、塞がったはずの傷が裂けて、全身にひろがるように。 心臓を貫いて脳を突き、心を破る。 噴き出して纏わりつく血は赤ではなく、どろどろとした黒い闇。 「飲んで」 ぐ、とくちびるに押しつけられたものは、やわらかく吸いつく不快な弾力を持つものだ。 「呪いを解く力はわたしにはないの。けれどその進行は、ある程度の期間殺してあげられる。だから、飲んで。体外にあるより体内にあるほうが、律が動き出した時、対抗できるわ」 細い指の先に力が込められ、くちびるに押し当てられていたものが、ぐしゃり、と潰れる。どろり、と白い手指をタールのようなものが汚した。そしてそれは、恋のくちびるをも汚す。 きついシャドウの血の臭いに、眉を寄せて顔を背けようとすると、こちらの顎を押さえるウタの指に力が込められた。 律に食べられたいの、と低く甘く問われて、うっすらと瞳を開ける。 「あなたを二度も殺そうとしているシャドウよ。ずっと、律は見ていたわ。ほかの封魔たちのなかから、ずっとあなたを見ていた。でも、律があなたをもう一度襲うことはなかったはず。なぜかわかる? 律に襲われて生き残る人間は稀少だからよ。律が人間を襲うのは、もしも自分の血肉が滅んだその時、再構築に必要な新しい血肉をすぐに得るため。けれど、新しい血肉となるものが弱いものであるのなら、封魔は満足しない。だからほかの封魔たちはあなたでも襲い、律はただそれを見ていた。律は、律の爪によってすら死ななかったあなたの命の力を、ずっと試していたのよ。そして今朝、広場に集まった封魔をわたしが一掃しようとしていることを、律は覚った。だからわざと、あなたの銃のまえに飛び出した。古い血肉を捨てることでわたしの攻撃から逃げて、そして呪いを発動させ新しい血肉を得るために。そんなシャドウになりたい? 律に全てを捧げてしまう? それが嫌なら口を開けて」 開けまいとするおのれのくちびるを、恋は無理に動かす。ぎし、と鳴った歯を開き、そして潰れた律の目玉に立てた。 ぐ、と口中に無理に目玉を押し込む指をきつく噛んでしまうが、ウタは顔色ひとつ変えない。不気味なほど静かな表情で、おのれの血ごと目玉をこちらの喉に押し流そうとしていた。 生臭い血の味に、酷い吐き気と眩暈がする。 指が引き抜かれると同時に吐き出そうとすると仰のかされて、くちびるで冷えたくちびるを塞がれた。 顎を掴んでいた手が背の醜い傷に触れ、異常な熱を発す。 口中で、ウタがなにかを歌うように言った。 息ができずに、ごくり、とその言葉ごと、血と目玉を飲み下す。 胃に落ちた目玉と痛む傷の上にある熱が、闇に冷え行く血肉を隔てて、熱く啼き合った。 そして急速に、痛みが引く。 くちびるが離れた途端ウタを突き放し、貪るように息をして激しく咳き込んだ。 ぼたぼたと、赤黒い血が繰り返し吐き出す荒い息とともにくちびるから滴り落ち、排水溝で渦を作っては流れていく。 あまりの疲労に、身体が傾いだ。 このまま倒れると頭を打つな、としかし妙に冷静にそんなことを思ってみる。 「だいじょうぶ」 ウタが言った。 だから少し、眠るといいわ。
ふと目を覚ますと、ウタの白く美しい顔がオレンジの光のなかに現れた。
「良かった。目が覚めた」 「どう、なった……?」 ひどくかすれた自身の声に恋が戸惑うと、くす、とピンク色のくちびるから笑みがこぼれる。 「だいじょうぶ。恋は恋のままよ」 そう教えられて、深く息をついた。 薄暗い天井を眺めながら、毛布を掛けられた腹に手を当てる。 「……シャドウになったのかと思った」 ぼんやりつぶやくと、白い手に頬を撫でられた。そのひんやりとはしているもののやわらかなその感触に、恋は安らかな気持ちで瞳を閉じる。 「ありがとう……ウタ」 瞳を閉じたままで言うと、微笑みの気配がふわりと漂った。だがそれはすぐに消える。 「でも……わたしには律の呪い消すことはできないの。ごめんなさい」 「進行を遅らせるだけ、だったか。期限つき、だろう? 耳に聞こえてはいた」 「ええ。いまは律を混乱させているだけなの。でも、安心して? 律が目覚めたらまた呪いの進行を遅らせてあげる。それに、キアランなら律を完全に消すことができるわ」 「ウタが見に来なかったら俺は、あの悪魔みたいなやつに吸収されていたのか」 「……ほかの人間なら、放っておいたわ」 恋が瞳を開けて見つめると、元のピンク色の花弁のようなワンピースを着たウタは、少し肩をすくめてみせた。 「わたし、恋にキアランを見つけてくれたお礼をしなくちゃいけないもの。だいじょうぶ。お金ならきっとキアランがくれるわ」 「もういい。助けてもらったんだ、金なんかもらえない。もし、キアラン・シンクレアが俺のなかの律を消してくれるって言ってくれるなら、俺の方が金を払わなきゃ、な」 「恋が払う必要はないわ。わたしは恋を……巻き込んでしまった」 声音低く、ウタが言った。その瞳は闇の向こうを見つめて、鋭く凍えている。 「律の呪いなら、おまえに会う以前からのことだ」 するとウタは、ゆるり、と首を振った。 まだわずかに湿っているらしい銀糸の髪が肩を流れ、長い睫毛が頬に濃く影を落とす。 だが、ピンク色のくちびるは閉ざされたままだ。 シャドウのことを封魔と呼び、この背に傷をつけた悪魔のようなシャドウを律と呼ぶ。 石像を思いのままに動かしてシャドウを一瞬で消し去り、そして呪いの進行を、遅らせた。 父親だという捜し人は、教会から追われているという強力な魔術師。 その女には深く関わるなよ、恋。
魔術師ではないが魔術師同様に教会から追われているガンスミスは、そう言った。
そしてそれには、わかった、と答えたはず。 だが、瞳を閉じて、恋は言った。 「つぎに目が覚めたら、聞かせてもらうから。シャドウと、おまえたち魔術師のこと。それから、教会が赤い目玉を集めている理由」 「恋、それは……」 だめ、と言おうとする相手に背を向けて、毛布を肩に引き寄せる。 「……あと、全裸の俺をベッドまで運んだのは、どっちか」 傷の向こうで、ウタの慌てる気配がした。 それに、くす、と笑って、恋は久しぶりの穏やかな眠りに、落ちる。 |