瓦礫の影から広場を覗くがシャドウの気配はない。
 あれは一体なんだったのか、と銃の『デボラ』を腰のホルスターに戻しつつ瓦礫を越えた。すると頭上から、カアアッ、と意地の悪そうな鳴き声がする。しわがれたような声で鳴くシャドウと同じ色の鳥が、先ほどと同じ場所からこちらを睨み下ろしていた。
 そういえば返すのを忘れていた、と思いつつ黒い羽根のマフラーを指先でつまみ、に、と笑ってカラスに見せつけてやる。
「いいだろう、コレ」
 ひらひらとカラスの羽根を振りながら広場に入った恋は、しかし、臭いのひどい噴水のわきを通り、思わずがっくりと項垂れた。
 やはり、あるはずのものがそこにはない。
 顔をしかめつつひろくなり通りやすくなったままの階(きざはし)を上がって、そっと扉を開けてなかを覗き、即、閉めた。なかに入りたくなくて階に座り込み溜息をつくと、内側から勢い良く扉が開き、恋の服を着たままのウタが嬉しげに飛び出してくる。
「お帰りなさい、恋!」
 隣に座り、恋の顔を覗き込みながらウタはにこにこ笑った。その顔をあえて見ないまま、ただいま、と言うと恋は諦めて立ち上がり、開いたままの扉の内にふらふらと入る。
 エントランスホールには、壊れた棚や散乱していた紙切れや屑をてきぱきと片付けている、半分顔を失った働き者の石像メリッサの姿。
「恋は綺麗好きでしょ? だからお掃除してたのよ。見て!」
 くるり、と銀髪の輝きを散らしつつその場で回って見せるウタに、頭痛がした。
 シャドウやほかの人間が侵入してもすぐにわかるように、わざと片付けなかったというのに。黙ったまま小部屋に続く扉を開けると、くら、とさらに眩暈がした。
 床に散らしていた硝子のかけらも、キレイサッパリ消えている。
「ねえ、どうしたの? この黒いふわふわ」
 くすくす笑いながらマフラーを触るウタを、恋は力なく睨んだ。
「もう、片付けるな。やめさせろ」
「どうして? 綺麗にしているのよ?」
「……やめさせろ」
 声音を低くして短く繰り返すと、わずかに怯えたらしいウタはぎくしゃくとうしろを振り返り、もういいわ、とメリッサに命じる。すると、ぴたり、と石の腕の動きが止まった。
「そこで見張りをしていて」
 つぎの命令を聞いたメリッサは重くうなずき、エントランスホールの中央で、そのまま動かなくなる。二度と動かないでくれ、と内心で願ってみた恋だったが、時おりメリッサは左右に顔を向けてしっかり見張りをしており、ただの石像にはもう戻ってくれそうにはなかった。
「遅かったのね。なにか、あったの?」
 おずおずと訊ねてくる声には知らない振りで部屋に入り、どさり、と椅子に座る。
 コーヒーはカップに入ったままで冷めていた。トーストは食べかけで皿の上。
 あとは朝となにも、変わっていない。
「食べなかったのか」
 四十四口径の新しい銃が入った重いホルスターをテーブルに置き、深く息をつく。
「ごめんなさい」
 悲しげに睫毛を伏せるウタの顔を見ないように瞳を閉じて、もういい、と首を振った。
 そしてマフラーを取りつつ、教えてやる。
「キアラン・シンクレアの居場所がわかった」
「ほんとう?」
「ああ。ここからそう離れていないところに隠れているみたいだな。急ぐか?」
 溜息のように言うと、しばらくウタは沈黙した。瞳を開けてその凄絶なほどの美貌をまっすぐに見つめると、ウタは静かに首を横に振る。
「いいの。急がないわ」
 そうか、とそれに短く返事をした恋は、服を着たままシャワールームに入った。しかし、ふと思い出してバスタオルを取りに戻り、『デボラ』と『ダレル』の両方の銃をそれにくるみ扉のまえに置く。そして、二本のナイフとともに扉の向こうに引っ込んだ。
 ふと鏡に映った自分の顔に、恋はくちびるを歪める。
 予想以上に、酷い顔。
 ウタが怯えても仕方がない。恋はゆるく首を振ると、蛇口を捻って鏡に映った自分の顔にシャワーの水をかけた。
 それから徐々に温まりはじめた水を、脱ぎ捨ててボディシャンプーをかけた青いセーターとジーンズにかける。
 裸の背を、ぬるい湯気が撫で上げた。
 とたんに、ぐるり、と世界が曖昧なかたちになって回ったような、重い眩暈に襲われる。
 あっという間に曇った鏡へ、輪郭のぼやけた自分の顔を隠すように、両手をついた。
 なにか、どこかがおかしい気がした。
 これは眠気なのか。
 疲労にしてもおかしくはないだろうか。
 こちらを包み込もうとするかのようにどこからか湧き上がる、この濃い血の臭いはなんだ。
 眩暈は酷くなる一方。
 さっさと服と身体を洗ってベッドに沈みたいのに、身体がまったくいうことをきかない。
 手指の先から徐々に、全身を痺れが浸食していく。
 まるで得体の知れない薬でも嗅がされたかのよう。
 肩のあたりを打つシャワーの温度が上がるほどに、身体の底から押し寄せる泥のような重みは強くなり、立っていられなくなった恋は崩れるようにタイルの上に座り込んだ。
 瞳を閉じて、震える膝と肩を抱える。
 そうしてそのまま深い眠りに落ちそうになったその時、不意に背後の扉が開いて、流れ込んだ冷たい空気が湯気を押した。
 いま銃を突きつけられても、動けない。
 無理に顔を上げると、銀色の瞳を瞠ったウタが声もなく背中の傷を見つめていた。
 以前シャドウに引っ掻かれたことは教えていたはず、とぼんやりと曇りが薄れた鏡の向こうのウタを眺めていると、す、とかたちの良い銀の双眸が細められる。
 ひどく、冷たい瞳だった。
「……なに」
 かすれた声で訊くと、ピンクのくちびるが動く。
「あなた……呪いをもらっていたのね」
 不吉な言葉を、暗いというのにどこか甘いような声音で、ウタが言った。
 
「律に、呪われているわ」
 
  

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