「なあ。そういや、メリッサはどうしたんだ? まっさか、盗まれちったのか?」
 だとしたら怖いもの知らずな泥棒だぜ、と赤い目玉を入れた革袋の重みに機嫌良く鼻歌を歌っているアートに、キャサリンが待つバーに向かう途中で言われ、それなら良いんだが、と思わず遠くを見てしまう恋だった。
「なんだよそれ。あ、わかった。今日の祓いでメリッサも壊したんだ。な、そうだろう?」
「悪いけど。いまメリッサの話はしたくない」
 あっそ、と細い階(きざはし)を上がった二階で、危険な夜間でさえ店を開けているバー『フォースター』の扉を開いたアートは、軽く肩をすくめる。
 腕利きと知られるふたりが揃って入っていくと、『フォースター』の常連たちからは、やたらと親しげな挨拶だけでなく、羨望や嫉妬という眼差しをもいっせいに寄越された。しかし、それらのほとんどを見ないふりで原色のライトと賑やかな音の洪水のなかを歩き、やがてこの店のマスターがいるカウンターそばで待っていたキャサリンを見つけると、恋はすぐに綺麗に化粧をした新人ダンサーに引き合わされる。
「この娘(こ)がね、キアラン・シンクレアのことを知ってるんですって。ローズっていうのよ」
 ショー用のラメが煌く露出の高い衣装に身を包んでいるというのに、恋と瞳が合うなり恥らってうつむいたそのダンサーは、まだ幼さの残るおとなしげな少女だった。
「意外にはやく見つかったでしょ? 良かったわ。恋の探してる作家さんが有名みたいで。それじゃあ、あたしはあっちで飲んでるわね。用があったら声をかけて。ほら、アート! あんたもこっち来なさいよ! あんたがじろじろ見るからローズが緊張してるじゃない!」
 カッワイ〜、とローズを見てにやけるアートのすねを軽く蹴りながら、キャサリンが言う。
「おい、恋。話聞くだけだからな!」
 腕を引かれつつもしっかり念を押してくれるアートに苦笑しながら手を振って、さて、と真っ赤な顔でうつむくローズに恋は向き直った。
「仕事の邪魔をしてすまない」
 楽屋の、派手な色の造花や舞台の写真で飾られた大きな鏡。
 そのまえの椅子に腰を掛けて、まずは謝った。彼女以外のダンサーたちはショーの真っ最中で、楽屋にはふたりきりなのだ。マスターには話をしてあるが、迷惑をかけていることに違いはない。
「さっそくだが、どんなことでもかまわないから、キアラン・シンクレアのことを教えてくれ」
 そう言うと、こくり、とローズはうなずいて、自分の鏡に貼りつけていた紙切れを取った。
 ずらりと並ぶ、細かい文字。
 それを受け取って軽く目を通した恋は、これはなに、とローズを見つめた。
「あの……それ、ショーで失敗してしまわないように、あがらないための呪文、なの」
 呪文、と低い声でくり返して言うと、あの、と真っ赤な顔が慌てて上がる。
「教会には……内緒にしてくれる?」
「オーケー」
 うなずきつつ、紙切れを返した。
「キアラン・シンクレアは……魔術師なの」
「はは」
 思わず笑ってしまう。
「笑わないで? とっても凄い魔術師なのよ。『黯(くろ)い魚』って呼ばれていて、魔術界では有名なの」
「ああ、すまない。で、それって……石像を生き物みたいに動かしたりなんて、できるのか?」
「『黯い魚』なら、できるわ」
 絶対に、と両手を組み、ローズは瞳を輝かせた。そしてふと思いついたように引き出しをガタガタと開け、一冊の薄い本を取り出す。それを胸のまえに両手で支えてこちらに見せ、
「この本に、彼のことが書いてあるわ。『黯い魚』の力を恐れた教会が、手をまわしたみたいで、いまは発禁になっちゃってるんだけど」
「……なんで、ローズが持ってるんだ?」
「わたし、占いとかおまじないに、興味があって。だから初心者向けのこの本を……もちろん、発禁になるまえだけど……買って、そして『黯い魚』のことを知ったの。見てみる?」
 恋はうなずき、本を受け取る。軽くめくっていると、ここよ、とローズがあるページを指差した。そこを、読み上げてみる。
「『キアラン・シンクレア。生年などは不明。「黯い魚」という二つ名で呼ばれた極めて強力な魔術師で、意思を持つ魔術兵器を生み出したと言われている。しかし、魔術を異端の力と怖れた教会より追われ、逃亡のすえ辿りついたフロストロイドで魔道書「黯い魚の歌」を執筆。その後、消息不明となった』へえ。魔道書に、意思を持つ魔術兵器、ね」
「でもその本は、少し間違っているみたい。ほんとうは、その意思を持つ魔術兵器は頼まれて作ったものだったのに、それがあんまりすごいものだったから、逆に追われることになったみたいなの。教会から」
「……つまり、教会に頼まれた? 兵器を?」
「って……聞いたんだけど……」
 ごめんなさい、とローズは言うと、また赤くなってうつむいてしまう。それに恋は、小さく首を横に振ってやった。
「じゃあローズは、キアラン・シンクレアがどこにいるかまでは、知らないよな」
 するとローズは少し顔を上げて、もしかしたら、と首を傾げる。おとなしい彼女にはあまり似合わない、派手なピンクに染めた爪を、同色のちいさなくちびるにちょっと当てて、
「おじさんなら、知ってるんじゃないかしら? わたしが魔術に興味を持ったのは、おじさんが、この呪文を教えてくれたからだもの」
 そう言って、ショーであがらないための呪文を書いた紙切れを、丁寧に鏡に貼り直す。
「おじさん? ローズの?」
「ううん、違うの。なまえを知らなくて。魔術師にはちょっと詳しいみたいだけど、お仕事はガンスミスなの。わたしも護身用に小さな銃を持っているんだけど、お手入れの仕方とか苦手で。それで、おじさんによく面倒を見てもらっているの。なまえのない小さなお店を開いているんだけど、腕はとってもいいわ。でも、すごく恥ずかしがり屋さんなの」
「ローズとおそろいだな」
 にっこり笑ってやると、ローズは恥ずかしそうに微笑んでうつむいた。紹介してくれるか、と訊ねると快く引き受けてくれる。
「いまから行ってみる? 気まぐれな人だから、お店が開いているかはわからないけど」
「ショーは?」
「つぎのわたしの出番はまだ先だから、平気。マスターに言ってくるから、少し待ってて?」
 オーケー、とまた笑ってやると、首のあたりまでを真っ赤に染めたローズは慌てて椅子を立った。しかし楽屋を出て行きかけたローズは、あ、と小さく声を上げて立ち止まり、
「……でもアートが、お話だけ、って言っていたんだった……どうしよう」
「ああ、そうだっけ? でもアートのことは放っておいていい。どうせショーに見入っていて俺が出て行っても気付かないさ」
 そう? と首を傾げつつマスターを探して楽屋を出て行ったローズの鏡のまえで、恋は手に持ったままの本をもう一度軽くめくり、そしてゆっくりと頭を抱える。
「魔術師に教会。どうもヤバイ仕事を引き受けたみたいだな。やっぱり、メリッサが動いたのは幻覚じゃない? ウタは一体、何者だよ」
 彼女もやはり、魔術師、なのだろうか。
 魔術など、教会側がでっちあげただけの話だと思っていたというのに。謎の獣シャドウをまえにしてすら、魔術なんてものが実際に存在するとは思いもしなかったというのに。
 だが、キアラン・シンクレアの居場所さえわかれば、そこまでウタを連れて行って、それでこの仕事は終わりだ。この際、報酬なしでもこれ以上面倒事に関わるよりは良いよな、とそう思い、余計な考えを追い払うように首を振っていると、ローズが戻ってきた。
 襟と袖にフェイクファーがついたボルドーのコートを、蝶の鱗粉のように鮮やかなラメが輝く衣装の上からはおったローズは、お待たせ、と言いつつ走り易そうな靴に履き替える。
「レン、そのままで寒くないの?」
 薄手のセーターとジーンズのみのこちらの格好に、心配そうに首を傾げられて、
「ああ、そう言えば」
 すっかり忘れていた、とだいぶ冷えたらしい肩をすくめてみせる。そして、これでは銃を抜くのが遅れるな、と苦笑した。
 自分ひとりなら、まんがいちのことがあっても自業自得だと嗤われるだけだが、ローズがいる。案内してもらうのなら、しっかり守ってやらなくてはならない。
「もう少し待っていて? わたし、マスターにコートを借りられないか訊いてくるわ」
 しかし、慌てて出て行こうとしたローズを、恋は止める。そして、裸電球に煌きをこぼす色鮮やかな衣装とともに並んで衣装かけにかけられた、黒い羽根のずるずると長いマフラーを指差し、それでいい、と言った。
「え……でも、それはちょっと、レンには似合わないんじゃないかしら。だって、カラスの羽根よ、それ。だめよ」
 しかし恋は、に、とくちびるの端をつり上げる。
「だから、これでいいんだ。今日はちょっと、カラスに嫌がらせをしたい気分だからな」
 黒いマフラーを受け取った恋は、一度だけゆるく首に巻いて両端はそのまま背に垂らす。それから少し肩と首をまわすように動かした。
「オーケー。行こうか」
 困り顔でありながらもうなずいたローズを連れて楽屋を出ると、案の定、アートは舞台の上の半裸のダンサーに瞳が釘付けになっていた。キャサリンの方は馴染みの客を見付けたらしく楽しげに酒を飲んでいて、こちらには気付かないようだ。いまのうちに、とマスターに軽く手をあげ挨拶をして、店を出た。
  

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