ケイは、ゆっくりと首を振った。
「いい。行かない。そんなの、見たくないよ」
 そう小さく笑ってみせると、魔王はケイの手を離す。
「オレね、リューとは綺麗なものが見たいよ」
 喜んでくれるか、と思った。
 けれど、リュシーダサンイは悲しげに、美しい瞳を伏せる。
「この世界に散らばるものは、なにも綺麗なものばかりではないよ。ケイ」
「……リュー?」
「ケイには綺麗な心でいてもらいたい。だが、綺麗ではないものから瞳を逸らすことは、はたして、綺麗なことだろうか」
 リュシーダサンイは、ゆっくり首を振った。
 金が混じる赤い髪がそのたびに揺れ踊り、ちりり、と小さな鈴の音があとを追う。
 きゅ、と小さな手に握られた、獣の爪のかたちをした紅玉は、涙のような光をこぼした。
 そして震えるくちびるが、ケイ、という名を呼んで、
 

「逃げる口実に、リューを、使わないで」
 

 ケイは大きく瞳を瞠る。
 その言葉は、まるで、胸に深く打ち込まれた杭のようだった。
 瞳の奥が、ぐ、と熱くなる。
 くちびるを噛んでみるが、堪えきれなかった。
 じわり、とリューの輪郭が滲み、赤と金の色が流れていく。
 顎が痛くて、言葉が喉から出て行かない。
 だって、言葉を打ち込まれた胸が、冷えて。
 痛む。
 

「……ごめん。ひとりに、して」
 

 やっと言ったのは、そんな言葉だった。
 



 


 好きだということの理由に、『完璧なる無属性体』などというものは、さして重要なものではない。
 けれど、そうでなくとも好きになったかと言えば、そうでもない。
 なぜなら、結局それは、ケイ・イーリィという存在をつくる要素にすぎないからだ。
 ケイ・イーリィは確かに、人のなかにあっては特殊と言えるだろう。
 なぜなら、悪意というものから縁遠い人の子、というものは、それだけ珍しいものだからだ。
 だが、そうかと言って、善意のために自分を捨てるような者でもない。
 そういった意味では、すこし。
 似ている、と言えるのかも知れない。
 似通うものは、引き合う。
 似通うものがあるからこそ、惹かれる。
 それは、この身を唯一支配する、世界の法則のひとつだ。
 だがそれを引き去ったところで、残るのはむなしさだけでは決してない。
 瞳が開いたばかりの赤子のような、世界の入り口にようやく立ったばかりのあの子どものそばは、なんとも言えず心地が良いのだ。
 あの子どものまえでなら、本性(すべて)を曝け出しても良いかと思えるのだ。
 そのすべてを、あの子どもなら、綺麗だね、と言って笑ってくれるだろう。
 そう。
 『完璧なる無属性体』は、ケイ・イーリィの個性のひとつでしかない。
 それに、この瞳から見て厳密に言うならば、あの無属性を『完璧』とは言わない。それは人の子の群れにあるから、『完璧』というだけのことだ。
 人、という枠内にあること。
 それはつまり一属にあるということだ。
 そもそも人というものには、完璧なものなどない。
 だからこそ、鏡に怯える。
 おのれの醜いところを映すものを、怖れる。
 そうして『魔族』という名の鏡を祭り、『完璧なる無属性体』を鏡として祭り上げる。
 見えないところへと隠し、おのれを守る盾とする。
 

 ああ、なんて。
 人の子、ってめんどーな生き物。
 ケイってば、はやく気付かないかなー。
 そしたらもっともっと、リューが遊んであげちゃうのになー。

 


 
 

『逃げる口実に、使わないで』
 そう言った魔王の悲しそうな顔が、まるで目蓋に焼き付いてしまったかのように、離れなかった。瞳を閉じると、あの泣き出しそうな声音とともに、思い出される。
 言葉を打ち込まれた胸は冷えて、今ではひりひりとひどく痛むのだ。
 おぞましいもの、の鏡はきっと辛い。それを映されたおぞましいもの、も辛い。
 けれど、リュシーダサンイはそれを『構わぬ』と言った。
 オレのためにリューが覚悟したことだったんだ、といまは思う。
 ようやく海から生還したトゥーランディアの帆船『リリールシカ号』の乗組員が、敵意剥き出しの巨大竜に襲われふたたび海に落ちるさまを、大樹の幹から顔を覗かせ見ていたケイは、ふ、と溜息をついた。
 青石の鱗を輝かせる竜は、ぶるぶると巨体を震わせ、吊り上がっていた瞳をつぶらにすると、急速に収縮し、ぽて、と音を立てて地面に落ちる。ひょこひょこと鶏のように頭を振りながら、ひどく消耗したようすで去り行く姿は、とても痛々しいものだった。
 けれど。
 リューはそれを、『構わぬ』と言ったのだ。
「ごめんね……リュー」
 たぶん。ううん。きっと。
 傷付けたよね。
 はじめてできた、大切な友だちなのに。
 でも、自信がないんだ。
 おぞましいもの、を見て。
 おぞましいもの、を映したリューを見て。
 それを見て、自分はマシだ、なんて思う。
 きっと、そう思ってしまう。
 それは自分がもっとおぞましいものになる、ということ。
 そうしたら、魔術の一部になるしかない。
 だってそんなの、リューに見せられないから。見せたくないから、自分を隠すしかない。
 リューの言った、逃げるな、は『鏡の封印』になれ、ってことじゃないよね。
 それはね、リュー。わかるんだ。
 リューと綺麗なものを見てみたい、って言うのはほんとうだよ。
 でもね。やっぱり怖いんだ。
 自分がどうなってしまうのか、ひどく怖い。
 この世界が美しいものだけで構成されているわけではないことは、なんとなくわかる。
 鏡は、綺麗なものだけを映す、だけではないことも、なんとなく知っている。
 鏡は昔々から、魔術と関わる道具。
 御伽噺(おとぎばなし)にも、不思議な鏡はたくさん出てくる。
 鏡の表面は綺麗なものを映すけれど、見えないところに映すのは、何も綺麗なものばかりとは限らない、てこと。
 ミリードの鏡は、真白な髪と肌の中性体。
 ミリード王と都の繁栄と安全を祈る、尊い存在。
 けれど同時に、それらに向けられる悪意や攻撃のすべてを一身に受ける、ただの犠牲。
 気が狂うこともあるらしい、と聞いた。
 『鏡の間』という部屋にたった独りで籠められ、絶えることない悪意に心を晒すのに耐えられなくなり、自分で自分を殺そうとする、と。そうなった場合は、強い薬で命が尽きるまで眠らせるしかないのだ、と。
 そんなの、嫌だ。
 ようやく自分の足で草のやわらかさを知り、ようやく自分の手で木の温もりを知った。
 ようやく自分の瞳に、その下に流れる血の色以外のものを、映すことができたのに。
「リュー。オレ、怖いよ」
 ひとりつぶやいて、『リリールシカ号』の乗組員が落ちた海を、見つめた。
 澄んだ空と、煌く海は、ずっと遠くでひとつに溶けている。
 眩しい。
 瞳が痛い。
 でもどうしても、見ていたかった。
 


 


 

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