もっと、もっと。
 色んなものが、見たいのに。


 そのとき。
 ふと、影が差した。
 え、と振り仰ぐところに、体格の良い人間の男がひとり、立っていた。
「これはこれは。『完璧なる無属性体』じゃねえか。その服はどこで手に入れた。え?」
 素敵に盛り上がった剥き出しの上腕には、トゥーランディアの軍人である証の刺青(いれずみ)。
「……ありゃ」
 いつも以上にぼんやりしてしまっていたようだ。思わず、苦笑に頬が引きつる。
「へらへらしやがって、全く気色の悪いガキだ! そんだけ着飾ってんなら、近くに人間の住処があるってわけだ。だったら、テメエ」


 死ね。
 

 そう、真正面から殺気を突き付けられて、身体が情けなく竦んだ。
 気色の悪いお前にもう用はないのだ、と。
 そう言われて。
「テメエのせいでこんなひでえ目に遭ってんだ。どうせ殺す予定だったんだし、いまオレが殺しても誰も文句は言わねー。そうだろ?」
 そうですね、とうなずきたくなった。
 けれど、またあの魔王の顔が浮かぶ。
 ダメ。
 絶対に、うなずくもんか。
 滝のように流れる髪を手荒に掴まれ引き寄せられて、喉を押し潰そうと伸びる太くて強い腕を、必死に掴み返した。
「い、やあぁっ!」
 嫌だ。死にたくない。
 怖くて、思わず瞳を閉じてしまった。
 けれど左手を上げて、男の顔を押す。
 すると、
 

 バチィ……ッ。
 

 突然、放電するような音。
 そのあとに、ぎゃあっ、という悲鳴がつづいた。
 おそるおそる瞳を開けると、なんと男が顔を押さえて呻き苦しんでいるではないか。
 これはなに、とケイが瞳を瞠るまえに、
「……このクソ、ガキがぁっ」
 まるで飛んでいる小さな羽虫でも叩き落すかのような勢いで、こぶしを振り下ろされた。
 だがしかし、
 

「触れるな、薄汚い蟲め。捻り潰してくれる」
 

 地を這い空気を震わせる、ぞっとするような低い声音が、聞こえた。
 すぐ背後に、凄まじい殺気が、もうひとつ。
 まさか。
 大きな身体の男が、派手に弾け飛んだ。
 ケイは、振り返る。

 
 燃えるような赤に、踊る金。
 

 全身が怒りに燃えているかのような姿が、そこにはあった。
「リュ、リューなの」
 そう思わず訊ねるのも、無理はない。
 魔王リュシーダサンイは、燃えているのに凍てついた、苛烈で冷酷な瞳を男に向けていたのだから。
 その姿ももはや、子どものものではなかった。
 男でありながら、女でもある、妖しく美しいモノ。
 人のようでありながら人ではあらざる、神聖で禍々しいモノ。
 凍りながら燃える炎は、太陽というよりは赤い月。
 怒(いか)れる魔族の王は、おそろしく美しかった。
 花模様の金の枠と柘榴石(ざくろいし)の縁飾りのついた赤い布の下には、丸くて豊かな乳房。折れそうなほどに細い、くねる腰。それらはとても魅惑的な女のものだというのに、その背や四肢は強靭で、甘さの欠片も感じられない雄々しいものだった。
 背には、紅玉の爪を持った、蝙蝠(こうもり)のもののような二対の赤い飛膜(ひまく)と、さらに金色の羽毛に包まれた一対の翼。
 そして、三本の太い蛇のような尾が伸びて、重い音を立てて動き、威嚇する。
 その爛々たる眼光で射殺さんと睨む双眸は、生温かい血に濡れきつく輝く、双つの月。
 真白い肌は、真珠のような輝きを放っている。
 血を啜ったように赤いくちびるが、動いた。
「オレは警告したぞ、蟲。ケイに触れるな、とな。その痛みがいまだ消えぬうちからケイを手に掛けようとは、救いようなく愚か」
 氷片が散るような、焼けた鉄粉が降るような。
 甘く冷えた、美しくも恐ろしい声音。
 それを耳にしただけで、魂が圧し潰されるのではないか、とこの世界にあるすべての生物が震え上がるだろう。
 けれど、ケイは守られていた。
 それだけは、わかった。
 左の人差し指を見ると、鉄を熱したときの輝きを持って、そこに巻き付けた魔王の髪の毛がケイを守るように光っているのだ。
 一歩、魔王が自身の放つ炎のような赤い力を踏みしめて寄ると、ビシリ、と幾億の時を経た分厚い氷が砕けるような音が立つ。
 それに、まるでこの世の終わりを見るかのように、なす術もなくただ震えているだけの男は、ひっ、とその喉に悲鳴を飲み込んだ。
「ダ、ダメだよ、リュー」
 腰が抜けたまま、ケイは必死に首を振る。
「この人、殺さないで。ダメ、だよ」
 ふと、呆れたように、魔王が視線を寄越した。
「……せめて」
 ケイはちょっと、震える肩を竦めてみせる。
「この低い崖から、うまく海に蹴落とすくらいにしといてあげてくれる?」
「はあぁっ?」
 男がなんとも間の抜けた声を上げた。
 助けてくれないのかよ、と自分のことは棚に上げて、非難するようにケイを見る。
 そして、
「あいわかったのだ」
 にかっ、と子どものように、魔王は笑った。
 つぎの瞬間、ぽお〜ん、と鞠(まり)のように蹴られた男は、弧を描くように宙を回転しながらも、なんじゃそら〜っ、と叫び、ざっぱあぁん、とむなしく海に消えた。
「ん〜。なんかちょっと、おちゃめな人?」
 目の上に手を翳(かざ)して男を見送ったケイが、そう言いつつ首を傾げると、
「ケイ。それ、まちがい」
 と魔王にまた呆れられた。
 くすくすくすくす。
 真赤なくちびるから、しかし、笑みがこぼれる。
 広げられていた六枚の翼は折り畳まれて、地を激しく打っていた尾もおとなしくなった。
 ケイは、その姿をまじまじと見つめて、
「リュー。すんごく綺麗だね。なんかちょっと色っぽい感じと、カッコイイ感じ!」
 魔王は、慈愛に満ちた眼差しでケイを見つめ返した。そして、
「オレは、固体としては力が弱いために、人の子の精を吸いやすいよう、人の子に近い姿を持った属として、この世界に発生した。そのなかでもオレは、食べたものの姿に変化出来る能力があった。それは魔王特有の力だ」
「……食べたものの、姿」
「魔王は、どの属から誕生するかは決まっていない。そのときの魔王が弱いうちに消滅させられたなら、別の属からまた新たな魔王が誕生する。魔王だから、と命の輪から外れることはない。だから、強くなる。そのために、食うのだ。そうして多くの力を食(は)み、すべての眷属(けんぞく)の姿を得て、真の魔族の王たるものになる。オレは……まだ、強くなろうと思う」
「そうなんだー。志が高いんだね」
「人の子にしてみれば、おぞましいものだろうよ。おのれの眷属を食らい、王になるのだから」
 魔王は、豊かな胸の上に垂れる首飾りの金の鎖を、優美な指先で玩びながら、言う。
「そんなこと、ないと思うよ」
 怖い、とは思わなかった。
 きっと。それだけの覚悟が、魔王にはあるのだろうから。
 だから、ケイは首を振る。
「だって。リューのなかで、皆は生きてるんでしょ? オレ、わかるよ」
 金色の光が踊る赤い世界は、ひたすら美しくて、強く、温かだった。
 そこに飛び込んだなら、魔王のなかでこの魂は自由に飛べる。
 そう、確かに思った。
 そこに身を委(ゆだ)ねたなら、きっと心は解き放される、と。
「おぞましくなんか、ないよ」
 そう言ったケイを、じっと魔王が見つめる。
「それがきみの、特別。いまのリュシーダサンイをかたちづくる、要素、だよね?」
 ね、と首を傾げると、ふ、と赤い瞳がもどかしげに細められた。
 何かを言おうと艶(あで)やかな花のようなくちびるが動くが、しかし、すぐに引き結ばれる。
「どうしたの? リュー」
 小さく溜息をつくと、魔王は縮んだ。
 翼と尾が、氷が砕けるようにして消える。
 胸も平らになり、子どもらしいふっくらした体型になった。
 そして、乳色の頬を、ぷうっ、とふくらませ、
「あれ。どする?」
 右の人差し指を、びし、と空に向けた。
 え、と空を振り仰ぐと、何やら不格好な鳥がふらふらと飛んでいるのに、気付く。
「なにあれ」
 首を傾げると、不機嫌そうに瞳を据わらせたリューが、あれはケイの知り合いがつくったやつ、と教えてくれた。
 え、とケイは瞠目する。
 知り合いがつくった鳥。
 よく見ようと背伸びをしてみるが、遥か上空のそれがはっきり見えるわけではない。
 けれど。もしかするとあれは。
 そう思ったとき、
「撃ち落してイ? それとも打ち返す?」
 と、リューが鈴の揺れる腕輪をつけた右腕を、ぐい、と標的に向けた。こぶしに、闇の力が凝縮される。
「うわあっ! だめだめだめ」
 ケイはリューの小さな身体にしがみ付いた。
 だって。
 たぶんあれは、魔法の鳥。
 ミリードのヒゲ爺さんの、鳥だから。
 撃ち落したりしたら、かわいそう。
 打ち返したりなんかしたら、心臓が止まっちゃうかも知れないし。
 『鏡の封印』にはなりたくないけど、あの爺さんは嫌いじゃなかった。
 生まれてすぐに捨ててくれた親よりも、身内ではないと言いきってくれた親戚よりも。
 ずっと優しかった。
 だから、
 

「絶対だめっ、だめったらだめ〜っ!」


 


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