「……そんなわけない、か」
浮かんだむなしさをおいやって、ケイはやわらかい魔王の髪の毛を左の人差し指に、くるくると巻きつけた。
すると髪の毛はケイの指に吸い付くようにして、両端を結ばれるまでもなく、自らの力で細い指輪となる。
その髪の毛一本が、まるで魔力と意思とを持ち合わせているかのようだ。
びっくりしてケイが自分の指を眺めていると、リューはぶら下げた獣の爪のかたちをした紅玉を握って、に、と笑み、
「これは『守護』と『警告』やの」
「守護と、警告?」
「リューが護っているケイに手を出そうなどと、考えない方が身のためぞ、ってことー」
「え。リュー。オレを護ってくれるの?」
「そだよー」
それって、ものすごくすごいことじゃないの? とケイはぼんやり思った。なぜならリュシーダサンイは、魔王なのだ。
「う、そ」
「魔族、うそつかなーい」
「だって、リューは魔族の王さまだよね?」
「そですねー」
「なんで? なんでオレを護ってくれるの? オレが、『完璧なる無属性体』だから?」
「そんなもの、リューにとってはじゅーよーじゃないよー。じゅーよーは、ケイがケイであることだと、リューは思うでぇす」
「どういう、意味?」
幼い子供の姿をした魔王に救いを求めるように、ケイは薄紅色の瞳を縋らせる。
だって。
『完璧なる無属性体』であることが、重要だ、と。
おまえは貴重なのだ、と幼いころから言われつづけてきたのだから。
おまえにはなんの害も及ばぬように、と閉ざされた箱に込められてきたのだから。
『完璧なる無属性体』だから、と。
十七年も。
だから、身体が震えた。
どうしようもなく。
「リューはケイのこと、好き。だってねー、きれえだもん。リューがなんであろーと、眷属の姿を見よーと、ケイは悪意を持たなかった」
「だってリューたち、怖くないから」
答えると、ふふ、とおとなびた笑みがリューのくちびるからこぼれる。
「ケイは、目が開いたばかりの赤子みたい。心はぴかぴか。ただ、一点をのぞいては、ね」
「一点」
「だからリューね、ケイが自分を好きになるようにするの。そうしたら、リューたちはケイのこと、もっともっと好きになるよ」
だから、とケイの両手を取った魔王が首を傾げ、うつむいたケイの顔を下から覗き込んだ。
「リューはケイを護る。ケイがケイの嫌いなところを好きになるまで」
「そんなの……無理だよ、リュー。オレは、『完璧なる無属性体』を好きになれないよ。だって、おぞましいじゃないか……」
首を振ると、小さな手に力が加わる。
「おぞましい? ケイが?」
リューの声音が低くなって、子どもらしさが消えた。
けれど、とても優しい響きだ。
「オレはいくつかおぞましきものを知っておる。だがそれは、おまえではないぞ。ケイ」
「……魔、王」
「見てみるか。それを。オレは構わぬぞ」
さあ、どうする?
そうまっすぐに問いかけて寄越す、吸い込まれそうなほどに美しい瞳を、ケイは静かに見つめ返した。
頼りなげな姿とは裏腹に、瞳の奥には強い光が宿っている。
それは、首から下げられた獣の爪を模る紅玉よりも赤く、鋭い。
これほどに強く、これほどに美しいものを、
かつて見たことが無かった。
魔族は、嘘をつかない。
人間の心をくもりなく映す、綺麗な鏡。
「鏡……」
『完璧なる無属性体』とは、ミリードの秘術『鏡の封印』の施術候補者のことだ。
物理的、魔術的。あらゆる攻撃を打ち返す、ミリードの王とその都を守る大魔法『鏡の封印』。
その核となるのが、性別と色素を持たない、つまり属性を持たない者。
術名とおなじ名で呼ばれる核となれば、ケイはもう二度と、その足で緑の大地を踏むことはない。澄んだ泉で身体を伸ばすことも、美しい鳥の歌声を聞くことも、甘い汁がたっぷりの果実を齧ることも。はじめて自分のことを好きだと言ってくれた友だちと、激烈なふれあいをすることも、なくなってしまうのだ。
この命が尽きるまで、
外に出ることなど許されなくなる。
※
「……でもなんか、かわいそうっスよね」
髪に寝癖をつけたままの弟子は、ご〜りご〜りとすり鉢で緑の石を砕きながら、つぶやいた。
「それは、ルーサー。おまえが言うことではないぞ。そんな簡単なひと言では、あの子の運命は表現できんじゃろうて」
腕まくりをしたミリードの老魔導師トバイアス・オルブライトは、緑色の粘土をこねながら首を振る。白く長い顎鬚が、揺れた。
ルーサー・エゼルレッドは、小さな溜息ためいきをひとつはきつつおのれの師匠を見、
「とか言いつつ、『鏡の封印』にしちゃうんスか。お師匠さまって、冷たいジジイだったんスね。レイラちゃんに逃げられるっスよ」
「おまえ、やけにレイラちゃんにこだわるな。って言うか、わしをジジイ呼ばわりかい」
「逃げたんスかね。やっぱり」
「いや、おそらく攫われたのじゃろう」
粘土に紐と小さなナイフで器用に模様をつけながら、オルブライトは首を振った。
「なんでわかるんスか? そんなこと」
「……あの子は家出するような子じゃない」
「そうなんスか」
ご〜りご〜りご〜りご〜り。
少し、間があった。
「だって、その方が首チョンパ率下がるもん」
「なんスかそれ」
エゼルレッドは、すり鉢の中身を引っくり返してやりたくなった。だが、なんとか我慢(がまん)して、掴んだ鉢をもとに戻す。
「なんで……ケイちゃん見つけたんスか」
「責めるのか、わしを」
まあ、そうだろうな。と老人は小さな背を丸めた。これがミリード国宮廷魔導師の頂点に立つ魔法使いの姿とは、とてもではないが思えない。
おそらくは、彼の胸の奥にもエゼルレッドとおなじ気持ちがあるに違いない。
けれど、このミリードはしつこくこの地を付け狙う三つの国と、ずいぶんと長い間睨み合いを続けてきた。
王宮は戦力として魔法使いを進んで養成し、その力で三国との均衡をとってきたが、それももういつ破れてもおかしくはないほどに危ういものとなっている。
三国が魔術に対する武力を強化している、ということのほかに、老いたオルブライトの力を超える魔法使いが、いまだ現れないのだ。
神童、と呼ばれるほどの才能を秘めるエゼルレッドは、口は悪いが魔術に対する姿勢は、まじめ。だが、あまりにも若すぎた。
「なんでおまえ、まだ十代なんじゃ……」
「んなこと言ったってしょうがないじゃないスか。オレとレイラちゃんが同い年なのは、変えようもない事実っスよ。どうしちゃったんスか? 責めたからムクレてるんスか?」
そうだ。
それは、変えようもない事実。
エゼルレッドがもう少しはやく生まれていれば。
そうすれば、ケイ・イーリィを『鏡の封印』にせずに済んだかも知れぬのに、などと。
そんなどうしようもないことを、魔法使いが考えるべきではない。
あるのは、事実だけだ。
「はやく、見つけてやらねば、な」
「オレ……この捜索魔法になんか悪戯するかも知れないっスよ」
「そうすれば、あの子は殺されるだけじゃよ。ルーサー。三国に『完璧なる無属性体』を扱える魔法使いなどおらんからの」
「だから! 逃げたかも知れないじゃないっスか。そんなに自分の首が大事っスか?」
ゴンッ。
オルブライトは、弟子の頭をこぶしで殴った。
自分の首など、ほんとうはどうでもよかった。
逃げたにしても、攫われたにしても。
いなくなってしまったのは、ケイ・イーリィを見出した自分の責任。
守れなかったのは、自分の責任だ。
いや。そうではない。
守ってやらねばならないのだ。守ってやらねば。
扱えないものを、わざわざ生かしておくはずがないのだ。
それならば、一刻も早く探してやらねば。
「『鏡の封印』の術を使える魔法使いは、わししかおらん。わししか……な」
ジジイ、自慢してんのかい。
そのとき弟子は、本気でそう思ったのだった。