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その頃の、ミリードだ。
王宮にはその日、美しい噴水のある庭を囲む長い回廊を、老いた魔導師が必死で駆け抜ける、という非常に珍しい光景があった。
それはもうあまりにも必死なようすであるものだから、老魔導師と仲の良い庭師の爺さんなどは、ありゃもう死ぬな、と呆然とつぶやいて、丹精込めて育てた甲斐あってようやく見事に咲いた薔薇の花を、持っていた鋏(はさみ)で思わずチョキンとやってしまったほどだ。
ぎやあぁっ、という庭師の爺さんの悲鳴を背に、それを振り返る余裕すら無い老魔導師は、とある部屋へと飛び込む。
「う、うわ、どうしたんスか〜?」
田舎からやってきた弟子が分厚い魔道書を膝に乗せたまま、彼もまた、こりゃ死にそうだな、と失礼なことを思いつつ、水を入れた器を師匠に差し出した。
「えらいことじゃ!」
「何がっスか〜? 入れ歯でも落とした……ワケじゃなさそっスね。ありますね、入れ歯」
「そんなことではない! おらんのだ! アレがおらん! 家にもおらん! どこにもおらん!」
「超年下のかわいい奥さんっスか?」
それはちゃんとおるわい! と、老魔導師は持っていた長い杖で、緊張感の無い弟子の頭を殴る。
「ケイ・イーリィが、『完璧なる無属性体』が、消えたのじゃぁっ!」
「うわあ。そりゃ、ヤバイっスね。たぶん、アレっスよ。超年下のかわいい奥さんなんかもらうから、バチ当たったんスよ。陛下に知れたら即、首チョンパっスね」
「レイラちゃんのことは関係ないっ!」
「関係ないとは言い切れないっスよ。お師匠さまの首チョンパ後に、もしかしたら陛下が。ねえ。手のはやいお方ですし」
「おまえもう田舎帰れぇっ!」
「いいんスか? 僕が今帰ったら、お師匠さまの首チョンパの確率は……」
「うわあぁん、これが無事に終わったら、絶対コイツと縁切ってやるーっ!」
こちらではなんだか、とっても大変なことになっているようだった。
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それにひきかえ、当の『完璧なる無属性体』本人は気楽なものである。
「はあー。気持ちいーい」
ケイは森のなかにある静かな泉で、思い切り手足を伸ばしていた。
そこは、良い香りで虫たちを誘う青い花を大きく広げた枝葉に一面に咲かせた木々が囲み、さらに黄色い小花を連ねる蔓がまるで帳のように垂れ下がる、まるで専用の水浴び場。
ふくりふくり、と小石や砂を転がしては湧き出る水は澄みきっており、仄明るい水底の花園を、親指ほどの半透明の小魚が細長い鰭(ひれ)を優雅に揺らしつつ、群れを成して泳いでいる。
頭の上では、緑に隠れて姿の見えない鳥たちが、競って綺麗な声で歌い合う。
まさに、楽園。もうめちゃくちゃ幸せ。
岸には、好きなだけ食べて下さい、とばかりにさまざまな種類の果物やら花やらが、甘い、甘い匂いを放ちながら、今はもう腹も満足しているケイを、それでも誘い続けていた。
水に潜って水草と白い花が彩る世界を眺め、息をするのに水面に顔を出して振り返ると、必ず果物の数が増えているのだ。
気をつかってくれなくてもいいよ、と言ってやりたいのだが、いつ増えるのか、じっ、と長いあいだ見ていても、誰も姿を見せない。
しかしそのうちに、がさごそ、と貢ぎ物の上の枝が揺れ、するすると蔓が下りてきた。
果物の数が、また増えた。
魔王リュシーダサンイではない。
リューは、まっさきに泉のなかに元気良く飛び込むと、そのまま消えてしまった。それから見ていない。
おそらく鰭(ひれ)と鱗(うろこ)を持った姿に変じて、気持ち良く泳いでいることだろう。
「もういいんだよー。ありがとねー」
しかたなく、見えない相手に向かって手を振ると、突然背後で、ごぼっ、と水が音を立てた。
え、と瞠目して振り返った直後、派手に水柱が上がり、なかから何かが飛び出す。
「うわーっ」
ザパーァッ、と鯨の如く豪快に現れたのは、なんと、すっぽんぽんの魔王さまだ。
飛び魚のように華麗な弧を描いてケイの頭上を越え、ふたたび水のなかへ深く潜った。そして、少し先で水面に浮上したリューは、激しく足をばたつかせて猛烈な勢いで突き進む。
「ぎゃーっ」
当然、そのばた足のせいで、ケイは景気の良い水飛沫を盛大に叩き付けられた。
「ちょ、と、リュー!」
やめてやめてやめてー、と負けずに両手を使って水面を叩くと、猛泳中のリューは、目にも留まらぬ手足の動きの、その勢いを止めないままに泉をぐるりと一周し、
「ケ〜イ〜ッ!」
と叫んで、体当たりを食らわせてくれた。
声にならない悲鳴を上げて水のなかに倒れたケイは、『リリールシカ号』が沈没した時以上に命の危険を感じ、慌てて泡が上る方へと泳いで水面に顔を出した。
荒い息を吐きつつ呆然としていると、ひゃらひゃら、と明るい笑み声が、なぜか頭上から降ってくる。
ゴスッ、と鈍い音がした。
あっという間に、リューが肩に飛び乗ったのだ。
ケイはもうどこが痛いのかわからないくらい朦朧としているのだが、反射的に両足の親指に力を入れて、必死にその衝撃に耐えた。
「……あ、あの……まお、サマ?」
なんとか言葉を吐き出すが、発音がおかしい。いや、発音を心配する以前に、吐きそうだ。
「なにカナー」
「ぎ、ぎぼち……わどぅい」
「およ。気持ち悪い? だめだめ?」
吐きはしなかったものの、目のまえが徐々に暗くなっていく。もう、ダメかも。
なにかがそっと腹に当たった。
ケイがぐったりと身体を折って凭れると、温かくてやわらかい牛の皮のような手触りのそれがゆっくりと下がったので、手のそばにあった突起になんとかしがみ付く。
そうして、なにか巨大な獣らしきものの上に寝そべるかたちになった。
「むぅ。ケイィ。ごめんちゃ〜」
身体の下にある温かい皮が震えて、リューの口調でその獣らしきものは細く唸る。
巨大ななにかに変じたリュシーダサンイは、背中にケイの身体を上に乗せたまま、するすると滑るように、慎重に岸まで運んだ。
質の良い毛布のような肌触りの草の上に下ろされたケイの薄紅色の瞳に、後頭部に湾曲した長い角(つの)を一本生やしたまま、大きな赤い瞳を潤ませるリューの顔が映った。
「ケイ。も、も、死んじゃう?」
リューは、指と指との間に蛙のような薄い膜を持った小さな手で、ぺたぺたとケイの頬を叩く。
よほど慌てたのだろう。
いまにも泣き出しそうな中途半端なその姿に、ふ、とケイは色のないくちびるで笑って見せ、死なないよ、と答えた。
「ホント? ほんとに、ダイジョブ?」
「うん……だいじょうぶ。ちょっと楽になった。でも、ね。魔王さま。激烈なふれあいとか、遊びは、ちょっと……オレ、ひ弱だから無理かな」
「むうぅ。あいわかった」
ぺこり、としおらしく頭を下げるリューに、わかったらいいよ、とケイは手を伸ばして、しっとりと濡れた赤い髪を撫でた。
「それより、ね。リュー。ツノ出たまんまなの、知ってた? 水掻きもあるよ?」
「うい? う?」
リューは自分の両手を見、その手で頭を触ってみて、なんじゃこりゃ、という顔をする。
「なんだかおもしろいよ? 魔王さま」
「あー」
リューのおかげで、ふふ、と笑ったケイの白い頬に、薄紅が差す。気分もずいぶん良くなってきて、声を立てて笑った。
すると気のせいか、あちらこちらから楽しげな笑み声が、風のように湧き上がるよう。
くすくすくすくす。
リュシーダサンイのかわいらしい失敗で、静かだった泉は明るく、騒がしくなった。
息を詰めて眺めていたモノたちも、どうやら安心したらしい。