「…………つまり、オレはきみのせいで水浸しになっちゃった、のかな?」
 こくこくうなずいたリューの頬が紅潮する。イイ仕事したなー、とでも言いたげに、うっとりと瞳を細めた。
 けれどケイの瞳はまんまる。あまりに驚いたせいで、なんで、と短い言葉を吐き出すだけのことに、とても苦労した。
「なんでカナー」
 特別な魔族はくちびるに人差し指をあて、ぐい、と首を傾げてすっとぼけてみせる。それともこれも、意味のない遊びだったのだろうか。だとしたらこの悪戯は、性質(たち)が悪い。
 怒ったほうがいいのだろうか。でもそのおかげで、自分を誘拐した隣国の軍人たちから逃げられたのは事実だ。けれど、
「海に軍人さんたちの姿がなかったのはもしかして……魔族のみなさんに食べられたりしたからだったりして。あー。だったらどーしよー。どうもできないけど。ちょっぴり心配」
「ダイジョブ、食べてなーい。ほったらかした。いまごろ、亀とか鮫とかに乗って遊んでるよ。ダイジョブ!」
「なーんだそうか。でも亀はともかく鮫はムリかな。食われちゃうもんね。って、え? 鮫いるの? ねえ、ほんとにだいじょうぶなのかな?」
「自分の心配したほうがいいんじゃないの」
 しらっ、と言われて、ケイは頬を引き攣らせた。確かにリューの言うとおりだ。だが、
「確かにね、オレを誘拐した国の船だよ。でもさ、個人個人には恨みとか、ないし」
「んじゃあ、黙ってあの船がブーって行くのを見ていたほうがよかった? あの船が沈まないと、ケイはナイナイされてたよ?」
 口調は幼いまま。けれど、冴えた赤い瞳には冷ややかな光が宿っていた。それが澄んでいるからこそ、温かいはずの色はまるで冬の夜のように寒々として、いっそう鋭く見える。
 この鋭さは、ケイの心を映したものではなく、リュシーダサンイという魔族が本来持つ意思の表れ。
 おそらくこの魔族は、殺害あるいは軟禁されるために海を渡っていた自分を、助けてくれたのだ。
 けれど、ケイにはわからない。
 ほかの命を見殺しにしてまで自分を助ける価値が、この魔族にあるのだろうか。
 『完璧なる無属性体』が必要なのは、ケイが生まれたミリード国の王とそれを守る者たちだけのはずだというのに。
 いや、まさか。
 ミリード王宮と関係が、あるのか。
 ちら、と思うと、不安が増した。
「まさ、か。あのさ、リュー。きみ、ミリードの魔法使いに使役とか、されていたりする?」
 だとしたら、リューは特別な魔族だ、と言う意味もわかる。ミリードの宮廷魔法使いたちなら魔族くらい操れるだろう。
 でもどうか、とケイは祈るように、ちいさな魔族を見つめた。
 どうか、違う、と言って。


 お願いだから。
 

 そして、
「このリュシーダサンイが?」
 鼻で嗤われて、ケイは目を丸くした。
「魔法使いに使役されているか、だと」
 猫のように瞳を細めたリューの言葉に、周囲から激しい唸り声がいくつも上がり、影という影が一斉に震えた。
 まるで、この森に棲むものたちすべての怒りが、押し寄せたかのようだった。
 とたんに背筋に冷たいものが走り、ケイは喉に息を飲む。このまま永遠に身体が凍り付いたままなのではないかと思うほど、指先ひとつすら動かすことができなくなる。
「ありえない」
 自信と確信を持った声は、凛と森中に響き、周囲のざわめきを一瞬で静めた。
 かわりに、ざわり、と白い布の下の肌が粟立つ。
 はじめて、目のまえの存在に畏れというものを、感じた。
 強く光る瞳に圧倒されて、動けない。
 声そのものに変化はないというのに、この威圧感は一体なに。
 この魔族は、一体なんだ。
 これが、特別、ということなのか。
 それを怒らせた自分は、どうなるのか。
 しかし、
「うひゃー、ごじょーだんをー」
 リュシーダサンイはすぐに破顔一笑してみせた。ひゃらひゃらひゃら、と人の子どもの姿をした魔族は、威厳も威圧もなにもない、ただ無邪気な笑み声を立てる。
 くるくる、とリューが首飾りを揺らしながら跳ねるたびに、瞳とおなじ色の髪は踊り、獣の爪の形をした紅玉が、厚く空を覆う緑の隙間から射した光に、きらり、と光った。
 硬直していた身体から、ふ、と力が抜けたケイは、その場に膝から崩れて苔のなかに両手をつき、息を深く吐き出す。
 すると、視界に揺れる真紅の爪が現れた。
 王宮で見るよりもずっと立派で、美しい石。



 ほかの何者にも支配されないもの。



「……ああ、リュシーダサンイ。そうか、きみは……」
 ようやく、ケイは悟った。
 赤い魔族は黙って、足もとに座り込んだ人間を見下ろしている。
 面白そうに、大きな瞳をキラキラさせて。



「きみは、魔王なんだね」



 ぴょん、とリュシーダサンイはケイのまえにしゃがみ込んだ。両膝に両肘をつき、てのひらで細い顎を支える。そして、に、と子どもの姿には到底似つかわしくない、赤い花が咲き崩れるような艶(あで)やかな笑みを、浮かべた。



 この日、『完璧なる無属性体』と呼ばれる人間は、ここ、魔族の王都マラシトの地にて、美しい魔王と出会った。

 

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