しかし、
「……さて。本題に入ろうかのう」
と、オルブライトはのんびりと言う。
ふと、また優しい風が木の葉を揺らしはじめた。
その音に混じって、鳥たちが歌い合う。
魔法使いたちは、リューが魔王だと気付いたに違いなかった。けれど、リューに、そうだろう、とは言わなかった。
もしかすると、簡単に口に出してはいけないことなのかも知れない。
ケイはゆっくりと息を飲み、魔王を見つめた。
けれどリューはただ、ひどく静かな笑みを返してくれただけで、なにも言わない。
「ケイ。おまえさんは、『鏡の封印』にはなりたくないのじゃな」
まっすぐに訊ねられて、強くうなずいた。
「……そうか」
「ごめん、なさい」
「謝らんでも良い。おまえさんのことはおまえさんが決めるのが、当然というものじゃ」
じゃあ、とエゼルレッドが明るい瞳を上げて、師匠を見つめる。
「ケイちゃん、見逃してくれるんスか?」
しかし、ふ、とその時、オルブライトの灰色の瞳に鋭い光が閃いたような気がして、ぎゅ、とケイは自分の手を握った。
「だがわしは、ミリードの魔導師じゃ」
ケイは溜息をもらしそうなくちびるを、噛む。
「小国だからというて、みすみす敵国に愛する国をくれてやることはできん」
そうオルブライトが言ったとたん、なぜか、背に冷たいものが流れた。
ごく、と知らずケイが喉につばを飲むと、
「ならば、ジジイ。いまここで死ぬか。ケイは悲しむだろうが、しかたない」
はっ、と振り仰いだ先で、金が混じる真紅の双眸がゆぅるりと細くなり、異様に赤いくちびるが三日月のかたちにつり上った。
ぞくり、と自分には測りようがない、その存在が発する強大ななにかに、肌が粟立つ。
「……リュ、リュー……それ、は」
「誰かを犠牲にするのが怖いか」
艶(あで)やかで妖しい毒花のように笑って、とろけるほどに低く甘い声音で魔王は訊いてくる。
ほんのりと薄紅に染まる整った指先が伸びてきて、急に冷えたこちらの頬の輪郭を、つ、と撫でた。
氷のように、冷たい手。
「なにかを差し出すことなく全てを得ようなど、それは少々、欲張りが過ぎるのではないか」
冬の夜のように、冴えた瞳。
そして、
「わしは、それで構わんよ」
不意に、冷えて縮んだ胸に突き刺さる、氷の針。
心臓が、砕けてしまうのではないか、と思った。おのれの耳を疑い、大きく見開いた瞳を老魔導師に震えながら、向ける。
「な、に……言ってるの?」
「リュシーダサンイ。あなたが、わしを食らうのであれば、わしはそれで構わん。あなたはわしの力を手にいれ、わしの力をあなたの力として発現できるじゃろう。だがそうなれば弟子は、あなたのあとを追う。秘法『鏡の封印』を習得するために。あれは……つぎの世代に伝えんとならんでのう」
しかし、それを聞いた魔王は子どもの姿のまま、ふん、と嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「その秘法とやらをオレが発動しなければ、習得もなにもないというのに?」
「なにがなんでもつきまとうっス」
「……それは、鬱陶しいな。その若造も消してしまおうか」
そう言って凶悪にすら見える笑みをうっするらと浮かべた魔王の細い腕を、ぐ、とケイは慌てて両手で掴んだ。そして、
「リュー、やめて。お願いだから、やめて。オレ、爺さんたちが死ぬなら、リューが爺さんたちを殺しちゃうって言うなら……」
『鏡の封印』になる。
だから、リュー。
そんな顔しないで。
そんなこと、言わないで。
お願いだから。
涙の浮いた瞳を小さな肩に押し付けて、そう祈った。
だが、ぐ、と額を押され、身体を離される。
「リュー!」
ケイは、自分を押しやった小さな手に縋り付こうとした。しかし、
「余計なことを言うな!」
突然怒鳴られて驚いたケイは、不自然な体勢のまま、凍り付く。
その拍子に、いまにもしぼり出そうとしていた言葉が、喉の奥に引っ掛かった。
震える自分の喉に手を当て、顔を上げる。
声を張り上げたのは、エゼルレッドだった。
望みは捨てるな、とその瞳が言っている。
そして、
「あなたは大層強いがとても優しいと、その子が、ケイ・イーリィがすっかり心を許しとるくらい、偉大な存在じゃ。ただ鬱陶しいからという理由だけで、人の子を殺めたり人の子の国を滅ぼしたりは、決してせんじゃろう」
オルブライトはゆったりと微笑んで、言った。
その瞳は、決してそうはさせまい、とあくまでも強く澄んでいる。
すると、魔王は鋭く舌打ちをして、
「勘違いをするなよ、小さき人の子らよ」
ぎら、と真紅の瞳のなかに、金の光が閃く。
「オレたち魔族には、善悪という概念などはない。善悪を決めるのは、いつでも人の子だ。たとえおなじモノであっても、気まぐれに人の子にとって助けとなることをすれば、人の子はそいつを神と崇め、人の子にとって害となることをすれば、人の子はそいつを悪魔と忌み嫌う。いいか、よく聞けよ」
いいか。
と、そう言って、す、と魔王は瞳を細めた。
「オレは、目的のためならば、人の子の国をどれほどに瓦礫に沈めようが、人の子をどれほどに灰にしようが、なんとも思わぬ」
「……リュ……リュー……」
「だが」
ケイが不安に瞳を揺らすと、だが、と魔王はゆっくりと瞬く。
「それは、ケイが悲しむ。オレはケイが好きだ。だから、それは嫌だ」
それはまるで、子どものような理由。
けれど、嘘の欠片さえない、ほんものの言葉。
そしてそこへ、すかさず魔法使いたちが言う。
「だったらどうするんスか? ケイちゃんの望みは、絶対に叶えてあげたいんスよね? でも『鏡の封印』はミリードに必要な術なんスよ」
「ミリードが他国の属領になれば、ケイは良い子じゃから、自分のせいだ、と思い悩むかも知れん。ああ、それはかわいそうじゃぁ」
「……人の子とは、相変わらず欲張りだな」
魔王は鼻に皺を寄せた。
そして冷酷に輝く瞳で、言葉とは裏腹に真摯な眼差しを向けるふたりの魔法使いを順に睨み、指が白くなるまで震えた手を握りしめるケイを見つめて、
「では、こうしよう」
にたり、と赤いくちびるを歪め、あざとい花が咲き崩れるように、笑った。