エンデ 5

 

 
   
 切花、鉢植え。城壁に囲まれたシュヴァルツシルトの街は、薔薇で埋め尽くされていた。
 とうに日は落ちたが、集められた蝋燭や松明の灯が薔薇に飾られた街を、白い古城を、幻想的に闇のなかに浮かび上がらせている。
 城からはゆるやかな音楽がこぼれ、人びとは歌い踊る。
「すこしくらい笑ってはどうなのです」
 跳ねるように歩むエステルに腕を引かれつつ言われて、パラディは苛々と舌打ちした。
 その赤い街の灯りに尖る針のような銀灰の髪には、一輪の白い薔薇。
「パラディ、それを取ってはいけません。せっかくパラディにと綺麗な娘がくれたのに」
「迷惑だ」
「そのような無愛想では、いつまでたっても妻をもてない」
「よけいなお世話だ。そもそも俺が髪に挿してどうする」
「似合っていたのに」
 パラディはにこやかに笑うエステルを睨みつけ、白薔薇を押しつけた。そのとき、
「ああ、エンデだ」
 ふと、薔薇の谷に棲む最後のリンドブルムの名を雑踏のなかに聞く。
 はっ、と声の主を探すと、薄紅色の花をつけた薔薇の鉢を抱えて屋台のそばに座っている老人を見つけた。空を見上げている。
 その老人の視線をたどると、まるで貴婦人の衣装のようにいくつもの星に飾られた空を、す、とひときわ強く輝く白い星が流れた。
 星は星としてはあり得ない動きで、薔薇の香りに酔いしれる夜空のなか、輝きを撒き散らしながら輪を描く。
 パラディは鉢を抱えた老人に歩み寄った。
 よく見ると老人は、日によく焼けており、指先や爪のあいだは長年の土の汚れによってか黒ずんでいる。
「爺さんは城の庭師か」
 老人の隣、石畳の上に座り込んで訊ねると、品の良い香りを放つ薄紅色の薔薇の向こうで、皺を刻んだ顔が小さく笑った。
「すばらしい薔薇ですね」
 エステルが言うと、ありがとう、と老人は愛しげに薔薇を見つめる。そして、
「おや……その髪の薔薇は」
 エステルの髪に飾られた紫の薔薇を見て、小さな瞳を瞠った。
「エンデにもらったのです」
 すると、老人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑う。
「彼に会ってきたのかね」
 その笑顔につられたのかエステルも嬉しそうに笑って、踏んでしまわないよう慎重に長い裾をたぐり寄せてしゃがみ込んだ。ついでにパラディの目を盗んで、着崩された真夜中の青色の法服に留め針で白薔薇を飾る。
「その紫の花はおととしの薔薇祭で一番になった、わしの薔薇じゃ。エンデはことしも花を咲かせてくれたんじゃな」
「親しいのか」
 パラディが屋台から受け取った焼き菓子を老人とエステルに差し出しつつ訊ねると、老人はゆるく首を横に振った。
「エンデは誰とも親しくはせんよ。わしが谷に行くのは、毎年薔薇祭が終わったとき、その年で一番美しい薔薇を持って行くときだけじゃ。そのときにすこし話すだけじゃよ」
「人懐こいように見えたが、やはり心のどこかでは仲間を奪った人間を憎んでいるのか」
「いいや。エンデはひとを憎んだりはせんよ。ただ……とても傷ついておる」
 エステルがゆっくりと表情を曇らせる。それを見て、老人は細かく何度もうなずいた。
「谷にいた魔法使いのことは知っているか」
 パラディが訊ねると、エステルが頬を膨らませる。
「パラディ。あの谷にいたのはお姫様です」
「それはロザリンド姫じゃよ」
 ロザリンド。
 それはエンデも口にした名だった。
「姫はシュヴァルツシルトの末の姫君じゃった。百年もまえの姫君じゃが」
「やはりエンデを慕って谷に?」
 エステルが大きな緑の瞳を輝かせるが、老人は小さな瞳に苦笑を滲ませる。
「わしの親父も城の庭師をしておって、わしはその親父からこの話を聞いたのじゃが……はじめは、そうではなかったそうじゃ」
「え?」
「ロザリンドは魔法を使うのだな」
 パラディが言うと、老人はうなずいた。
「そう。姫は魔法使いでもあった。魔法の力で城を守っておられたのじゃ」
 当時はまだほんのわずかではあったが、エンデ以外にも竜は残っていた。生き残っていたのは当然、強力な竜ばかり。そして強力な竜ということはつまり、留まる土地に影響を及ぼすほどの魔力をも持っているということ。
 その頃はまだ竜とのあいだだけでなく、ひと同士のあいだにも戦があり、国境に近いシュヴァルツシルトは続く戦に疲弊していた。
 そこでロザリンドは、自分が谷に棲みついた翼竜の生贄となることを自ら選んだ。
 竜の棲みついた土地は、自然の気が活発となり、豊かになる。そして竜の脅威に、敵国もその土地には容易に手を出せなくなる。
 しかし同時に、竜はその土地の人間や家畜を餌ともする。
 だからロザリンドは命と引き換えに、翼竜に呪いをかけようとした。谷に棲みついた翼竜がひとを食らわず、しかもシュヴァルツシルトから離れないようにしてしまおう、と。
「呪い、を?」
 エステルが怯えて縋ってきたために、パラディは彼女の小さな肩を抱えてやらねばならなかった。けれど、
「じゃが、姫は呪いをかけなかったんじゃ」
 だから安心おし、と老人が声音を和らげた。
「エンデは姫を食わなかった。ひどい怪我をして死にかけておったところを、姫が手当てしたからじゃよ」
 ほう、とエステルは安堵して息を吐くが、けれどその身体はまだ震えている。ぎゅ、と握られた手から、その震えはパラディへと伝わった。小さな手を握り返してやると、エステルの震えはしだいにおさまり、血の気が引いていた頬もほんのりと赤く染まる。
「エンデはその恩に、姫と約束をしたんじゃ。今後いっさいひとは食わぬ、と。それからじゃな。姫とエンデが心を通わせたのは」
 けれど、竜と人間のあいだに流れる時間は、あまりにも違うもの。竜は人間よりも固体数が少なく身体が大きいぶん、長命だ。
「姫を亡くしたエンデの咆哮は遠くまで、空と大地をも絶望にも似た悲しみに震わせたそうじゃ。もはや、姫ほどに親しい者を、エンデがつくることはないじゃろうな」
 思わず涙を浮かべるエステルの金の髪に、老人の皺だらけの手が乗せられた。
「薔薇祭は亡きロザリンド姫を称え、エンデを慰めるための祭なんじゃよ。だから、そんな悲しい顔をしてはならんのじゃ」
 歌い、踊り、そして笑いなさい。
 そう言われて、うん、とエステルはうなずき目もとを拭った。
「ときに、坊やとお嬢ちゃんは隣国テルベからの客人かね。その法服は……ロシュフォール領の魔法使いのものかのう」
「ぼ……」
 確かに老人から見ればパラディもエステルとおなじ子どもだろうが、完全に子ども扱いをされたパラディは苦い顔をする。
「そうです。ロシュフォールから来ました」
 エステルは気にせず、にこにこと答えた。
「そうか、そうか。それはまた遠いところから来てくれたんじゃのう」
「べつに祭が目当てで来たわけでは」
 祭が目当てではない、と不機嫌に言いかけたパラディの口に甘い焼き菓子が小さな手によって押し込まれ、言葉がとちゅうで切れる。
「もちろんお祭が目当てです。財布を失ってしまったのでお腹がぺこぺこだったのです」
「誰のせいだと思っている」
 菓子を噛みながらパラディが文句を言うと、エステルはにっこり笑い、なんのことです、とそらとぼけた。
「巾着きりにあったのかね」
「そう。そのあとエンデと出会い、薔薇祭のことを聞いたのです。エンデはたいせつな薔薇だけでなく、姫君の衣装までくれました」
「ほう。そうすると、坊やとお嬢ちゃんはエンデのたいせつなお客人というわけじゃな。それならわしらも、おまえさんたちを大事にせんとな。ついておいで」
 そう言うなり老人は、よっこらせ、と立ち上がる。そうして軽く腰を伸ばしたあと、ゆるやかな城への坂道を上っていった。
 庭師の老人のあとについて城に入ると、ひとだかりができた賑やかな前庭でしばらく待たされる。どうやらことし一番の薔薇を決めているらしい。
 老人は顔見知りの若者を見つけると、たいせつにしているらしい薔薇の鉢を預けた。
「さてさて、こっちじゃよ」
 戻ってきた老人に連れられて城内に入ると、鮮やかな色と美しい音、そして芳しい花の香りとが押し寄せてくる。
 大広間にあふれる、色とりどりの薔薇と貴婦人の衣装。それらが楽師たちの奏でる音楽に合わせて揺れるさまは、まるでくるくると動く宝石箱のなかを覗き込んだかのようだ。
「しばらく舞踏会を楽しんでおるといい。今夜は城に泊まれるよう、わしから執事殿に頼んでおこう。終わる頃に迎えにくるでの。わしは品評会の結果を見なくてはならん」
 そう言うと老人は礼を言うエステルに微笑みかけ、前庭へといそいそと戻っていった。
「あ、パラディ。どこに行くのです」
 とりあえず野宿せずに済みそうだ、とパラディが控えの間に向かおうとすると、慌てたエステルに袖を掴まれた。踊ってはくれないのか、と大きな緑の瞳が訴えてくるが、パラディには踊りを楽しむ気などさらさらない。
「俺は忙しい」
 そのままエステルをおいて、男ばかりが休憩している部屋に入った。そして開け放たれた扉の向こう、大広間が見渡せる位置にある椅子にどかりと座ると、法服の(ふところ)から黒い本を取り出す。
 エステルはしばらく、見て見ぬふりを決め込んでいるパラディを膨れ面で見つめていたが、やがておなじ年ごろの少年に誘われて踊りはじめた。
 パラディは、楽しげなエステルのようすに、ふ、と小さく息を吐き、黒い本を開く。
 ゆっくりと文字が浮き上がるが、パラディの花色の瞳はしばらくそれを追わなかった。
 そもそもエステルは愛人の子とはいえ、ロシュフォール領主の姫君。ほんとうならば、このように飾り立てられた豪華な城で、優雅に歌い踊る生活をおくっていたはずの娘だ。
 あと数年もすれば、母親に似て美しい娘となるだろうに。
 だが城での生活が幸せなことなのかは、わからなかった。領主に愛された主は確かに日を追うごとに美しさを増し、娘に恵まれて幸せそうにも見えた。けれどときおり、寂しげな瞳をしているようにも見えたのだ。そしていつも何か言いたげな瞳で、こちらを見ていた。その瞳に、まるで救いを求められているような、そんな気になったものだ。
 やはり過ぎた日を思い出すのかどこか寂しげな瞳で踊るエステルから、パラディは彼女に重ねていた思い出を振り切るように目を逸らし、本に綴られた文字を見下ろした。
 綴られているのは、さきほど老人から聞かされたこととほぼおなじ内容。
 やはり手がかりはないのか、とくちびるを引き結んだ、そのとき、
「おや。リンドブルムかい?」
 突然間近で声をかけられ、パラディは軽く驚いた。すぐそばのひとの気配に気づかないほどに気が散漫だったらしい。すぐに大広間に目を走らせ、さきほどと変わりないエステルのようすを確認すると、声をかけてきた若い男を睨み上げるように見た。
「その指輪、リンドブルムの意匠だね」
 身なりは良いが馴れ馴れしい態度の男は隣の椅子に腰掛けると、断りもなくパラディの右手の指輪に触れようとする。
「触るな」
「おっと。そう睨まなくても。良い品だと思っただけじゃないか。きみは魔法使いかい?」
「見ればわかることを聞くな」
 ぎろり、とパラディにきつく睨みつけられても、男は肩をすくめただけで軽く笑ってみせた。心に余裕があるのか、それともただ鈍感なだけなのか。おそらく後者だ、と判断したパラディは本を閉じて席を移動しようとしたが、無遠慮に腕を引かれて椅子に戻される。
「竜を殺すと呪いがかかるんだってね」
「呪いに興味があるのか」
 冷淡なくちびるの端をゆるく吊り上げて言うと、その不思議に深い声音を聞いた男が息を飲んだ。そして椅子から身を乗り出すようにして、くわしいのか、と訊いてきた。だが、
「指輪に触れて、封じ込められたリンドブルムの血に呪われたなら、どうする」
 向けられた残忍な笑みに、もともと小心者だったらしい男は顔を引きつらせて椅子を立つ。パラディはただ目を細めただけだったのだが、男にはそれが残忍な笑みに見えたのだ。
「それとも、俺に呪われたいか」
 ひっ、と情けない声を上げた男は、控えの間から逃げるように出て行ってしまった。それほどにパラディの瞳と声音は残忍な色を滲ませたものだった。少なくとも、男はそのように感じた。
 背もたれに深くもたれたパラディは、鼻で嗤う。そっと右手の指輪に左手で触れた。
「竜殺し、か」
 つぶやくと、古い翼竜の血が騒ぐように、右の手指が熱くなる。
 竜を殺した者は呪われる。
 だがそれでも、竜を狩った者は多くいた。愛するものを守るために命を投げ出した者だけでなく、死したのちも英雄として名を残そうとした者、強大な魔力に魅入られひとときでも竜の力を得ようとした者、おのれでは手を下さず何も知らない奴隷や犬などにとどめを刺させて呪いを逸らせる金の亡者。
 竜に善悪など存在しない。善悪を決めるのは、いつでも人間だ。竜が自分に直接とどめを刺した相手を呪うのにも、善悪など関係ない。竜にとどめを刺した瞬間、竜の身体から断末魔とともに死の苦痛に染まる魔力が噴き出すのだ。だからたとえ人間として善であろうが悪であろうが、竜殺しは必ず呪われる。
 だが、
 黒い爪の痣。
 白い胸に呪いの言葉を刻まれた主に、竜殺しの罪などはなかった。そしてその娘であるエステルにも、その罪はない。
 主はテルベ国の西の端、現在パラディたちがある国とは隣り合ったところに位置する、ラバンディエーラ領の出だった。
 ラバンディエーラは過去、勇敢で命知らずな戦士を多く抱えており、数多くの竜殺しで名を馳せた。
 そのラバンディエーラの民の半分の血が、呪われている。それも長期に渡って。
 あまりにも多くの竜を殺したためとも、最後に殺した竜があまりにも強大な魔力を持っていたためとも言われている。
 しかし、いや竜殺しの呪いではない、という者もなかにはあった。荒々しいラバンディエーラの血は竜を狩るだけにとどまらず、人間同士の国をめぐっての戦でも多くの血を流したからだ。
 呪いの原因ははっきりしない。はっきりはしないが、恐怖は確かに心臓の上にくっきりと痕を残し、血とともに身体中をめぐる。そして、血とともに恐怖も子から子へと繋がれていく。呪いに殺されるまえに、気がふれて自害した者も多い。
 それほどに、凄惨な呪いだった。
 直接罪があろうとなかろうと、はやい者では十代のうちに、鋭い爪の痣が呪いの言葉と変化して命を引き裂いてしまう。ラバンディエーラの呪われた血を持ったがために、のたうちまわるほどの恐怖と激痛に食い尽くされるのだ。
 パラディの主は、二十八歳だった。
 そして愛人のその凄惨な死に、自分にも呪いがかかるのではないかと怯えたロシュフォール領主は、母とおなじ痣を持っていたエステルを城から追い出した。
 この呪いには多くの魔法使いが解呪に挑んできたが、ことごとく破れた。原因がはっきりしないのだから、当然といえば当然だった。
 けれどパラディは、エステルを託された。
 なんとしても彼女の胸にある痣を消さねばならない。彼女の命を呪いから守らねばならないのだ。
『真実はあまりに醜悪で呪わしく、虚偽はあまりに美しくて優しい。これは決して許されることのない、罪。のがれることのできない、罰。どれほどの光に包まれ温められたとしても、醜く凍える闇は消えはしない。穢れた爪は無慈悲に命を裂き続けるだろう』
 爪は無慈悲に命を裂き続ける。
 『飛翔する光の王 そして這い寄る闇の爪』と題された黒い本にそう綴った、魔法使いでもあったロザリンド姫。
 飛翔する光の王が翼竜エンデのことならば、それでは、這い寄る闇の爪とは何。その爪とは、ラバンディエーラの黒い爪の痣のことではないのか。
 醜悪な真実と美しい虚偽とは、許されない罪と逃れられない罰とは、いったいなんだ。
 そして再度本を開いたパラディは、ふと目に飛び込んできた、さきほどは気にも留めなかった一文にゆっくりと眉を寄せる。
「『憎き者どもの汚らわしき刃により、谷におちた光』?」
 そのあとに続くのは、『真珠のごとき輝きが真紅にまみれ、命の火はいまにも消えんとしていた』。つまりその部分は、怪我をして死にかけていたエンデをロザリンドが見つけたというところ。庭師の老人も、ロザリンドがエンデを手当てした、と言っていた。
 だが、気になるのはそのことではない。
「憎き者どもの、汚らわしき刃……」
 たとえのちに谷に暮らし、エンデをおのれの王というほどに慕ったのだとしても。
「……おかしくはないか」
 ロザリンド自身、エンデに呪いをかけるつもりでいたではないか。いやそれとも、それが彼女のいう罪なのか。
 ロザリンドを失ったそのとき、天地を震わせるほどに嘆き悲しんだというエンデ。
 それほどにふたりが想い合っていたというのならそれも、おかしくはないのか。
 
 ことしはちょうど百年目。
 
 ふいに耳によみがえるのが、最後のリンドブルムが言った言葉。
 いったい何が百年目だ、とそう思ってみるが、すぐに答えは出る。薔薇祭だ。街のあちらこちらでそのようなことを耳にした。
 薔薇祭は、ロザリンドを称えエンデを慰めるための、祭。
 つまり、ロザリンドが亡くなってからことしで百年ということ。
 百年まえ。
 それは竜が滅んだとされるころ。
 そして、
「ラバンディエーラの、呪い」
 あまりにも多くの竜を殺したためとも、最後に殺した竜があまりにも強大な魔力を持っていたためとも言われている、ラバンディエーラの呪いのはじまりも、そのころ。
 ひや、とパラディは、足もとから這い上がる見えない何者かの手に全身を掴まれたような、そんな錯覚をした。
 
 醜悪で呪わしい真実、美しく優しい虚偽。
 どれほどの光に包まれ温められたとしても、消えることのない醜く凍える闇。
 
「まさか」
 まさか、とパラディが花色の瞳を瞠った、そのとき、
 にわかに大広間が騒がしくなる。
 つぎを捲ろうとしていた本から目を上げたパラディは、懐に本を押し込みつつエステルを探すが、人垣が邪魔で彼女の姿が見つからない。
 小波のように広がる貴婦人や紳士たちの声に、誰かが倒れたのだということがわかる。
 凍るほどに冷たい予感に、臓腑を掴まれた。
 椅子を倒す勢いで立ち上がったパラディは、控えの間から飛び出す。その腕を、
「大変じゃ!」
 血相を変えた庭師の老人が掴んだ。だがその言葉を聞くまでもない。
「エステル!」
 パラディは乱暴にかきわけた人垣の中央に飛び出した。そして小さな肩を支えて抱き起こすと、エステルの痛みと恐怖に震える手が、力なく法服の袖を握る。
 血の気の引いた、青白い顔。
「お願い、ひとりに……しないで」
 胸の痣が淡い緑の衣装の下、広がりはじめていた。
 
 パラディ、と色のないくちびるが呼ぶ。
 緑の瞳が苦痛に震える。
 どれほどに叫んでも、黒い爪は呪いの文字を全身に描き続け、止まらなかった。
 
 救えなかった、愛しいひと。
 
 繰り返される呪いに、ぐ、と奥歯が鳴る。
 ぐったりとしたエステルを抱え上げると、庭師の老人が部屋に案内すると言って先を走り出した。
 寝台に大きく震える小さな身体を横たえると、エステルが苦しげに胸をかきむしる。その手を掴むと、黒い痣がまるで生き物のように、いや、死者が墓のなかから不気味に手を伸ばすように、白い喉もとへと伸びてきた。
「パラ、ディ」
 喉に伸びた鋭い爪の一本が、す、と動いて曲線を描く。さらにもう一本が動いて、撥ねる。
 エステルの身体に、呪いの文字を刻もうとしているのだ。
 想像していた以上に、呪いの発動がはやい。以前見たそのときよりも、痣の動きがはやい。
 主の二十八歳での呪いの発動は、ラバンディエーラの呪いとしてはとても遅いほうなのだという。けれど、エステルはまだ十二歳だ。
 エステルとその母との違いは、なに。
「場所、なのか」
 おなじテルベでも、ロシュフォール領は国の東でラバンディエーラ領は国の西。ラバンディエーラのほうが、よりシュヴァルツシルトに近い。ラバンディエーラからロシュフォールに連れてこられたことで、主が二十八歳まで生きることができたのだとしたら。
 呪いの元に近付くほどにその発動がはやまるのだとするなら、やはり。
 息を飲んだパラディが手を離すと、エステルが泣き声を上げた。
「いや、パラディ……ひとり、は……いや」
「わかっている」
 けれど、行かなくては。どうしても死なせるわけにはいかない。死なせたくはない。
 また失うわけには、いかないのだ。
「諦めるな、エステル。生きろ」
「お、おい、坊や」
「爺さん。エステルを頼む。俺は、行かなくてはならない」
 パラディ、と呼ぶ泣き声を背に聞く。
 いまにも恐怖に押し潰されてしまいそうな、いまにも痛みに食われてしまいそうなその声を背に、身を切り裂かれるような思いでパラディは走り出した。
 向かう先は、薔薇の谷。
 ラバンディエーラが最後に殺した竜。いや、最後に殺したと思われていた竜。
 最後の、リンドブルム。
 
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