エンデ 6

 

 
  
  
「リンドブルム!」
 大声で呼ぶと、甘い香り漂う夜の闇のなか、むくり、と影が動く。そしてゆっくりと風が起こり、突如、あたりが眩しい光に包まれた。
 とっさに光から目を庇っていた腕を下ろすと、闇のなかに輝くエンデの姿を見つける。
 広げられた羽毛に包まれた巨大な翼が、白い輝きを放っているのだ。
 まるで地上で輝く星のようだった。
 何度見ても、美しい生き物。
「魔法使い」
 エンデは乱れたパラディの姿を見つけて驚いているようだった。
「小さな姫君はどうしたんだい」
 しかしパラディはそれには答えず、薔薇のなかを棘に法服や肌を裂かれながらも進む。
 身体を揺さぶるほどに、心臓が激しく打っている。
「ロザリンドが死んで、百年か」
「…………そうだね」
 エンデは悲しげにつぶやいた。羽根扇のような睫毛が伏せられて、濃い影を落とす。
「リンドブルム。ロザリンドは死にかけていたおまえを助けたのだと聞いた。おまえに傷を負わせたのは、ラバンディエーラか」
「…………そうだよ」
「ラバンディエーラに呪いをかけたのは、おまえなのか」
「………………」
「ラバンディエーラに呪いをかけたのがおまえなら、いますぐ呪いを解いてくれ。このままではエステルが死ぬ」
 伏せられていた青い瞳が見開かれ、息を切らすパラディを見つめる。
「彼女はラバンディエーラの血を?」
「母親も去年亡くなった。エステルを死なせたくない。頼む、呪いを解いてくれ」
 パラディは頭を下げた。これまでにないほど深く、頭を下げた。しかし、
「無理だよ」
 冷たく凍えた声音が、容赦なくその首の根に振り下ろされる。
「な、に」
 エンデの翼が輝きを増した。そして宝玉のような青い双眸も、ぎらり、と強く光る。
 闇に広げられた翼が小波のように不気味に鳴り、鋭い爪も細かく打ち鳴らされる。
 明らかな攻撃の意思が、そこにはあった。
 凶悪なほどに強い輝きと乱暴な音に後ずさりながら、パラディは右手の指輪にくちびるを寄せていにしえの翼竜の血を呼び起こす。
「竜殺しの呪いの解き方は、知っている?」
 猛禽のものに似た前足が地を離れ、エンデが星の輝く空に伸び上がるように後足だけで立ち上がった。青い瞳が、冷酷に見下ろす。
「竜の心臓にあるという赤い石に呪いを吸わせる。だが、利かなかった」
「ふうん」
 ふうん、と言ったエンデが、つぎの瞬間、身の毛もよだつ凶暴な咆哮を上げる。そして、
「魔法使い。覚悟はできていような」
 地を這うような低い声音で、言った。
「覚悟、だと」
「死の覚悟よ」
 死の覚悟はできているか、とこれまでの穏やかな口調を捨て聞くものすべてを威圧する重低音で言い放ったエンデの、その爪鋭く力強い左前足が、パラディめがけて凄まじい勢いで振り下ろされる。
 パラディは左に跳んで最初の一撃を避けるが、直後に右から薙いできた鏃のような尾の先端に浅く頬を傷つけられた。しかしパラディはすばやく呪文を紡ぎ、風の魔法を放つ。
 風はエンデの翼、全身にまとわりつき、彼を締め上げる、はずだった。だが、
「っ!」
 エンデの翼が生んだ風の威力が、パラディの風を上回る。
 薔薇の花弁が舞い上がり、渦を描いた。
 強い風に押しやられる。その場に留まろうとするものの、パラディの足は土煙を立てながら後退してしまう。
 やはり、強い。
 だがそのとき、ふと、夜に舞い散る花を見た大きな青い瞳が、悲しげに細められた。
 その隙を見たパラディはすぐさま花を散らした薔薇に魔法をかけ、幾本ものの鞭のように伸ばした蔓で白い巨体を捕らえ縛める。
 硬い鱗には刺さらないものの、ぐ、と薔薇の棘が翼に食い込み輝く羽根を散らした。
 だがすぐにつぎの魔法を放たなければ、この程度の縛めなどエンデの力のまえではなんということもないだろう。
 ところが、エンデは羽毛に包まれた翼を、鱗に覆われた身体を薔薇に絡めとられるまま、動きを止める。強靭な筋肉を使えば、強大な魔力を使えば、破れる魔法であるというのに。
 それはどこかつぎの攻撃を、いや、死そのものを、待っているかのようにも見えた。
 だから、右の手指を伝う指輪の凶暴な魔力を、ぐ、とパラディは握り込んだ。
「おまえ、わざと俺に殺されるつもりか」
 最初にこの谷で出会ったとき、エンデは容赦なく圧倒的なほどの力の差を見せつけてきたというのに。
「愚かな問いだ」
 エンデが鼻で嗤った。
「自害をするものなど、世界のどこを探しても人間以外にあるものか」
 しかし、ふとそう言ったエンデの青い瞳に、涙が溢れる。そして、
「……ロザリンド」
 悲愴な声音で、つぶやいた。
 そしてその声音に、パラディは気づく。
「まさか。ロザリンドは、自害を?」
 ふ、とエンデが瞳を伏せた。
「僕が殺したようなものだ。僕は彼女を守ってやることが、できなかった。僕が彼女を追いつめてしまった」
 口調が元に戻ると同時に、翼の輝きも穏やかなものになる。攻撃の意思が失せたのだ。
 いや、そもそも、パラディに攻撃させるための攻撃だった。
「僕がラバンディエーラに酷い呪いをかけたせいで、優しいロザリンドは苦しんでいた」
 透きとおって美しい珠のような涙が、翼の輝きを纏い煌きながら、花弁の撒かれた地面に落ちる。
「けれど無理だよ。無理なんだ。僕は呪いを解く方法を知らない。なぜなら僕は生きている。生きているのに、呪いが……」
 どうしてなのかわからない、とエンデが涙をこぼしながらゆるりと首をふった。
 そのとき、
 その首から、血飛沫があがる。
 激痛にエンデが悲鳴を上げて、薔薇のなかに倒れた。白い羽根と花弁が舞い上がる。
「なっ……!」
 雨のように、生温かいものが肌を叩き、谷を濡らした。
 エンデの首が血の雨を降らせたのだ。
 むせ返るような血の匂いが、薔薇の甘さをかき消す。白を赤が汚す。
 原因が、わからない。だが思わず駆け寄ろうとしたパラディは、そのとき、第三者の姿があることに気づいた。
 弱々しい光の輪の外、薔薇の花を踏みしだきつつ深い闇から歩み出した者がある。
 知った顔だった。
「……おまえ、は」
 パラディが息を飲むのも無理はない。そこにあったのは、パラディに薔薇の谷の魔物退治を依頼した太った行商人の姿だったのだ。
 いや、行商人、ではなかった。
 裾に七本の槍の刺繍がある臙脂の、魔法使いの法服。
「白いリンドブルム。我らに呪いをかけた竜が生きていようとは、思いもしなかった」
「おまえは、まさか」
 七本の槍は、ラバンディエーラの紋章。
「そう、俺はラバンディエーラの魔法使いだ」
 男は憎悪に閃く目を、苦しげに横たわり荒い呼吸に腹を上下させるエンデに向けた。
「シュヴァルツシルトの谷にまだリンドブルムがいると聞き、憎い竜を地上から消し去ってやるつもりで、おまえを差し向けた。俺は竜殺しの呪いを受けてはいないし、受けるつもりもないからな。だからおまえにそいつを殺させるつもりだった。だが」
 だが、と言う男のその口もとが、醜く吊りあがる。
「ラバンディエーラに呪いをかけた白いリンドブルムが生きて俺のまえにいるのならば」
 男は呪文を唱え、分厚い両手の指先から鋭く光る氷の刃を生んだ。
「俺の手で、この谷をきさまの流す血で汚し、草一本も生えぬ死の谷にしてくれる」
 襲いかかる氷の刃に、青い瞳が伏せられる。
 抵抗する気など、エンデにはないのだ。
 エンデは、おのれを嫌悪している。
 それを察したパラディは、考えるよりも先に、動いた。
 翻る、真夜中の青色の法服。
 真紅に濡れた銀()が、ぱら、と数本散る。
「パラディ!」
 エンデが悲鳴を上げた。しかし、
「……ふざけるな」
 氷を飲み込んだ炎を右腕で払い、パラディはつぶやいた。そして、エンデを攻撃するのではなく守るために放った翼竜の力により、指が痛むほどに熱くなっている指輪に舌打ちすると、パラディは怒りを込めた花色の瞳で背後のエンデを振り返り、きつく睨みつける。
「ふざけるなよ」
 再度、言った。
「おまえが死んで、エステルが助かるか。おまえの心臓にある赤い石で呪いが解けるとでも思っているのか。そもそも竜の心臓の赤い石は、血が固まってできるものだ。おまえの心臓にもあるとは限らないうえに、それさえも利かない場合は無駄に竜殺しの呪いを増やすだけだろうが」
 パラディの右手にある指輪の、翼竜の瞳。その赤い瞳は、竜の心臓からでてきた赤い石の欠片。魔力を持つ、血の塊。
 けれどその赤い石は、主の呪いもエステルの呪いも吸い取ることはなかった。いや、たとえ欠片であろうとなかろうと、呪いをかけた翼竜のものであろうとなかろうと、おそらくラバンディエーラの呪いを赤い石が吸い取ることはない。
 ラバンディエーラの呪いは、竜殺しの呪いではないのだ。
 エンデが死んでも、呪いは解けない。
「そこを退け、邪魔だ」
 憎悪に満ちた野太い声音とともに、ふたたび無数の氷の刃が襲いかかってくる。しかしパラディは落ち着き払って翼竜の炎を呼び、向けられた魔法を打ち消す。
「邪悪な竜に味方し人間を裏切るのか!」
 ラバンディエーラの魔法使いは口の端から泡を飛ばしながら、パラディを罵った。その目は血走り、きつく()り上がっている。
「うるさい。くだらないことをぬかすな」
「いいだろう、きさまから殺してやる!」
 叫んだラバンディエーラの魔法使いの手のなかに、氷でできた剣が生み出された。それをパラディめがけて振り下ろそうとする。
 しかし、血に濡れた地面の上から、凄まじい咆哮が上がった。
 空気が震え、木々が震える。
 地に響き、体内に響く。
 高い音を立て、氷が粉々に砕け散った。
 エンデの怒りの咆哮を真正面から浴びてもんどりうったラバンディエーラの魔法使いの肉の厚い腹に、すぐさまパラディは拳を叩き込む。すると、ぐえ、と呻き白目を剥いて男は気を失ってしまった。
「思いのほか手がはやいんだね、きみ」
 青い瞳に苦笑を浮かべたエンデが、起こしていた頭を地に伏せながら言う。
「殴るほうがはやいときは、殴る」
 首の出血は止まったようだ。しかしエンデは起きる気力がないのか、ゆっくりと目を閉じた。赤く濡れた鱗が小さく震えている。
「まだ憎んでいるか」
 ラバンディエーラを憎んでいるのか、と訊ねると、憎んでいない、と返ってくる。
「確かに身体中痛くて苦しかったけれど、少しも憎んではいない。僕らは命がけで戦い、僕は負けた。戦って負けたんだ。だからラバンディエーラを憎いと思ったことはない。それなのに……呪いが。僕にはそれがどうしてなのかわからない。解呪法も知らないんだ」
 どうすればいいのかわからない。
 花を踏み血に濡れたまま、銀灰の髪の魔法使いと最後の竜は途方に暮れた。
 しかしこうしているあいだにも、エステルの小さな身体の上には呪いの文字が刻まれていく。命を食い破る、呪いの文字が。
「呪いの、文字?」
 ふと、パラディがそれに気づき瞠目した、そのとき、
「っ!」
 背後の闇に閃く殺気を感じた。振り返ると、冷たい銀の光がすぐそこに。
 ドスッ、と鈍い音を、胸のあたりに聞く。
「……パラディ?」
 突然息をつめて動きを止めたパラディを怪訝に思ったエンデが、首をもたげた。その瞳に、気を失っていたはずの男の姿が映る。
 男の手は何かを握っていた。その何かは、半ばまでパラディの法服に飲み込まれている。
「パラディ!」
 冷えた花色の双眸が、ゆっくりと胸に突きたてられた短剣を見、間近にある狂気に血走る目を見た。そして、血を流し倒れるのかと思った、次の瞬間、
「しつこい」
 渾身の力を込めた拳で、パラディは刃を突き立ててきた男の頬を殴りつけた。
 男の身体は吹き飛び、棘の上を転がった勢いのまま強かに地面に打ちつけられる。今度こそほんとうに、ラバンディエーラの魔法使いは気絶した。
「パラディ……平気なの? 普通の人間は死んでいるよね、それ。痛くないのかい?」
 ぶちぶち、と音を立てて薔薇の縛めを破ったエンデが起き上がり、血塗れの首を伸ばして覗き込む。
 パラディの胸には短剣が刺さったままだ。けれど一滴の血も流れてはいない。
「痛くない」
 短く答えて、パラディは懐に右手を入れた。そのまま何かを掴んで右に引っぱると、滑った刃に着崩した法服の左前身頃が裂ける。裂けた法服の下から現れたのは、
 ロザリンドの黒い本。
 あ、とエンデが声を上げる。
 その巨大な頭を、ゴンッ、とパラディは短剣が刺さったままの黒い本で、殴った。
「い、痛いじゃないか」
「うるさい」
 花色の瞳で睨みつけながら言って、本を開く。刃に貫かれてはいないところが開いた。パラディは黙ってそこに目を通す。
「読め」
 ややあって、エンデに突きつけて見せるが、
「僕は人間の文字が読めないのだけれど」
「知っている」
「知っているなら……」
「ただの確認だ」
 確認だ、と言うと、え、とエンデは痛々しい傷の残る首を傾げた。だからパラディはその目をまっすぐに見据えて言う。
「呪いをかけたのはおまえじゃない」
「……え?」
「おまえは呪いをかけていない。おまえはひとの文字を読み書きすることはできない。けれどラバンディエーラの黒い爪の痣は、呪いが発動すると文字を描き出す。ひとの文字だ」
「なん、だって……?」
「おまえは聞きたくないかも知れない。それをわかっていて、俺はいま残酷なことをおまえに言おうとしている」
 紡いだ言葉は鋭い剣となり、エンデを深く傷つけるだろう。首の傷よりもずっと深く、心を抉るだろう。だが言わなくてはならない。
「だが俺は言う。真実は、呪いを解く鍵だ」
「な、に」
「ロザリンドが自害をしたのは、おまえがラバンディエーラに呪いをかけたことを苦にしてではない。ロザリンドが自害したのは、おまえから逃げるためだ」
 目に見えない傷の痛みにエンデの顔が歪められた。何が違うのだ、と声が漏れる。
「誤解するな。ロザリンドはおまえを慕っていた。たぶん、心の底からな。これは事実だ」
「だったら……なぜ」
「ラバンディエーラに呪いをかけたのがロザリンドだからだ」
 ひと息で告げる、真実。
 瞠目する、エンデ。
 パラディは残酷な言葉を吐き出し震えそうになるくちびるを一度、噛んだ。ぐ、と拳を握り、大きく息を吸う。
「ロザリンドの母親は暗殺されている。それがラバンディエーラによるものだとロザリンドは知っていた。どうやって知ったのかは知らないがな。だが当時のシュヴァルツシルトとラバンディエーラのあいだには、いつ戦が起こってもおかしくはない睨み合いが続いていたろう。そしてその母親を惨殺した憎む敵に、おまえもまた傷を負わされていた。それをロザリンドは利用した。おまえの血を被った者とその者の血を継ぐ者。そのすべてを、おまえの血を介し、ロザリンドは呪った」
「嘘を、つくな」
 地を這うような声音を吐き出したエンデの青い双眸が、怒りに燃えた。優しく美しかったロザリンドを侮辱することは許さない、と喉を振るわせる。その喉と鼻の奥が赤く光るのは、炎の息を吐きつけてやろうというほどに、エンデが憤激している証拠だ。しかし、
「魔法使いは嘘をつかない」
 パラディは静かに首を振った。
「ロザリンドも魔法使いだ。おまえには何も言えなかった彼女も、この本のなかには真実を綴った。ここに書いてある。『闇に穢れたわたしは光の王のまえから消え失せよう。優しい王が苦しみ嘆き続けると知りながらも、卑怯なわたしは何も言わずに逃げるのだ』」
 聞きたくない、とエンデは首を振った。
「ロザリンドは言えなかった。自分がおぞましい呪いをかけたのだと、どうしてもおまえには言えなかった。だが、おまえが呪いをかけたと思い込み嘆くさまを平然と見ていられるような女でもなかった。だから自害した」
「…………嘘、だ……ロザリンド」
 涙は流れない。ただ、嘘だ、と傷を負った首を振り続ける。傷が開き血をこぼしても、エンデは首を振り続けた。
「よせ。これ以上血を流すな」
 パラディは巨大な顎(あぎと)を両手で押さえつける。鋭い牙が滑り、手指を傷つけた。その口中に流れた血の味に、エンデが動きを止める。
「エンデ」
 花色の瞳で青い瞳を見つめ、その名をまっすぐに呼ぶ。
「いまは、時間がない。エステルを助けてくれ。呪いを解くんだ」
「でも……どうやって」
「ロザリンドの魔力を、燃やせ。おまえの光でロザリンドが生んだ闇を消し去れ」
 傷付いた手で黒い本を差し出すと、エンデは瞳を揺らした。
「おまえにしかできないことだ」
 羽根扇の睫毛が伏せられる。やがて、
「…………わかった」
 エンデは静かにうなずいた。そして剣のような牙がずらりと並ぶ口を開け、黒い本をやわらかく噛んでパラディの手から受け取る。
 ばさ、と金剛石のような光を放つ翼が広げられ、巻き上がった風とともにエンデの巨大な身体が宙に浮いた。二度目の羽ばたきで、エンデは空高く舞い上がる。
 光の王は白く眩しく、輝く。
 それはまるで、巨大な星。
 風を切り裂く音とともに、高熱を放ち輝く星は旋回しつつさらに上空へと向かう。
 そして夜空に、炎の薔薇が咲く。
 薔薇の花弁は幾億もの小さな星となり、空を流れ地上に降った。
 そのなかに悲しげな絶叫を、聞く。
 聞く者すべての心を裂くような咆哮は、百年の時を超え、ふたたび天地を震わせた。
 
 
 シュヴァルツシルト城は騒然となった。突然空から竜が降ってきたのだから、当然だ。
 みなが揃って口を開け、血に塗れてすら美しいその生き物を見上げている。
 猛禽のものに似た右前足に掴まって現れたパラディは、窓から顔を出したエステルに開口一番で責められた。
「パラディはずるい。エンデと一緒に星空を飛んでやってくるなんて。無理と言ったのに」
 さきほどまで呪いに苦しめられていた子どもの言葉とは思えない、とパラディは眉を寄せ舌打ちをする。しかし、エステルは咲き初めの薔薇のように微笑んだ。
「いつのまにそれほど仲良くなったのです」
「仲良くだと? 誰に言っている」
「ユーグ・パラディと、エンデにです」
 エンデが喉の奥で笑う。左前足と両の後足の爪が城壁に派手に食い込んでいることは、気にも留めない。年老いたシュヴァルツシルト領主が腰を抜かしていても、気にしない。
「僕たちは思いのほか似ているらしいね」
「どこがだ」
「殴るほうがはやいときは、殴る」
 そういえば一度も魔法を使ってこなかったエンデの言葉に、パラディは銀灰の髪にこびりついた血の塊を取りながら、鼻を鳴らす。
「ところでパラディ。きみたちふたりはこれからどうするの? 国に帰るのかい?」
「帰りません。旅を続けるつもりです」
 にこやかに答えたのはエステルだ。
「そして、わたしはパラディの妻になります」
「はあ? 俺にも選ぶ権利がある」
「なんだ。やっぱり幼女趣味だったのか」
「殺すぞ、リンドブルム」
「呪うよ、魔法使い」
 睨み合うふたりをエステルはしばらく温かい眼差しで眺めていたが、やがて、淡い緑色の衣装の裾を優雅につまんで膝を折り、
「飛翔する光の王。よろしければ、いかがでしょう。わたしたちとともにする旅などは」
 パラディが、くちびるの端を吊り上げる。
「まあ、毎日のパンの心配は山のように増えるだろうが、なんとかなるだろうよ」
「エンデ、心配はいりません。パラディはひと瓶の魔法薬さえ満足に売ることはできませんが、為すと言ったことは必ず為す男です」
 しかしそれに、うるさい、と無愛想に言ったパラディの顔に浮かんでいたのは、新しい悪戯を見つけた子どものような、どこか楽しげな笑みだった。花色の瞳を輝かせるそれは、気のせいでもなんでもない、正真正銘の笑み。
 だから白い翼を伸びやかに広げた最後のリンドブルムは、喜びに青石の瞳を細め、
「ではお供しましょう、薔薇の姫君」
 
 愛しいひとの残り香に、埋もれて咲かせる、薔薇の谷。
 後悔に凍えたその胸に、いまは白い花が咲く。
 
(おわり)  2006.6 Ageha

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