紡ぐ言葉がときに残酷な剣となることは、よくわかっている。
その剣が相手の胸を抉るさまを見てなんとも思わないわけでも、ない。
こちらが剣を向ければ相手も剣を握ることも、わかっている。
「そういえば、パラディ」
綺麗な衣装に飾られて機嫌の良いエステルは、無邪気な緑の瞳でまっすぐにパラディを仰ぐ。
パラディの法服の懐にある、黒い本。
その魔力の熱のせいで、胸が痛んだ。
「なんだ」
訊いてやると、エステルは嬉しそうに笑う。
「行商人はどうします」
「行商人? ああ……いたな。そう言えば」
「忘れていたのですか」
「スカッとな」
「どうするのです」
「放っておけ」
ひとを食らう魔物などいなかったと教えてやらないのか、と言うエステルに、パラディは鼻で嗤った。
「パラディは意地が悪い」
そう言いながらもエステルはくすくす笑う。その手が法服の袖を小さく握ったのに気づいたが、パラディは好きにさせた。
踏み固められた道の両脇は、深い森が続いている。
ゆるやかな坂を上りきると、城壁に囲まれた街のなかに佇むシュヴァルツシルトの白く優美な城が見えた。
遠くには広大な青い小麦畑が見える。
空は青い。
降り注ぐ陽光は白く、瞳に染みる。
「パラディ、小鳥が鳴いている」
世界に醜悪な闇などは存在しないと思わせるような、景色。
けれど、それは確かに存在する。
魔法使いなどというものをしていると、いやがおうにも夜の闇とはべつの闇というものを目にする機会が、増える。
なかでも忘れられないのは、やはり、守ることのできなかった主のことだった。
白い胸に染みのように落とされた黒い爪が徐々に広がり、呪いの言葉となり乱暴に命を引き裂いた。
魔法使いでありながら、主を殺す呪いの言葉を除くことができなかった。
エステルは、母の凄絶な死を知っている。父であるロシュフォール領主が、愛人の子であった自分を捨てたことも知っている。その理由も、知っている。
けれどエステルは、笑うのだ。
すべてを受け入れ、そしてあきらめ、エステルは笑う。
そのたびに、パラディは怒りを募らせた。そして、焦った。急がない旅、とエステルは言うが、パラディにとってはそうではない。
約束があった。
はじめて会ったとき、彼女は十四歳だった。
おたがい、まだ子どもだった。
彼女は、父親ほどに歳の離れたロシュフォールの領主に見初められ城に連れてこられたばかりで、とても心細かったのだろう。おとなでも思わずたじろぐほどに鋭い瞳をした小汚い使用人の息子にも、銀灰の髪と花色の瞳が綺麗、などといつも優しい声をかけた。
やがて銀灰の髪の少年は、身のうちに秘めていた力を城の老魔法使いに見込まれ弟子入りし、そののち彼女付きの魔法使いとなった。
その頃には花色の瞳が異様なほどに鋭かった小汚い少年も手足が伸び、その気にさえなれば誘いの手がほうぼうから寄越されるような見目となっていた。また彼女も、花と譬(たと)えられるほど美しい盛りをむかえていた。
しかし魔法使いは想いを隠して、主となった彼女によく仕えた。
嘘は呪文を紡ぐためのくちびるを汚す。だから魔法使いは嘘をつかない。魔法使いにできることは、事実を告げることと黙すること。
けれど、彼女と領主とのあいだにできた彼女に似た娘を見てしまった自分に、告げることは何もなかった。
そして彼女が二十八歳のとき、魔法使いは彼女の娘を託された。
それに魔法使いは、応、とうなずいた。
魔法使いは嘘を、つかない。いや、たとえ魔法使いではなかったとしても、彼女に嘘をつくことなどできはしない。
約束は守らなくてはならない。
彼女との約束だけは、嘘をつかないこのくちびるが鋭い剣を生むのだとしても、その剣によってこの身が滅びるのだとしても、守らねばならなかった。
やらねばならないことが、ある。
そしてそれにはそれほど、時間もなかった。
「エンデを慕った姫君は、どのような姫君だったのだろう」
うっとりとエステルがつぶやいた。
「エンデの背に乗って、あの空を飛んだのだろうか」
「無理だな。リンドブルムは高速で飛翔する」
「しっかりと掴まっていればいいのです」
「飛翔する際は全身が輝く。つまり高熱を発するってことだ。掴まっていられるものか」
「パラディには夢がない」
「そんなもので腹が膨れるか」
「夢がないと生きてはいけない」
言い返すとパラディが黙ってしまったので、エステルはその腕にしがみついた。
わがままを言える相手も、頼れる者も、パラディしかいないのだ。この手を離されてしまうことを考えると、とても恐ろしかった。
「夢をみるのは……馬鹿だと思う?」
おそるおそる口にするエステルの声。それに、パラディは無言で首を振った。
ひとりにしないで。
そう言葉もなく訴える少女の腕が、震える。
けれど銀灰の髪の魔法使いは、おのれを嫌悪していた。
無垢な空はどこまでも続く。
けれど地上には、穢れがはびこっている。
怒りや焦り、苦悩と後悔。そして、
呪い。
それでも思い出のなかの微笑み優しい彼女は、いつでも、いつまでも美しい。
たとえるなら、永遠に散ることのない香り優しい薔薇の花。
それは、夢まぼろし。
黒い本が、涙を流す。
夢に穢れた、心臓の上。