エンデ 3

 

 
   
  最後のリンドブルム。
 それはおそらく、事実だ。
 つまり翼竜(リンドブルム)エンデが死ねば、この美しい種族は地上から滅びてしまうのだ。竜、と大きく括った場合にしてもそれにかわりはないだろう。
 遥かむかしの空と大地には、数え切れないほどの竜がいた。種類もさまざまで、四本足と二本足、足のないもの、という足の数と、翼の有無だけで大きく分けても六種。そこからさらに多く枝分かれして、竜は栄えていた。
 けれどその多くが肉食であるために人間の敵として、魔法使いや剣士などによって退治されあるいは狩られた。なかには習性により収集した宝を狙われ殺されたものや、魔法材料や珍味として殺されたものもあった。
 実際、パラディの右手にある指輪は、翼竜の強い魔力を持つ血の塊である石を抱いている。パラディ自身が翼竜を殺したわけではないが、そのような魔具をつくるために竜を殺した者も過去、多くいた。
 そしてときには、両者のあいだに大きな戦が起こることもあった。
 そうして竜は急速に数を減らしていき、とうとうこの百年ほどですでにすべての竜族は滅んだと言われていたのだ。
「おまえはこの森に隠れているのか」
 パラディが訊ねると、うにゃ、とエンデはおかしな啼きかたをした。そして、
「これだけ育てば隠れようがないよ」
 軽やかに笑う。
「隣の国にまで散歩だって行くこともあるよ。もちろん、遥か上空を飛ぶのだけどね。雨上がりの空がとくに好きなんだ。雨は地上だけでなく空の塵も洗い流してくれるから」
 けれどそう言った声音には、どこか悲哀が滲んでいるように聞こえた。
 当然だろう。どこの空をどのように飛んでみたところで、仲間の姿を見つけることはもはやできないのだから。
「ひとを食らうのか」
 重要なことを訊ねた。けれどそれを聞いてパラディを睨みつけたのは、ときおり螺鈿のような輝きを見せる美しいエンデの鬣を三つ編みにして遊んでいたエステルだ。
「なんということを訊くのです、パラディ。エンデがひとを食らうようなものであるならば、わたしたちはとうに食べられている」
 地面に巨体を伏せたエンデは、組んだ前足の上に顎を乗せ大人しく瞳を閉じている。
「だが、薔薇の谷に棲んでいるのはひとを食らう魔物だと、その耳でも聞いたはずだろう」
「そんなものはただの勘違いです」
「むかしは食べたけどね」
「そうです!」
 勢い良くエステルはうなずいたが、え、とすぐに三つ編みだらけのエンデを見つめた。
「いまはもっぱらパン食」
「……パンだと」
 パラディは眉をしかめて聞き返す。
「そう。シュヴァルツシルトの城から毎朝送られてくるんだ。厨房には僕のために、千人近くの料理人が集められているんだって。鹿肉のサンドイッチとか最高だったなぁ。鹿がね、まるまる一頭乗ってるんだよ、あはは。センスないよね、笑っちゃう」
 サンドイッチの内容にではなく、これにはパラディも驚いた。軽く瞳を瞠り、
「リンドブルム。おまえはこの森で保護されているというのか」
「そうとも言うね」
 エンデは喉の奥で低く笑った。
「シュヴァルツシルトの領主も、僕がこの土地からいなくなると困るんだよ。竜がいると土地は富むというし、他の魔物は近寄らないからね。ついでにシュヴァルツシルトに手を出そうという人間も」
「エンデはシュヴァルツシルトの守り神なのですね」
 瞳を輝かせてエステルが言うのに、エンデは少し顔を歪める。苦笑したのかも知れない。
「僕はただの、薔薇好きなリンドブルムだよ」
 けれどエステルはまるで美しい夢でも見るようにエンデを見上げ、そのようすにパラディは軽い頭痛を覚えた。
「ひとを食らう、というのは、ならばここの連中がわざと流しているということか」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない。けれどそんなことは、どうでもいいよ」
 つまらなそうに言ったエンデが、カチリ、と顎(あぎと)の下にある前足の爪を、この話はもう終わり、とでも言うように鳴らす。そして、
「そうだ。あすは確か薔薇祭だったはず。そうだね……そこの紫の薔薇。そう、いまにも咲きそうなそのつぼみ。それをひと枝手折って、シュヴァルツシルトの城下に行ってみるといい。髪に薔薇を挿して歩けば、きょうとあすはお金がなくても飲み食いには困らないし、うまく行けばどこかの金持ちが薔薇とお金を換えてくれるかも知れないよ」
 さきほどの争いで燃えてしまった薔薇の向こう側に揺れる珍しい色の花を、エンデは器用に爪の先で示した。
 つまり、早々にこの場から立ち去れ、ということか、とその言葉からパラディは察するのだが、気付かないエステルはさらに瞳を輝かせている。無邪気に声を弾ませた。
「薔薇祭とはどのようなことをする祭です」
「領民が苦労して改良したものや丹精込めて育てた薔薇を持ち寄り、その年で最も美しい薔薇を競い合う祭だよ。その前々夜から、城の料理人たちが城下に薔薇を使った料理を出しに下りてきて、髪に薔薇を挿した若い娘やその連れに振る舞うんだ。城でも舞踏会が開かれて、参加した娘のなかから薔薇の姫君とやらも選ばれるらしいよ」
 そこまで教えてやったエンデが、ふと、薔薇の香りを楽しむエステルを、愛しげに見つめる。どこか、懐かしむように。
「そう、確か……今年はちょうど百年目だ。もしかすると、この異国の小さな姫君も舞踏会に参加できるかもしれないね。連れて行ってあげるといいよ、魔法使い。彼女は、身分卑しい身ではないんだろう」
 問われて、パラディは無言で目を細めた。
「気付いたか」
「持って生まれた輝きというものはなかなか隠しおおせないものだよ。まあ、きみは育ち……というか、性格が悪いようだけれど」
「ひとこと多いぞ、リンドブルム」
「きみほどではないと思うよ、魔法使い」
 そのとき、ふと、エステルが鞄を開けているのに気付き、パラディはきつく眉を寄せて立ち上がる。
「勝手に開けるな」
「そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないか、魔法使い」
「あの鞄のなかには危険な魔法薬がいくつも入っている」
「そんなものをつくるきみが悪いんだよ」
「黙っていろ、リンドブルム」
 しばらくエンデと静かに睨みあっていたパラディだったが、そのうちエステルが魔法薬の瓶を出しはじめたため、足早に彼女のそばに歩み寄った。
「やめろ」
 小さな手から瓶を取り上げると、
「燃えた薔薇を直す薬はないのですか」
 とエステルがまっすぐに見上げてくる。
「そんなものがあるか」
「つくってちょうだい」
「なんだと」
「薔薇を元に戻したいのです」
 よくご覧なさい、とエステルはかたわらにあった薔薇を指差した。
 外側は淡黄色だが、内側にいくほど薄紅色へと色が不思議に変わっていく花だ。
 その花だけではない。この谷にある薔薇は、繊細な花弁も、天鵞絨(ビロード)のような濃い緑の葉も、とても瑞々しく美しい。
「お庭の爺が、言っていました。薔薇はとても病害虫に苦労する花なのだ、と。この谷の薔薇はとても美しい。つまり、ここの薔薇たちはエンデの宝物なのです」
 エステルは小首を傾げるようにしてパラディを見上げ、甘える声音で続けた。
「パラディ。ね。つくってくれますね? 薔薇祭にはそのあと向かっても遅くはない」
「断る。そんなものをつくる気はない」
 にべもなく断られたエステルが、く、と悔しげにパラディを睨みつけると、ふたりを黙って眺めていたエンデが小さく笑う。
「薔薇のことはいいよ。元はといえば僕が勘違いをしたせいだから。それよりも。その魔法使いが魔法薬をつくらないと言う理由はね、魔法の炎で焼失した植物を再生することは魔法薬にできないからなんだよ、お嬢さん」
「そうなのですか、パラディ?」
「魔法使い。女の子にはもう少し優しくしてはどう? 嫌われて捨てられてしまうよ」
「よけいなお世話だ」
 素直じゃないね、と呆れたようにつぶやいたエンデは、しばらく何かを考えたあと、す、とふたりに向かって右の前足を伸ばした。鋭い剣のような四本の透き通った爪が、空に向かって伸ばされている。
「乗って」
「なんだ」
「きみに言っているわけじゃないんだけどね、魔法使い。でも、お嬢さんが心配なら、ご一緒にどうぞ」
 仰々しく、エンデは頭を垂れた。
 不思議そうにしつつも、エステルは顔を歪めるパラディの腕を引いてエンデの前足に乗り、穏やかな青い瞳を見上げる。
「空を飛ぶのですか」
「そうじゃない。ほんの少しだけ移動するんだ。優しいお嬢さんに良いものをあげるよ」
 そう言って、エンデは前足を慎重に持ち上げると三歩進み、大きな薔薇の木のそばにゆっくりとふたりを下ろした。
 いくつもの真紅の花を咲かせる薔薇の木は、まるで大きな壁のようにその向こうに何かを隠しているようだ。
 エンデが歌うように啼いた。
 すると、するすると絡み合っていた茨が解け、翼竜と薔薇の彫刻が施された重厚な扉が現れる。
 さすがにエンデは通れないだろうが、それでもお城にでもあるような立派な扉だ。
 薔薇は崖に沿って広がっている。ということは、崖の内側をくり抜いて部屋が作られているのだろうか。
「入っても大丈夫だよ。いまは誰もいないから。なかにある衣装で好きなものをひとつあげるよ。少し古い意匠だろうけれど、魔法がかかっているから保存状態はいいはずだ。それを着て薔薇祭に行くといい。どうせそこの魔法使いは、舞踏会用の衣装なんて買ってはくれないだろうからね。さあ、選んでおいで」
 パラディがエンデを睨み上げると、
「お嬢さんが心配なら、ご一緒にどうぞ」
 また冷やかされた。
 無言でエンデをきつく睨みつけたパラディは、苛々と溜息をつきつつ、大きな瞳で見つめてくるエステルを伴いなかに入った。
 とたんに、左右の壁にある燭台に残っていた蝋燭にいっせいに火が灯る。
 ふかふかと毛足の長い赤い絨毯に汚れやくすみはなく、銀の燭台も錆びてはいない。ほんとうに誰も住んでいないのか、と疑うほどに塵ひとつ、汚れひとつない部屋が、そこには広がっていた。
 やはり崖をくりぬいてつくった部屋なのか窓はなかったが、しかし風を通す小さな穴や暖炉がある。そして、やわらかな曲線を描く品の良い調度品は、女性のもののようだ。隅におかれた寝台には、小花の模様の刺繍が施された紗がかけられていた。
「誰の部屋でしょう」
「さあな。リンドブルムが攫ってきた女を閉じ込めるための部屋じゃないのか。つまりおまえはきょうの晩飯ってことだな」
「またそのようなことを言う。エンデは悪竜ではありません。それはパラディももうわかっているでしょうに、子どもじみたことを」
 子どもにまたしても子どもだと言われたパラディは小さく舌打ちをし、寝台を覆い隠す紗を払う。当然ながら寝台は空だ。パラディは鼻で嗤った。
「骸でもあるかと思ったがな」
「パラディ。エンデに負けたのがそれほどに悔しいのですか」
「うるさい」
 パラディはふたたび舌打ちすると、部屋をじっくりと見回す。
 エンデの言うとおり、この部屋には魔法がかけられていた。だが、その魔法はどうやらエンデが施したものではないらしい。魔力の込められた模様がやはり魔力の込められた石で描かれ、部屋の壁や床などに散りばめられていたのだ。どれほどに器用であったとしても、エンデの巨大な前足では無理な細工だ。
「魔法使いがいたのか」
 す、とパラディは目を細めるが、魔法の知識など持っていないエステルの意見は違った。
「ここは姫君の部屋です」
「ああ?」
「ご覧なさい。この金糸の入った衣装。これは身分ある女性のものです」
 薔薇色の、裾がふわりと長く広がる衣装は、確かに生地の質も仕立ても良い、それ自体が豪奢な花のようなものだ。そして衣装入れにはこのほかにも、やはり質の良い色鮮やかな衣装がいくつも吊られていた。
「きっとエンデを慕った姫君がいたのです」
 夢を見るように瞳を輝かせるエステルに、何を馬鹿な、とパラディは顔を歪める。そして寝台のそばにある円卓に歩み寄り、そこに置かれたままの黒い表紙の本を手に取った。
 とたんに、ぴり、と手指に伝うものがある。
 魔力だ。
 まさか魔道書か、と眉を寄せるが、しかし表紙に表題はない。なかを見ても、ひと文字すら書かれてはおらず、白いままだった。
 いや。ただ、何も書かれていないように見えるだけ、か。つまり、魔法によってそこに書かれた内容が隠されているということ。
 パラディは口のなかで呪文をつぶやきながら、()の表紙を指先で撫でたそしてゆっくりくちびる上げる。
「こちらの黄色の衣装とこの淡い緑の衣装。パラディはどちらが好みです」
 無邪気に訊ねてくる声にも、振り向かないまま、緑、と短くそっけない態度で答える。
 その見下ろす先。手のなかにある黒い本の表紙には、さきほどはなかった金色の文字が現れていた。
 
『飛翔する光の王』
 
 ややあってその文字の下に、それよりも小さな文字がさらに現れた。
 
『そして這い寄る闇の爪』
 
 闇の爪。
 現れたその文字に、パラディは息を飲んだ。ちら、と淡い緑の衣装を手に姿見のまえに向かうエステルの小さな背を見やり、彼女から隠すように背を向けて本を開く。
『真実はあまりに醜悪で呪わしく、虚偽はあまりに美しくて優しい。これは決して許されることのない、罪。のがれることのできない、罰』
 女の筆跡だ。
『どれほどの光に包まれ温められたとしても、醜く凍える闇は消えはしない。穢れた爪は無慈悲に命を裂き続けるだろう』
「パラディ。外に出てちょうだい」
 はっ、と振り返ると、エステルが両手を腰にあてて軽く睨んでいた。
「淑女の着替えを見ているつもりですか」
「ガキの着替えなんぞ見るものか」
 パラディは鼻で嗤うと、閉じた本を手に部屋を出る。そして扉の外で待っていたエンデを見るなり、本をかかげて見せた。
「おい、リンドブルム。この本のことをおまえは知っているか」
「知らないね。なんの本?」
 エンデは本に顔を近づけるが、すぐに首を傾げる。表紙に浮かぶ金の文字は消えてはいない。しかし、
「何が書いてあるんだい?」
「読めないのか」
「ひとの言葉は話せるけど、読めないよ。教えてくれなかったからね」
「誰が、だ」
 訊ねると、羽根扇のような睫毛がゆっくりと伏せられ青石のような瞳を隠した。
 まるで剣に胸を抉られたような、そんな表情をして、
「きみの知らないひとだよ」
 ややあってエンデはそう言った。
 穏やかで、けれど苦痛の滲む声音で。
「借りる」
 パラディが短く言うと、え、とエンデが伏せていた目をまるくする。
「おまえはどうせ読めないんだろう。それにこれは魔法使いしか読めないらしい」
 再度本をかかげて見せると、表紙から金の文字が消えていた。
「でも、それはロザリンドの」
「ロザリンド」
 わざとくりかえしてやると、エンデは口を閉じる。だからパラディはくちびるを歪めた。
「……読んだら返してやる」
「ほんとうに?」
「魔法使いは嘘をつかない」
「その言葉が嘘ではないという証は?」
「疑い深い生き物だな、リンドブルムは」
「だってきみ……性格悪いから」
「燃やすぞ」
 本を燃やすぞ、と脅すと、わかったよ、とエンデはしぶしぶうなずいた。そのとき、
「パラディ。またエンデを困らせているのですか」
 呆れたような幼い声とともに扉が開いた。そして金の縫い取り美しい淡い緑色の衣装を着たエステルが、長い裾を気づかいながら出てくる。
 ゆっくりと、エンデが青い目を細めた。
 エステルは愛らしい白い頬をほんのりと染め、恥ずかしげに、
「似合いますか」
 と金の巻き毛を整えながら、訊ねる。
 だが、正直に言うとあまり似合ってはいなかった。まだ幼いエステルにはその衣装が大きいのだ。胸のあたりの布が余っている。
「魔法使い。お姫様はきみに訊いているんだよ。何か言ってあげたら?」
 きらり、と大きな青い瞳が光った。どうやら、魔法で丈をなんとかしてやれ、とエンデは暗に言うようだ。しかたなく、パラディはすばやく口のなかで呪文を紡ぐ。
「え? なあに?」
 パラディに褒められることを期待して瞳を輝かせるエステルは、衣装が彼女の身体に合わせてゆっくりと変わったのに気付かない。
 そしてちょうど良い頃合に衣装が変化すると、パラディはエステルを褒める代わりにエンデを睨み上げた。
 褒めるのはおまえに任せる、と無言で押し付けると、それを心得たらしいエンデがエステルを見つめた。
 どこか遠い記憶に埋もれた愛しい思い出を懐かしむように。そして、どこか苦しげに、青い瞳を細める。
 しかしすぐにエンデは優しい声で言った。
「魔法使いが言葉を失うほどに綺麗だよ。淡い緑が瞳に合って、とてもいい。さあ、紫の薔薇をその金の髪に挿して。ほら、小さな薔薇のお姫様のできあがりだ」
 そう言ったあと、エンデはこれ以上部屋の持ち主のことは何も訊かれたくないのか、すぐに背を向けてしまう。そして水晶のような爪の先で、谷の北側を指差し、
「シュヴァルツシルトのお城まではすぐだよ。そこをまっすぐ進めばいい。毎朝パンを乗せた馬車がいくつも通るから、歩きやすい道ができているんだ。その衣装でも大丈夫だよ。僕も散歩に出るときは、そこを使うんだ。ここで羽ばたくと、大事な薔薇を散らしてしまうからね」
 さあ、もう行ってくれ。
 そう急かすように、言う。
 あとはもう、振り向かなかった。
 人懐こいようであるのに、
 けれどもやはり、最後の竜は薔薇の海のなかで、かたく瞳を閉じた。
 
 
 
 

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