エンデ 2

 

 
   
 
 黒いほどに青く生い茂る深い森のなかを、魔法使いと少女は奥へ奥へと進んでいく。
 森はすでにシュヴァルツシルト領内だ。
 一歩、また一歩と踏みしめるたびに、じゅうぶんに潤った豊かな土の匂いに包まれる。
 それだけで、自然に恵まれた豊かな土地だと感じることができた。
「どうせなら前金で受け取れば良かっただろうに」
「けれどそうすると、パラディがお金を持って逃げるのではないか、と心配するでしょう」
「俺はそんな詐欺まがいのことはしない」
 行商人から魔物退治を請け負うはめになり文句を言うパラディの、真夜中の青色をした法服の裾を掴みながら、エステルは大人びた笑みを浮かべつつ彼のあとにつづく。
 その足取りが、森の深さにも関わらずどこか軽いのはやはり、向かう先の『薔薇の谷』という場所の、その響きのせいかも知れない。エステルは歳に見合わないやけに大人びたところのある少女ではあるが、流れ星をつかまえて髪に飾りたいだとか、寝台をたくさんの薔薇で埋めて眠りたいだとか、ときにそういった子どもじみたことも平気で口にするのだ。
「もちろん、パラディがそのようにいいかげんな男ではないことは、わたしが一番よく知っています。けれどあの行商人はパラディのことを知らないでしょう」
「だがきょう、そのひとを食らう魔物とやらに出くわさなければ、野宿だぞ。それ以前に、あっさり食われたらどうする」
「わたしはパラディを信頼しています」
「そもそも、あの行商人。少しおかしいとは思わないのか。シュヴァルツシルトに行きたいなら、他のやつらのように薔薇の谷を通らずに大回りしていけばいい。時間の浪費にはなるが、命を失うよりはいい。急いでいるにしても、俺たちが戻るのを待っている時間があるのなら大回りくらいできるだろうよ」
「パラディ。魔物が怖いのですか」
「誰に言っている」
「ユーグ・パラディでしょう」
 にこやかに言ったエステルだったが、しかし途中で短く悲鳴を上げた。
 はっ、と振り返ったパラディは一瞬身構えたが、金色の巻き毛が枝に絡まっているさまを見ると、そうとはわからないほどに小さな溜息を吐く。そして腕を伸ばして、エステルの陽光のような髪を枝から解いてやった。
「ありがとう、パラディ」
 何が嬉しいのだかほんのりと頬を染めたエステルは、パラディの着崩された法服の腰に抱きつきにくる。
 これでは歩きにくいが、まあ仕方がない。ふらふらと横道に逸れられるよりはましだ、とパラディはエステルの小さな肩に左手を添えた。
 しばらく行くと、やはり森のなかなど歩きなれないエステルが愛らしい顔をうつむかせ、足をもつれさせながら歩くようになったので、パラディはしばらく休ませることにした。
 倒木の上にエステルを抱え上げて座らせると、彼女は痛むらしい足をさする。
「そこで待っていろ。水を探してくる」
 水筒が空だったので、足を冷やしてやることもできない。
 エステルは、うん、としおらしくうなずいた。以前つくってやった、月長石でできた腕輪のお守りを右手に握り締めている。
 パラディがてのひらを上に向けて右手を上げると、ふわり、と白い花がやわらかいはなびらを開くようにして半透明の小さな魔法の鳥が生まれた。魔法の鳥はしばらくてのひらのなかで首を傾げるような仕草をしていたが、やがてゆっくりと浮かび上がり、水を目指して飛びはじめた。
 この魔法の鳥が大のお気に入りであるエステルは瞳を輝かせたが、おとなしくしていろよ、と念を押されて小さく肩をすくめる。
 パラディが魔法の鳥を追ってしばらくすると、岩の隙間から流れ出す清らかな水を見つけた。水筒に水を汲み、手拭いを濡らす。
 そのとき、優しげな風が森のなかを渡り、ほんのりと甘い香りがどこからか流れてきた。
「……薔薇か」
 ふと穏やかな気持ちになりそうになるのを、魔物も近いかも知れない、と気を引き締める。
 しかし、ここはほんとうに豊かな森だ。
 気の流れもとても安定していて、淀んだようすは欠片もない。ほんとうにひとを食らうような魔物がいるのだろうか、と疑うほどに美しい場所だった。
 だが、
 水を手に入れエステルを待たせているはずの倒木まで戻ったパラディは、そこに彼女の姿がないという事実に言葉を失った。隠れているのかと名を呼んでみたが返事はなかった。
 ふたたび魔法の鳥を生み出し、今度はエステルを探させようとするのだが、鳥は首を傾げるばかりで飛び立とうとしない。
 焦りと不安が、ひやりと心の臓を掴む。
 パラディは魔法の鳥に、エステルではなく薔薇の香りの元をたどるように命じた。すると、魔法の鳥はすぐにふわりと浮かび上がり、倒木の根元から斜面の上方へと飛んでいく。
 パラディは魔法の鳥を追いかけて斜面を駆け上がり、巨木のあいだをすり抜けて、さらに上へと登っていった。すると、
「っ!」
 突然、視界が開けたのだ。
 現れたのは、谷。
 赤に白。薄紅に、黄。そして紫。
 淡いものから濃いもの。
 王宮の庭園で見るものよりも鮮やかで優しい、色とりどりの美しい薔薇。それが谷一面を埋めつくしていた。
 こちらを甘く誘うような香りが、まるで湖のようにそこに溜められている。
 そしてその中央に、エステルの小さな姿。
 目のまえのあまりにも美しいさまに、何もかもを忘れて見入っているらしい。
「くそ。どうやって崖を下りやがった」
 足が痛いのではなかったのか、とつぶやいたパラディは、ざっ、と谷を見回した。
 そこに魔物の影はない。
 すい、と魔法の鳥がわきをすり抜けて、一直線にエステルめがけて飛んでいった。しかし、エステルは気付かない。
 まさか。
 あの薔薇自体が、魔物か。
 魂を抜かれてしまったかのようにぼんやりと薔薇のただなかに佇むエステルのようすに、パラディは眼差しを鋭くした。
 右手の中指にはまった翼竜の意匠の銀の指輪にくちびるをつけ、すばやく呪文を紡ぎながら崖を滑り下りた。
 すると、瞳に使われている赤い石が輝く。
 古の翼竜の血が目覚め、いまにも暴れ出してやろうというほどに熱く滾(たぎ)る強い魔力が、指輪から手指へと伝う。
 エステルに駆け寄りながら、パラディは妖しく咲き誇る薔薇を焼き払うため、翼竜の魔力を使って右手から魔獣を生み出した。
「おい!」
 小さな肩を少々乱暴に掴み、エステルの身体を自分のほうへと向ける。それでようやくパラディの存在に気付いたエステルが、嬉しそうに頬に朱を上らせた、そのときだった。
 ふと、頭上に影が差す。
 すさまじい風が押し寄せ、ふたりは舞い上がる甘い薔薇の濃い香りとはなびらに包まれた。
 そして、はっ、と息を飲んだパラディのかたわらにいた黒い魔獣が、突然、ぐしゃりと拉(ひし)げる。
 悲鳴を上げる、エステル。
 凶暴な魔獣をあっけなく押し潰したものは、獅子のものに似た、しかしそれにしては巨大すぎる、足。その足は後足だった。遅れて、猛禽のものに似た、やはりそれにしては巨大すぎる前足が下りてくる。
 そのそれぞれから伸びる鋭く長い爪が、なかの血管を薄紅色に透かせる、水晶のよう。
「っ!」
 その足の持ち主の姿を探し視線を上に向けたパラディは、エステルを庇って抱え込みながらも、そこに見た姿に瞠目し声を失った。
 抜けるような青い空を背景にして聳(そび)えるように立っていたそれは、白く輝いていた。
 陽光を跳ねあたりに繊細なきらめきを散らす、真珠の表面をした鱗(うろこ)。
 薔薇の香りを絡ませて揺れる、内側に虹を抱えた滝のような銀の鬣(たてがみ)。
 エステルの持つお守りとおなじ月長石でできた鏃(やじり)のような、長い尾の鋭い先端。
 巨大な口にずらりと並ぶのは、王宮の剣士が振るう剣のように鋭い牙だ。
 羽根扇のように長い睫毛に縁取られた大きなふたつの瞳は、晴天を吸い込み輝く極上の青石。
 そして背には、風を支配する巨大な翼。まるで、金剛石を薄くのばしたものをいくつも重ねたかのような強烈な輝きの、力強く、しかしやわらかな、鳥のものに似た翼だ。
 それは肌が粟立つほどに美しく勇壮。その神々しくもある巨体を見上げる景色は壮観で、それが目のまえにあるという事実だけで、まるで心が震えるようだった。
 燃えるほどに輝く、生きた宝石。
 どれほどに良い効き目の魔法薬をつくりだし、どれほどに従順な魔法を編み出すこの手指にも、これほどのものは創れまい。まったく彼にとってははじめてのことであったが、パラディは突如目のまえに現れたその生き物に、畏怖というものを抱いていた。
 そしてはじめて、自分の目を疑っていた。
「なん、だと……」
 ようやく吐き出した声はかすれていたが、パラディはそれにさえ気付けない。
 空から舞い降りたその生き物は、とうに滅んだといわれている幻の生物だったのだ。この目で、しかも間近でその姿を見るなど当然、はじめてのこと。
 ふと、大きな青い双眸が銀色に光るパラディの指輪を認め、ぎらり、と光った。
 はっ、と我に返ったパラディは、鋭く冷たい爪に臓腑を掴まれたような感覚を覚える。
 血だ。
 おなじ種族の血の匂いが、目のまえの生き物のさらなる怒りを煽ったのだ。
 ぐぐぐ、と怒りに震える巨大な喉が鳴る。そして、
 谷全体を震わせる咆哮が、轟いた。
「さがれ!」
 轟音のなかで叫んだパラディはエステルを背後に押しやり、指輪の魔力を縦糸におのれの魔力を横糸に、魔法を編み上げる。
 とても勝機などない。
 相手は指輪などではなく、生きている。
 そして強大な力が身のうちに溢れている。
 だがエステルだけは、どんなことをしても逃がさなくてはならない。たとえこの身が死したのちまで呪われようとも、守らねば。
 しかし、
「ぐ、あっ」
 放った火の魔法は真珠色の鱗に跳ね返されて薔薇を燃やし、まるでうるさい蝿を振り払うかのような仕草で横殴りにされて、パラディは吹き飛んだ。そして猛禽のごとき前足が、地面に背を強かに打ちつけてうめくパラディの上に覆いかぶさる。
 このまま踏み潰されるのか。
 朦朧(もうろう)とした頭の隅でパラディがふと思った、そのとき、
「やめてっ!」
 エステルが駆け寄り、パラディを覆う足の、巨大な水晶のような爪を叩いた。
 エステルはあわれなほどに震えている。
「馬鹿か、逃げろっ!」
 絞り出すように言うと、肺が痛んだ。
 あの小さな身体で、背丈の十倍はあろうという巨体のまえに飛び出すなんて。あんなに震えて、あんなに怯えているというのに。
 それなのになぜ、この身体は動かないのだ。
 だがそのとき、予想もしなかったことが起こった。パラディの上から巨大な足が、す、と退いたのだ。
「な、に」
 無理やり上半身を起こしたパラディは、真珠の色に輝くその生き物がゆっくりと翼を折りたたむのを見る。
 翼も、青い双眸も。
 荒々しく強烈だった輝きが、徐々に穏やかなものへと変わっていく。そして、
「あれ。幼女が変態に襲われていたわけではないの?」
 きょとん、としたようなまるい瞳で、その生き物がひとの言葉で、言った。
「……………………ああ?」
 そのなんとも見かけに不似合いな軽い調子の言葉を耳にしたとたん、驚愕と恐怖を通り越したパラディのなかに怒りが湧き起こる。
「なんだと」
 青い瞳が気まずげに逸れた。あー、と適当な言葉を探すのか、声を()らす。
「うん。ごめん、まちがえた」
 そしてあっさり謝った。
「女の子が幼女趣味の変態に襲われているのかと。しかもその指輪から仲間の血の匂いがしたから、僕のことも殺しにきたのだと思ったんだ。ごめんね。痛かった?」
 しかもどうやら人懐こいらしい。けれどすぐに不審そうに瞳を細めた。
「ところで、きみたちはここに何をしにきたんだい? ここが一般人の立ち入り禁止区域だということを知っている?」
「知るか」
 吐き捨てるように言ってパラディは立ち上がるが、背が痛んで思わず顔をしかめる。エステルが慌てて支えようとしたが、余計なことはするな、と拒み、彼女を背後に押しやる。
「薔薇の谷に棲む、ひとを食らう魔物とやらを退治するように言われて、来た」
「正義感を振りかざして?」
「正義だとかそんなものはどうでもいい」
「そう。お金が欲しくて引き受けました」
 すっかり恐怖から立ち直ったらしいエステルが口を挟む。彼女はあきれるほどに、パラディの主に似て気丈な娘だった。
「それも違う。どう考えてもおまえのせいだ」
 パラディがエステルを睨みつけると、真珠色の生き物は喉を鳴らして笑った。
 そしてさらなる勘違い。
「変な親子」
 これにはパラディだけでなくエステルも、親子ではない、と揃って声を上げた。
「まあ、若い父親すぎるもんね。ということはやっぱり幼女趣味じゃないの?」
「殺すぞ」
 パラディが睨み付けると、ひとの言葉を操るその生き物が獅子に似た鼻でせせら笑った。
「さっき僕に殺されかけた人間が?」
「…………毒殺してやる」
 うなるように言うと、またエステルが口を挟む。話しかけるのはパラディではない。
「ほんとうに毒殺したい相手に、毒殺します、と教えるほどパラディは愚かではありません。これはただの子どもじみた反発心から思わず出てしまった言葉ですので、どうか許してください」
「余計なことを言うな」
「ちなみにどっちが保護者?」
「俺に決まっているだろう!」
「ふうん」
 思わず怒鳴ったパラディをからかうように、長い尾が薔薇の合間を揺れた。
「保護者とはいえ、パラディは今年の春に二十歳になったばかりで、まだ結婚もしていないのです」
 エステルがにこやかに、訊かれてもいないことを言う。
 どうやら夢見がちな彼女はすっかり目のまえの美しい生き物の虜になってしまったらしいが、パラディは気を許してはいない。
「勝手に教えるな」
「良いではないの。教えたところで減るようなものではないのだから」
 舌打ちするパラディに大人びた笑みを寄越したエステルは、ふたたび視線を上へと向け、
「わたしの名はエステル。真珠色の君、良ければあなたの名を教えて欲しい」
 それを聞いて、巨大な生き物は青い空に伸び上がるようにして背筋を正す。
「いいですよ、お姫さま」
 そして、優雅にお辞儀をしてみせたその生き物は、啼いた。
 パラディは知らず、息を飲む。
 身動きを忘れたその頭上に、まるで天空から降り注ぐような澄んだ音が響いた。
 高く、低く、そして長く、短く流れて、谷の薔薇のはなびらをやさしく揺らす。
 それが、名乗りだった。
 光あふれる天空の王である彼の、名だ。
 彼は啼きやむと、笑みを含んだ優しく親しいひとの言葉で言う。
「これが僕のなまえ。けれどひとの口では発音できない。だからひとは僕のことを、エンデと呼ぶ。僕は、最後のリンドブルムだ」
 
 リンドブルム。
 
 彼は、飛翔する姿が流星や稲妻にたとえられる、天空に属する翼竜だった。
 
 
 
 

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