エンデ 1

 

 
   ひととき雨を降らせた暗い色の雲は流れ、差し込む陽光に温められた空気はしっとりと包み込むようだ。
 まだ濡れた石畳。緑の葉にきらめく雫を飾る街路樹のそばに、さっそく商売をはじめようと品物を広げる者があった。
 黒い布の上に並べられていくのは、怪しげな液体が入った、形ばかりは美しい色とりどりの硝子瓶。
 並べているのは、まだ若い男だ。
 左右の耳の後ろあたりをやや後方に跳ね上げた髪は、銀灰色。その初夏の光に鈍く輝くさまは、まるで針のよう。
 少々長めの前髪に軽く隠される瞳は、花色。優しげな色合いであるにも関わらずそれがどこか冷たく見えるのは、おもしろくもなさそうに硝子瓶を並べる男の目つきのせいか。
 真夜中の青色をした衣装は着崩されているものの、魔法使いの法服だ。右手の中指には、翼竜の意匠の銀の指輪をしていた。
 整った容貌ではあるものの、ひどく冷めたようすが近づき難い雰囲気をつくっている。物を売ろうというにはあまりにも無愛想だ。
「そこのおまえ」
 美しい硝子瓶のまえに腰を下ろした魔法使いが、通りすがりの痩せた男を呼び止めた。
 高すぎず低すぎない声の響きは、若々しく伸びやかで美しい。ただやはり、どうにもやる気が感じられないことが、見た目も声音も大いに損なっている。
 呼び止められた男のほうは、少々怯えたように足を止めた。
「おまえ、絶望的にモテないだろう」
 突然そんなことを言えば相手の怒りを誘うに決まっている。だが、平然と魔法使いは言い放った。そして相手が怒りを吐き出すまえに、つぎの言葉を叩きつける。
「この薄紅色の瓶を買え。この魔法薬を飲み干せば、すぐに女が集まってくるだろうよ」
 ふ、とくちびるの端を吊り上げてみせる。そうすると、どうやらほんとうに絶望的にモテないことを悩んでいたらしい男は怒りを引っ込め、ほんとうか、と身を乗り出した。
「魔法使いは嘘をつかない」
「ね、値段はいくらだ」
 訊ねる男に魔法使いは、にやり、とさらに不敵に笑んでみせる。そして、
「三百ギリン」
 短く、言った。
 男は絶句する。それだけあれば、仕立ての良い服が五着は買えてしまう。もちろんそれで怪しげな薬が売れるはずもない。男は無言で立ち去った。
 しかし魔法使いは少しも悔しがるようすなく、つぎに通りかかった女を呼び止める。
「そこの女。そう、おまえだ」
 いかにも金持ちそうな少々化粧の濃いその中年の女は、不遜な態度はともかく、若く見目の良い男に呼び止められたこともあり、にこやかに近寄ってきた。
「おまえ、その面(つら)に満足していないだろう」
 当然女は怒り狂う。だが、魔法使いはなんとも艶(あで)やかに笑んで見せた。とはいえ、実のところはやはりくちびるの端を吊り上げただけなのだが、それでも少なくとも女にはそう見えたのだ。女の顔は、はじめは怒りで血がのぼったはずだったのだというのに、それもいまやうっとりとのぼせたように赤い。
「そこの群青の瓶を買え。なかの魔法薬を、毎日眠るまえに肌にすり込むだけでいい」
「それだけでもっと美しくなれるのかしら」
 訊ねる女に魔法使いは、にやり、とさらに魅力的に笑って見せる。少なくとも、女にはそう見えたのだ。
「ひと瓶では無理だな。その面じゃ」
 ひと言多い。もちろんそれで怪しげな薬が売れるはずもない。女は小娘のように泣きながら去っていった。
 しばらくそんなことを続けていると、金色の巻き毛を揺らしながら、大きな緑の瞳の愛らしい少女が魔法使い目指してやってくる。
 綺麗な青色のはなびらのような衣装を着た少女は、魔法使いのすぐ目のまえまでやってくると、両手を腰に当てて彼を見下ろした。
「なんだ。薬でも買いに来たのか」
「不死の妙薬があるというのなら買います」
「そんなものはない」
 そう言いつつ、ふい、と魔法使いは少女から瞳を逸らす。
「知っています」
 少女は大人びた溜息をついた。そして、彼の花色の瞳を追いかけて座り込む。
「このような怪しげな魔法薬をそのような不遜な態度で売ろうというのが、そもそもの間違いです。もうおやめなさい、パラディ」
「怪しげだと? 俺の薬は正真正銘、効き目絶大の魔法薬だ。俺を誰だと思っている」
「ユーグ・パラディでしょう。ほかに名がありますか。それよりも、パラディ。物を売りたいのならもう少し愛想を良くしなさい。そんな態度では誰も薬を買ってなどくれない」
「俺は魔法使いであって、物売りじゃない。そもそも財布を無理やり取り上げておいて、挙句、巾着きりにあったのはどこの誰だ」
「たいして入っていなかったではないの」
 悪びれもせず肩をすくめる少女に、魔法使いパラディは軽く舌打ちする。
 旅の連れである少女は元々育ちが良いせいもあり、パラディとは金銭感覚に違いがあるのだ。わかってはいたものの、十二年生きてきたなかで一度も財布を持ったことがなかった少女に全財産を預けた自分が、やはり愚かだった、とパラディは思った。しかし、この少女エステルは生まれも良いぶんわがままで、言い出すときかない。しかもパラディの主の娘でもあるため、よけいにやっかいだった。
「俺はおまえが野宿を嫌がるから、こうしてしたくもないことをしているんだぞ」
「どこかの家に泊めてもらえばいい」
「ひとに頭を下げるのは嫌いだ」
「そんな子どものようなことを言うなんて」
 子どもに子どもだと言われたパラディは、むっ、と眉を寄せはしたが、確かに子どもじみたことを言ったので何も言い返さなかった。
 無言で魔法薬の瓶を片付けるパラディを、エステルは眩しい空を見上げながら待つ。
 遥か上空を、白い鳥が行く。
 大きな翼をゆったりと動かし光を撒いた鳥は、すぐに視界から消えた。
「パラディ」
 エステルは愛らしいさまで膝に頬杖をつき、鞄に魔法薬を詰めていくパラディをにこやかに見つめた。それだけで、また彼女がやっかいなことを言い出すだろうことが、パラディには知れた。
「パラディ。空を飛べたらどんなに気分がいいでしょうね」
「残念だな。ひとの身体は空を飛ぶようにつくられていない。しかも、飛んでいるものはいつか必ず落ちる。常識だ」
「その常識を覆してみせるのが魔法使いではないの」
「決め付けるな」
「そう。パラディはできないのね。だったらもういい。わたしは他の魔法使いを探します」
 エステルはさっと立ち上がると、そっぽを向いてしまう。しかしそんなことで折れてやるほど、財布を失くされたパラディの心は広くない。
「好きにしろ」
 鞄を手に立ち上がったパラディは短く言うと、エステルを置いてさっさと歩き出した。
「待って」
 慌てた声が追いかけてくる。しかしだからと言って待ってやれるほど、他の魔法使いを探すなどと言われたパラディの心は広くない。
「ごめんなさい、パラディ。冗談よ?」
 甘えてすり寄るさまは、たいがいの者に庇護欲を抱かせるほどたいへん愛らしいものではあるのだが、残念ながらパラディに対しては効果がない。だがそれでも、謝る相手にいつまでもへそを曲げているのもおとなげないので、とりあえずは歩調を緩めてやる。
 そのときだ。
「あなたは魔法使いですね」
 不意に、行商人らしい太った男に声を掛けられた。何か困ったことがあるのか、眉尻を思い切りよく下げたおかしな顔をしている。
「そうだ」
 答えると、行商人は小走りで近寄ってきた。
「隣のシュヴァルツシルトのお城に行きたいのですが、おそろしい噂を耳にしまして」
 嫌な予感に、パラディは眉を寄せた。
「シュヴァルツシルト領の薔薇の谷と呼ばれる場所に、ひとを食らう魔物が棲みついているというのですよ。ここからお城に行くには薔薇の谷を通らねばなりません」
「通らなければいい」
「そういうわけにはいかないのです」
「知るか」
 そのままパラディは歩き去ろうとした。しかし、袖を引かれてうんざりと足を止める。
 袖を掴んだのはエステルだ。
「困っているひとを放っておくのですか」
「やっかいごとをわざわざ拾ってくれるな」
「わたしたちの旅は急ぐものではないでしょう。それともパラディは、困ったひとを見捨てるような心の冷たい、ただの口と目つきと態度が悪いだけのいいかげんな魔法使いだったのですか」
 パラディは花色の瞳で、苛々とエステルを睨み下ろした。
「……言ってくれるな」
「このようなことを言われて悔しいと思うのなら、このひとを助けてあげなさい」
「ひとつ訊く」
「なぁに?」
 エステルは、にこ、とあざとく笑み返す。
「薔薇の谷、と聞いて乙女心がときめいたなどとは、まさか言わないだろうな」
 しかし、それにエステルは首を振った。そして、澄まし顔で言う。
「もちろん、お金をいただくためです」
 

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