夜闇に沈む街の輪郭は、真夜中の青色に浮かんでいた。
 神々の物語と神官の歌を模った精緻で重厚な彫刻に飾られた教会の、その槍のように天を衝(つ)く尖塔。そこに白くまるい月が引っかかっている。
 青い輪郭を持ち踊る彫刻の群れは、声音を潜めて闇に蠢くようで、どこか不気味。
 くちびるからこぼれる白い息が虚空に溶け、心は夜気に震えた。
 男は見えない白い手に招かれるように、ふら、と教会へと歩を進める。
 回廊に入ると、巨大ななにかの呼気が押し寄せるような、そんな錯覚が肌を粟立たせた。
 ずらりと等間隔に並ぶ太い柱の影。
 一瞬、ゆら、とそれが蝋燭の火のように揺れたようで、心臓がおおきく鳴った。
 背後を振り返る。
 誰もいない。
 男は息を飲み、すこしでも早鐘のような心臓を静めようとした。
 そして、ふと思う。
 自分はなぜここにいるのか、と。
 たしか。そう、たしか……
 そう思うところに、ふ、と影がさした。
 一層濃く、深い影に覆われたのだ。
 とたん、暑くもないのに全身から汗が噴き出す。
 いったんは落ち着こうとしていた心臓が、うるさいほどに耳で鳴る。
 ぎくしゃくと目を動かし、足元に広がる影のかたちをみやった。
 がちがちとうるさく鳴る歯の隙間から、白い息。
 それに、視界をわずか、遮られた。そして、
「……ひ……っ!」
 つぎに見たものは、巨大な目。
 不気味な黄色に光る巨大な双眸が、ぎろり、とこちらを見据えていたのだ。
 男は声にならない悲鳴を喉に飲むと、そのまま腰を抜かして氷のような石畳に座り込みそれを見上げる。
 その、投げ出された足の上に、どろりと糸を引くなにものかの涎が落ちた。
 逃げようと足を動かすが、滑る。
 腰が立たない。
 そのあいだにも、恐怖という名の黒く巨大なそれはこちらへと覆い被さってくる。
 遠く、耳に女の笑い声が聞こえるが、目のまえにいる正体不明のなにかへの恐怖のほうが勝り、それどころではなかった。
「さあ、素敵なショーのはじまりよ」
 そう、鈴のような声音が言うのすら、聞こえていたかどうか。
 
 夜間の外出を禁じられた、人気のない冷たい街。
 虚しい鐘の音が鳴る教会に、闇を引き裂く悲鳴が響き渡った。
 しかし、それも長くはつづかず、不意に途切れて、次いで聞こえてくるのが、なにかを引き千切り圧し折る音と、濡れたものをどこかに叩きつけるような音。
 そして、
 少女のものであるらしい、なんとも楽しげな笑み声。
 
 そのとき、
「あらら。また、えらい食い散らかしようだな、おい」
 おぞましい食事の音に、不意にまた別の声音が割り込んだ。
 凄惨な状況に不似合いななんとも暢気なその男の声音に、どす黒い血で汚れた巨大ななにかが、ぐるり、と禍々しく光る目を向ける。
 動きを止め、じっと探るように。
「っつーか、俺、ヤバくね? なんかめちゃくちゃな殺人が起こってる、ってのは聞いてたけど、さすがにこぉんな化け物が殺人犯だとは思わなかったぜ」
 まいった、まいった、と肩をすくめてみせるその男が纏う白が、すい、と柱の影から流れて闇に揺れた。
「こんなんで利くかなぁ?」
 微笑むような気配とともに、金糸が施された白い袖が上がる。そして、
 夜のしじまを切り裂く、銃声。
 直後、潰された巨大な目から何色だか知れない血が飛び散り、回廊の柱、床を濡らした。
「おや、利いたみたい。神様ありがとーう」
 言いながら、男が柱の影から、一歩、まえに出る。
 その拍子に高い音を奏でたのは、司祭であることを示す法服を飾る、銀の装飾品。
 さらに、一歩。
 そのときになって、ようやく男の容貌があらわになった。
 甘くはなく、すっきりと整った顔。
 そこに張り付いている笑みは、しかし、司祭が浮かべるような穏やかなものではなく、むしろ物騒なものだ。
 さらに、纏う法服は、正しく着用されてなどいなかった。激しく着崩されている。
 右手には、ゆるく煙を上げる銀色の古めかしい銃を握っていた。
「いまのうちに神に祈っとけ? なるべく苦しまずに逝けますように、ってな」
 左の手指で、よく手入れされた金の髪から覗く銀の耳飾に触れる。
 祈りの文句。
 耳飾に刻まれたそれに触れた背高く若い司祭は、目の前で血を振りまきながら吼えるなにかに向け、もう一発銃弾を打ち込んだ。
 すると、苦し紛れに巨大なそれが暴れた。
「あれま、往生際の悪い」
 暢気な言葉を吐くものの、ち、と鋭く司祭は舌打ちする。
 そのときだ。
 真横から薙いできた鋭い爪の尖りを、目の端に見たのは。
「しま……っ!」
 爪で裂かれる、ととっさに覚った。いや、それだけで済むだろうか。あれほどの鋭く巨大な爪だ。首が飛ばされてしまうかも知れない。
 しかし、
「おっと、邪魔ぁ」
 突然聞こえたその抑揚のない声音に、え、と司祭は間の抜けた声音を吐き、そして吹っ飛ばされた。
 ぽおん、と。
 まるでこどもが遊ぶ鞠かなにかのように、身体が宙に投げ出され、
「そして、やっぱり邪魔ぁ。おまえはその辺に転がっていろ」
 やわらかいなにかに受け止められて、そのまま石畳の上に転がされる。
 あまりのことにせっかく時間をかけて手入れをした髪を乱した司祭が絶句していると、受け止めたなにか、細い影が、すい、と前に出た。
 
「ふ。この世の闇に潜む醜い悪を斬り捨てる、正義の味方、ルー様参上!」
 
 

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