不可解な、名乗り。
 ぴたり、と動きを止めた巨大ななにかを前にその細い影は、ばさり、と漆黒のマントを左手で跳ね上げ、
「光をっ!」
 と高らかに叫んだ。
 その言葉に、それまで自分の身になにが起こったのか理解できずに声を失っていた司祭は、自分とおなじく教会の人間がやってきたのかと思い、はっ、と我に返った。
 それは、街を恐怖に陥れる醜く穢れた闇を、清らかな光で祓うための祈りの言葉であるのか、と。
 だが、
「はいはい、えーと……たしか、これ。ぽちっと」
 光を、という言葉に答えるようにどこからか聞こえた、のんびりとした老翁の声。
 そして、
「…………え」
 思わず、司祭は低く漏らした。
 目の前に立つ細い影を、左右からピンク色をした照明が唐突に照らしたのだ。
 清らかというにしては妖しく、やさしげというにしてはけばけばしい色の、照明。
「ちがーう! ピンクじゃないっ! っていうか、そんな妖しげなピンクの照明をどこで仕入れてきたぁっ!」
 その妖しげな色のなかに浮かび上がった細い影の持ち主は、怒りに頬を染めて怒鳴りながら勢い良く振り返る。
 闇のなかを、染めているものであるのか、やわらかそうなアッシュピンクの長い髪が流れた。
 美しいというよりは愛らしいといえる、容貌。
 黒い絹と革とでつくられた、身体の線を強調しながらも動きやすいドレスの細い腰には、長剣が吊るされている。
 しかし、司祭が息を飲んだのは、少女の美貌のせいでもなければ長剣のせいでもない。
 振り返ったその少女の、真紅の双眸に、だった。
 それは、まるで上等の紅玉のように赤々と輝き、司祭の心臓を貫く。
 美しいが、どこか滴る血のような禍々しい色で。
 新たな魔物か、と頭の隅で思いはしたが、銃を持つ腕が上がらない。ただ、立ち上がることすら忘れて、その双眸に視線が吸い寄せられる。
 まるで、魅入られるかのように。
 だが、
「もっとかっこいい色にしろ、セシル! 青っぽいのがいいっ!」
「だけど、ルー。その燃えるような美しい紅玉の瞳に、青い照明というのはおかしくないかなぁ?」
「む。じゃあ、もう白でいい!」
「せっかく仕入れたのに……」
「うるさいっ! それ以上ぐだぐだ抜かすと、噛み付いてしわっしわになるまで吸うぞっ!」
「もう、しわっしわのおじいちゃんだけどなぁ」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!」
 姿を見せない老翁に向かって、赤い瞳の少女はその場で苛々と足を踏み鳴らした。
「勝手に歳を取るおまえが悪いっ!」
「そういわれても、こればっかりはどうしようもないなぁ」
 この場において、あまりにも緊張感がない。
 司祭は呆然と口をあけてそのようすを眺めていた自分にふと気づき、慌てて口を閉じた。
 少女の背後に、巨大な黒い影が見える。
 ここはおそらく自分がなにかをいうべきなのだろう、というおかしな使命感のようなものが司祭の胸に湧いた。
 正体不明の魔物に背を向けて、暢気に話している場合ではない、と。
 しかし、無防備なその赤目の少女を諭そうとした、そのとき、
「あぶな……っ!」
 鈍重そうに見えた魔物が身の毛もよだつ低い咆哮を上げながら、突如として突進してきたのだ。
 とっさに少女を庇おうと手をのばしたが、
「なっ」
 つぎの瞬間、少女の姿が目の前から掻き消えた。
 ぞっ、と背筋が冷たくなる。
 いままですぐ目の前にいた少女が、魔物に引き裂かれてしまった。
 そう、思ったのだ。
 夜気のせいではない冷たさに、眩暈がする。
 司祭はしかし首を振って眩暈を追いやると、鋭く舌打ちしつつ立ち上がり、銃を持つ右腕を上げた。
 さらに突進してくる、巨大な魔物。
 口からは涎、片目からは血を、あたりに振り撒きながら。
 腹に響く、咆哮。
「くそ……っ!」
 思わずあとずさりそうになったおのれの足を、罵った。
 暢気だったのは、魔物の存在を知りながらも少女を諭そうとした自分だ。赦されることではない。だが、それならばせめて、この手で魔物を祓わなくてはならない。
 だが、
 
 シャン……ッ
 
 祈りの文句を吐こうとした司祭の耳に、微かな音が聞こえた。
 澄んでいて高く、それでいて鋭い音だ。
 それはなんだ、と思わず眉をしかめたその直後、ほんのすぐそばまで迫っていた魔物の巨体が、左右まっぷたつに割れ轟音を立てながら崩れた。
「……へ」
 おのれのくちびるから間の抜けた声音がこぼれたのに、司祭は気づかない。
 なぜなら、まるでその巨体が砂塵のように解け、闇のなかに散った魔物の残滓のむこうに、さきほど魔物の餌食となったはずの少女の姿があったからだ。
 怪我をしているようすもなく、すっきりと背筋を伸ばした後ろ姿。
 その細い手には、抜き身の長剣が握られている。
「なっ……どう、なってるんだ?」
「どうもこうもないさ」
 不意にわきからした老翁の声に、司祭は驚いて端正な顔を引きつらせた。
 その拍子に、ちり、と着崩した法服を飾る銀の飾りが鳴る。
「どっから湧いて出た!」
「失敬な若造だなぁ、おまえさん。ほんとうに司祭さまなのかねぇ?」
 腰の曲がった老翁はゆっくりと隣に並ぶと、灰色の瞳で胡散臭げに背高い司祭を見上げる。だが、司祭らしくない言動と服装の司祭の足の先から頭のてっぺんまでを見やると、まあいいかぁ、とつぶやき、
「ルーは魔物狩りさ。おまえさんよりも、ずぅっと経験と実力のある、な」
 と皺が深く刻まれた顔に笑みを浮かべながら、少女を誇らしげに見やった。
「魔物狩り、だって?」
 繰り返したその言葉に応じるように、カツ、と少女がこちらを振り返るために、左足をうしろにひく。直後、
「そうとも。このルー様は美しい上に腕も立つ、超絶すんごい魔物狩り。おまえだって、アレだろうよ。悪魔祓いの職務を命じられた司祭。ん? ちがうか、ジュリアン?」
 ぐい、と細くしなやかな腕に不意に肩を抱かれて、司祭はぎょっと顔を強張らせた。
 ゆるやかに背肩に波打つアッシュピンクの髪。
 揺れるそれが、頬をくすぐっている。そして、
「思ったよりもいい男だな。ふふふ。ちょっとだけ齧っちゃおうかなぁ」
 薄紅色の愛らしいくちびるが、肌に息が触れるほどの至近距離でそう言った。
 不良司祭の情けない悲鳴があがったのは、その直後。
 
 これが、このほど王都から派遣されてやってきたジュリアン司祭、彼の、猟奇殺人に震え上がる街フォンテーヌでの最初の夜に起こったことである。
 

 

 

 

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