ソナベルトは島と森の王国だ。
 大小を数えて百三十八の島々から成る、広大な国土を持つこの国は、その隅々までが暖かく雨に恵まれた気候。加えて自然を崇拝する民により、王都のあるソナベルテル大陸でさえ、その三分の二が伐採されずに育ちに育った大樹に埋め尽くされた、数多の命に溢れて輝く動植物にとって楽園のような国だった。
 この楽園がなぜこれまで他国の侵略を免れてきたのか。それは自然の成せる技に他ならない。ソナベルトは、自然より生ずる霊的な力が具現化したモノ、つまり魔族が、多く生息している国でもあるのだ。
 魔族は人の心を映す、鏡。
 彼らに善悪という概念は無いが、悪意を持った者が近付くと、その心を映して悪意の塊となりその者に襲い掛かる。そのため、この国に害を成そうという者は、害を成すそのまえに、おのれの心を映した魔族たちに追い払われるか食われるかの、どちらか。
 ソナベルトの民は魔族を畏れて、おいそれと森に立ち入ることをせず一定の距離を置き、そして同時に彼らを敬い、大小さまざまな神殿を数多く建てて祈りを捧げる。悠々と静かな大河のように流れる、不変の平和を得るその見返りとして、民は魔族という固体として現れる自然への畏怖を生活のなかに染み込ませ、親から子へと祈りを伝えていくのだ。
 なにかを得るためには、なにかを差し出さなくてはならない。
 それが魔族とともに歩むための、約束ごと。
 そして、ソナベルテル大陸を球状に深く抉る湾に、ひときわ緑深く命濃く浮かぶ、目玉のような島がある。
 ソナベルトの言葉で魔族の王都という意味の、マラシト、と呼ばれる場所。
 この物語は、ここからはじまる。
 

 

 トゥーランディアの帆船『リリールシカ号』が白い波に激しく打たれながら、紺碧の海に引き摺り込まれていく。
 女神の名を冠した帆船から放り出され、流されたケイは、空と海の青に大きく張り出した大樹の枝を運良く掴むことができた。命辛々塩水に濡れた身体を引き上げ、『リリールシカ号』を振り返ったちょうどそのとき、船首にある女神像は、最後に広がる青い空へと手を伸ばしながら、ゆっくりと深い海底へと沈んでいった。
「……ええと」
 大樹の幹に背を預けて安堵の息を吐き出したあと、つぎに吐いたのが、のんびりとしたひと言。
 むーん、と唸り、眼下に広がる眩しい青を眺めながら、濡れた服と日の光にきらきらと輝く銀の長い髪を、ぎゅう、と手荒に絞る。
「なんで沈没? こんなにキラキラお天気なのに。あんな完璧に沈むってことは、珊瑚礁に引っ掛かったりしたわけじゃなさそう」
 へーんなの、と呟く言葉の調子は、あくまでものんびり。危機感の欠片もない。
 全身がべたべたして気色悪いな、と髪に絡まっていた海草を、真白な指で摘まんで海に還す。もうひとつ摘まんだ指を鼻先に持ってきて、匂いを嗅ぎ、ぽん、と口に入れた。
 そしてしばらく無言で咀嚼して、のち、
「ぶえぇ、不味い。うえぇ、ぺっぺっぺっ」
 『リリールシカ号』の船員やらなにやらは心配だが、まずは自分のこと、だ。腹が減っては行動できない。
「この葉っぱ、食べられるのかな」
 細い腕を伸ばして頭の上の枝を引っ張るケイは、誰がいるわけでもないのにぶつぶつ言いつづけた。
 独りで寂しくて不安、だからではない。独り言は十七年生きてきた上での、癖だ。
「あの赤い実はなんだろ。食べてみようかな」
 口に入れた濃い緑の葉を吐き出しながら、懲りずに手を伸ばす。しかしその途中で、大きく広がった白い袖口が小枝に引っかかってしまった。
 あー、と平坦な声を出したケイは、腕を曲げて被害状況を見る。袖があっけなく、脇近くまで裂けてしまっていた。
 『リリールシカ号』で着せられたものは、袖のついた大きな袋のような、なんとなく葬式のような気分になるものだったので、破れたところでもったいないなどとは思えない。とはいえ、破れていないほうが日差しから少しでも肌を守れるので、ケイは困ってしまった。
 だらりと垂れた布地を、ぼんやりと眺めるケイのまんまるの瞳の色は、薄紅色。
 氷の糸でできたような銀色の髪が縁取る白い顔は、愛らしい人形のようだ。
 身体は未熟らしく、太陽には弱い、雪のように真白な皮膚で薄く包まれている。
 南大陸にある国トゥーランディアから、国交のある西大陸のアズライド国領に護送される途中、突然の轟音とともに『リリールシカ号』から海に放り出されてしまったケイは、しかし、トゥーランディアの出身でもなければ、アズライドの出身ですらない。トゥーランディアの隣、ミリード、という内陸にある小さな国の出身だった。
 ケイが『リリールシカ号』に乗っていた者たちを心配していない理由は、彼らが軍人だから。たぶん、泳げるハズ。流されに流された一般人が、こうして助かっているのだから。
 いや。そもそも、自分を拉致(らち)した国の軍人の心配などすることはないのだけれど。
「あの人たちが助かったとしても、助けにはきてくれないだろうな。って言うか、こられてもオレ困っちゃう。軍人さんたちはオレを遠いところで、じっとり軟禁するかあっさり殺害するかこっそり埋めるか、だろうし。こっちが死んだところで、不幸中の幸いのハズ」
 んでも、個人的な恨みはないし、やっぱりちょっと心配かな。
 などと、燦々と降り注ぐ日光から額に当てた手で瞳を守りながら、光り輝く海上を、誰か浮いていないか探してみる。
 キラッキラキラッキラする、海。
 眩しい。目が痛い。
「よし、人影なーし! たぶん!」
 早々に捜索を打ち切りにして、ケイは深くうなずいた。いちおう探したので、満足する。いないと分かれば、気分も落ち着いたいま、のんびり日光浴しているわけにもいかない。肌が痛むのだ。
「どこだか知らないけど、進めー! オー!」
 慎重に木から下りて、素足でしっとりとした地面の感触を知る。
「ひょーっ、きっもちいーい」
 上機嫌。
「あ、でっかいミミズ。土が肥えてる証拠!」
 森のなかにざくざく入っていくと、こちらを厚く覆った緑の天井に、また満足する。
 
 
 
 アレとソレ目次へ 

 

inserted by FC2 system