救いの歌 
 
 

自我、と呼べるようなものがあったのか。
そもそも、自分というものを認識していたのか。
気付いたらそこにいた。そこにいるのが当然だった。
そこから動くということを思いつかず、そこにいないということを考えられず。
脈動を打つ大地に抱かれ、心地の良いまどろみに沈んでいた。
否、それが眠りというものなのかさえ定かではない。
意識はいつも遠く、明確ではなく、濃い霧の中にさ迷うかのように。
それでいて、全てを見通す目を持つかのように、己と、己を取り囲む現状を知る。
全てが曖昧。
はっきりと形を成さない幻想。
分かっているのはここにあると自覚しているということだけ。
それで十分だったし、それ以上望むものなどなかった。
そこにいることが己の存在意義であったから。
人間――と称する生物が地上を跋扈(ばっこ)していると知ったのはいつだったのか。
その生物が、地上を穢(けが)していると知ったのは――。
それは即ち、同族のいる場所を奪う行為だった。
まるで行き場を失せた風のように、同族たちの消失の悲鳴が常に吹き荒れていた。
ありとあらゆる万物に宿る仲間たちの悲鳴。それが懇願にも似た哀願の歌となって、大地を轟(とどろ)かす。
だが、何も出来ない。ただその歌を聴き続けることしか出来ない。
どうすれば、その歌が止むのか。救いの歌を奏でる方法を知らなかったから。
形などない。ただ空虚な存在。
そこにいるために生まれ、呆気なく消え失せる。
昔は、と思う。昔とは果たしてどれほど前の時間なのか。
それ以前に、そう思っているのが自分なのかさえ分からない。
だけど、思う。
昔はこんなことはなかった。同族たちの物言わぬ悲鳴が天を打つことなど。
その頃の人間という生物はうまく、こちら側と線を引いて生きていた。
いつの時からか、その線を越えて、その線を壊して世界を穢し始めた。
多くの同族が無になった。無に返ったのではなく、なったのだ。
跡形も無く消え失せて、何一つ残さずに、大地の記憶からも抹消された。
それでも、自分たちに阻む術はない。
ただあることが定めならば、消し去られる事もまた定めで。
失せる瞬間に、消失の悲鳴を奏でる。そして、全ての記憶から永久に消し去られる。
初めて感情と呼べるものが込められた最初で最後の叫び。
いつまでも遠く響き渡る。
自分がいるべき場所は、そう簡単に穢れを受けぬ場所だった。
だから、他の同属のように消え失せることはなかった。
心地良いまどろみが、濃い霧が唐突に晴れたのはいつだったのか。
それは、同属たちの悲鳴を掻き消して、弱りきった大地に力を注ぎ込んで、邪に包まれた空間を一掃した。
光が目覚めた。それは、眩いばかりの白い光だった。
木々が大きく枝を揺すった。風が歓喜の声を上げた。
止まっていた時間がその時、動き始めたのだと知った。
滞っていた流れが再び渦巻く。
戻ってきたのだ、と誰かが叫んだ。かつて、この大地を掌握した古(いにしえ)の神が。
畏怖と尊崇を込められた叫びが木霊(こだま)する。
人間によって穢された大地を解き放つ光が戻ってきたのだと。
だが、直ぐに知る。
戻ってきた彼は憎悪に蝕まれ、禍(わざわい)を起こすものとなりかけていると。
眩いばかりの光が曇り、白き手が紅く染まる。
そして、沸き起こる狂気の渦。
憎悪という猛毒が、神の高潔なる神気を黒く穢していた。
憎悪という猛毒が、神の清浄なる神気を紅く穢していた。
穢れた神気はいずれ毒を吐く。
それは災厄を招く、禍々しいものと化す。
「我命ずるは大地の呼び声、我符宮の葛の葉。汝我知り得る者、ならば、我の問いに応えよ」
嘆きの最中に届いた喚び声。それを自分は確かに聞いた。
かつて、人間の中には調和を知り、自分たちを使役するものもいた。
だが、今では風の噂に聞く事もない。そのはずだったのに。
その声に導かれるように、自分はその身を具現化した。
「君の名は?」
天上より降りかかる日差しの中、覗き込まれた顔。そこにいたのはまだ若い人間だった。
名と言うのは個々を認識するためのものだ。
個々を認識する必要の無かった自分は名を持たない。
『我地霊、我名、無キ』
当たり前として存在する自分たちは名など持たない。
「そうなんだ。ナキっていうんだ。でもナキだけじゃ、寂しいね」
何を勘違いしたのだろうか。その人物は「無き」を「ナキ」と思ったようだった。
少し考える素振りをしたあと、パッと表情を輝かせ、
「そうだ! 私がナキシロと付けてあげるよ。那貴白、良い名前でしょう。君の白い姿がとても綺麗だからね」
それが笑顔という表情であることを後になって知った。
艶やかな黒髪に漆黒の瞳。向けられる笑み。
「私は符宮の葛の葉。符宮葛葉」
真っ直ぐに向けられた眼差しが眩しい。
あの喚び声こそが、救いの歌だったのだと。
自分の意思で初めてそう認識した。
 
 
 
 
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鳳蝶の大好きな那貴白ちゃんですw
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