「夏の夜に」 弐夜
 
 
 はぁ。
 とちいさくも深い溜息をひとつ吐いて、賢次は二つ折りの携帯電話を閉じた。
 待ち合わせの約束していた午前十一時から、もう何度電話をかけただろうか。相手の携帯の留守番電話にメッセージも残したし、家の電話にもかけてみた。共通の友人にも電話をしてみたが、どうしたのかわからない、こっちもつながらない、という返事ばかり。
 心配と苛立ちを交互に繰り返しながら、もう八時間以上が経過していた。
 きょうは一緒に図書館にいく約束をしていたのだ。溜まりに溜まった夏休みの宿題を片付けよう、と珍しくやる気になっていたというのに、図書館前にある球体をいくつもくっつけたモニュメントのまえにはいつまでたっても拓海は現れなかった。
 閉館を告げる哀愁を帯びて流れる静かな曲を聴きながら、長い間座り込んでいたモニュメントが見えるエントランスから、とぼとぼと歩きだす。
 硝子の扉から出た途端、昼間に散々暖められた湿気を孕む空気が押し寄せた。
 じわり、と数歩あるいただけで、額に汗が滲む。それをぐいと腕で拭ってまた溜息を吐いた賢次は、輪郭を闇に沈ませる街路樹が並ぶ通りへと出た。
 拓海の両親はいま海外旅行中で、明後日まで拓海は家にひとりだ。もしかすると、近所にあるという親戚の家に食事に行って、そのまま帰って来られなくなったのかもしれない。その親戚の家にはちいさな子どもがふたりいる、と言っていたような気がするから。
 けれど、それならそれで、連絡くらいくれてもいいのに。
 いや、でも、もしかしたら、きのうは遅くまで仲間五人と花火をして遊んだから、疲れてそのまま眠りこんでいるのかも知れない。授業中だってよく寝ているやつだから、ありえなくもない。それとも、疲れが過ぎて体調を崩してしまった、とか。
 そんなことを考えながら歩いていると、不意に視線のようなものを感じた。
 賢次はいつのまにか俯かせていた顔を上げゆっくりと周囲を見回すが、ちらほら見える通行人や店内の白い光を溢れさせているコンビニの店員がこちらを気にしているようすはない。
 どこか突き刺さるようだったそれを、こちらに向けている人はどこにもいない。
「はやく帰って飯食べよっと……」
 気のせいか、とまたひとつ溜息をついて踏切へとつづく道を曲がった。
 途端、
 
 ざわり。
 
 わけも知れず、肌が粟立った。
 縫い止められるように、足が止まる。
 空っぽの胃が、きゅ、と絞られるように痛んだ。
 賢次は、ふたたびゆっくりと首をめぐらせ、周囲を見やった。
 
 暗い。
 
 あまりにも、暗かった。
 そして先ほどまでまばらとはいえ見えていた人の姿が、見えない。
 コンビニは、と振り返るが、なぜか目が痛むほど眩しいはずのその店も闇の向こう側へと沈んでいた。
 じとり、と暑さによるものではない汗が、全身から噴き出す。
「……なん、だ……これ……」
 引き返そう、と。
 そう思った、そのときだ。
 
「……オソクナッテ、ゴメンネ……?」
 
 聞き覚えのある、しかしどこか違和感のある声が、左の耳に注がれる。
「タクっ?」
 はじかれたようにそちらを向く。
 けれど、そこにある駐車場に見慣れた姿はなかった。それどころか、誰もいない。
「え……?」
 つぶやくように言って、止まっている車のなかを目を凝らして見る。
 どくどくと身体のなかで心臓の音が速まった。
 見ないほうが、たぶんいい。逃げるほうが、いいに決まっている。
 それがなぜであるかはわからなかったが、頭のなかで警鐘が鳴った。
 逃げろ、と本能が叫ぶ。
 恐怖がじわじわと皮膚の上に這い上がり、覆う。
 だというのに、どうしてもそうせずにはいられなかったのだ。身体が本能に反して、それを探し出す。
「っ!」
 見つけたその瞬間、息ができなかった。
 声すら出せずに強張ったまま、賢次はそれを凝視する。
 一番手前の車。
 そのフロントガラスに、映っていたのだ。
 この数時間ずっと待ちつづけていた友人の姿が、そこにあったのだ。だが、
「タ……タク……?」
 それはあまりにも、不自然だった。
 深く俯く友人には、羽根が生えていたのだ。青く透き通った、羽根が。
 それも、赤く染まった喉と胸と腹の、三か所から。
「なに……して……なんの、じょうだん……?」
 やけに視界が揺れるのは、全身がいまにも崩れそうなほど震えているからで、やけに喉が掠れて息が荒いのは、喉が渇き空腹であるからではない。
 
「……マッテタ、ヨネ……?」
 
 ふたたび。
 今度は右の耳に、その声を注がれた。
 賢次は思わず悲鳴を上げながら、声を振り払うように首を激しく左右に振る。
 右の耳を押さえながら後退り、違う、とがちがちと鳴る歯の隙間から声を押し出した。
 聞き覚えのある声ではあるけれどやはりこれは拓海のものではない、と。それは不自然に真似られた声なのだ、と覚る。
「なんなんだっ! ふざけんなよっ!」
 覆い被さる恐怖のなかに、友人の惨い姿を真似た何者かへの怒りが混じり、賢次は声を張り上げた。
 すると、
「……っ!」
 ふたたび刺すような視線を感じ、そちらへと目をやる。
 ゆるり、と視線を上げていき、人の身長よりも高い位置にあるそれを、カーブミラーに映る怨嗟と狂気に満ちたその血走り見開いた何者かの目を見た途端、
 
 ガギ……ッ
 
 がたがたとどうしようもなく震えていた歯が、折れた。
 ごろ、と鉄の味がする口のなかで幾つかの歯が転がる。
 賢次は、アスファルトの上にそれを勢いよく吐きだした。咳き込みながら口内に溢れた血をも吐き出し、こちらを激しく暗い炎のように見下ろす目を、それでも睨み上げた。
「タクに……なに、した……っ!」
 痛みと恐怖と、そしてどうしようもない怒りが、歯のない口から唸り声となって溢れる。
「なに、しや……がっ?」
 
 ウルサイ
 
 拓海の声ではないしわがれた声が言うと同時に、血と折れ砕けた歯とを吐きだしたアスファルトから、にゅっ、と白く長い腕が生え、すさまじい力で右の足首を捕らえてきた。
 とっさに左足も捕らえにきた腕を避け、その足で右足首を捕らえる腕を必死で蹴りつけ、踏みつける。
 賢次はいまはない歯をくいしばるように、くちびるから血を垂らしながら、それを蹴りつけた。
 胸が痛い、頭が痛い、口も腹も腕も足も。身体のあちらこちらが痛みに悲鳴を上げていた。恐怖に震えていた。
 ぐい、と髪を鷲掴まれる感覚とともに喉が仰け反る。
「うっ……ぐ……ぅ!」
 無茶苦茶に首を振ると、ぶちり、と音がして頭皮に痛みが走った。おそらく掴まれていた髪が何本か抜けたのだろう。
 そう思った次の瞬間、
 
 ウルサイ、ユルサナイ
 
 喉が、圧迫された。
 ひどく冷たい五指が皮膚に深く食い込む感覚に、短い悲鳴が押し潰される。
 引き攣る痛みと呼吸を奪われる苦しみに涙が浮くが、いまだきつく何らかの恨みを込めて足首を握りしめる青白い手指を、これでもかというほどに蹴り、踏み躙りつづけた。
 酸素とともに薄れていく意識の隅で、けたたましく警鐘が鳴り響く。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ!
 このままだと殺される!
 死にたくない、死にたくない!
 喉を握り潰す腕を両手で引っ掻き、もがく。
 しかし、
「っ!」
 右足を恐ろしい力で引かれて、身体が後ろに傾いた。左足に力を込めて抵抗しようとしたが、引く力があまりに強く、頭を打ちこそしなかったが派手に転倒してしまう。背中と肘がアスファルトを擦る。
 警鐘は、まだ鳴っていた。
 そして、ふと気付く。
 これは、この警鐘は自分の頭でだけに鳴り響くものではない、と。
 気付くなり、賢次は身をよじってアスファルトに爪を立てた。
 アスファルトに身体が擦れる音に、爪が削れていく音が加わる。
 この先にあるのは、踏切だ。
「く……ぐぅ……っ!」
 雑草を引き掴むが、引き摺られる身体を止めることなど到底できず、かわりに掌の皮がざくりと切れた。
 両足を踏ん張って耐えようとしても、無駄。
 爪が割れて、皮膚が削れて、血が滲み、流れた。
 おおきくなる、警鐘。
 ふ、と。
 目のまえに濃い影が落ちた。人の、影だ。
「た、たすけて!」
 思わず血まみれの右手を上げた賢次は、しかしそこで凍りついた。
 目のまえにいたのは、さきほど車のフロントガラスに映ったままの姿をした、拓海だったからだ。
 拓海は、青い、プラスチック製の青い羽根を身体から生やした拓海は、こちらを見て嬉しそうに笑った。
 ぐっしょりと濡れた衣服から滴り落ちるものからは、まぎれもなく血の臭いがする。
 青白い顔で、にっこりと、ひどく嬉しそうに、
 
「待たせて、ごめんね」
 
 つくられたとは思えない拓海の声音で、それは言った。
「……タ、ク……?」
 全身から、力が抜ける。
 その赤黒い血と死臭に満ちた凄絶なまでの姿に、頭が真っ白になった。そこを、
 ぐい、と。
 弛緩した身体がものすごい勢いで引かれ、拓海の姿が遠ざかる。
 身体が宙に放り出されて。
 そして、
 
 鳴り響く警鐘のなか、鉄の箱を連ねた乗り物は闇の向こうへと遠ざかっていった。
 
 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system