「夏の夜に」 壱夜
 
 
 午前、二時。
 肌に纏わりつく夏の吐息に弄られて眠れない拓海(タクミ)は、寝返りをうつことさえ億劫でぼんやりとベッドの上から暗い天井を見上げていた。
 身体のなかに逃げることなく溜まる熱が、体力を奪う。
 カラカラ、と無機質な音を立てる扇風機は、直接風をあてると身体を壊す、と母が言うので壁側を向いていた。
 とはいえ、こうも暑いと眠くとも眠れない。
 ちょっとくらい扇風機をこちらへと向けてもいいのではないか。眠れないほうが、身体を壊す気がする。
 そう思い、すっかり暗闇に慣れた視線だけを、つれなくそっぽを向いている扇風機へと向けた。
 けれど、ベッドに深く沈みこんだ身体は意思に反して動こうとはしない。
 これじゃあまるで、金縛りだな。
 汗に濡れた胸の内でそんなことを思う。思いながらも、何を言っているのか、と声のない苦笑をくちびるに浮かべた。
 その時。

 カラカラカラカラカラ……カロ、ラン……

「……えー」
 思わず、突如回るのをやめた青色の羽根に、拓海はちいさく非難の声を漏らした。
 扇風機が止まった、と思うと余計に室温がぐっと高くなった気がする。じっとりとした空気もその湿度を増すような気が。
 タイマーなんて入れていただろうか、と深い溜息をついた。
 これではもう、本格的に眠れない。
 扇風機のスイッチをもう一度入れに起きるついでに、水でも飲みに行こう。
 そう仕方なく、拓海は起き上がろうと身体に力を入れた。
 ところが、
 いくら力を入れても、上半身がベッドから起き上がるどころか、膝を立てることすらできない。
 それを怪訝に思う、あれ? という言葉すら、喉から音となって出てこなかった。
 あぁ、やばいなぁ。
 と、暢気に思った。
 身体が意識よりも先に眠りに就いてしまったらしい。
 だがそれも仕方がないかもしれない。夏休みに突入してから、遊ばなかった日はないのだ。
 両親が海外旅行で不在であることをいいことに、きょうなど和樹や圭太たち友だち五人で街まで遊びに行ったあとは、近くの公園で遅くまで花火を楽しんだ。騒ぎすぎて公園前に住んでいるおじさんに怒鳴られたが、それすらも楽しかった。
 くたくたになるまで、騒いで楽しんだ。
 だから、これは仕方がない。
 そう思ったのだ。
 いや、そう、自分に言い聞かせようとしたのだ。
 けれど、

 ガシャン

 さすがに、触れてすらいないというのに派手な音を立てて扇風機の前面ガードが床に落ちると、恐怖が湧いた。
 開けた窓から聞こえていた夜の虫の声がぴたりと聞こえなくなったことが、余計に湧いた恐怖を増大させる。
 視覚と聴覚、そのほかすべての感覚が、部屋の隅にぽつんと置かれた扇風機ひとつへと、注がれた。
 扇風機が壊れたのだ、と無理やり思い込み瞳を反らしてしまおうと思うのに、それができない。
 そして、異変はそれだけに止まらなかった。
 毛穴という毛穴から、暑さからではない汗とともにわけの知れない恐怖が噴き出す。そしてそれはゆっくりと拓海を押し潰そうとするように、重く暗くそして冷たく覆った。
 その目のまえで、半透明の青い羽根が不気味な軋みを上げながら不自然な方向へと歪む。
 そして、

 ……ギギ……グギギ……ペキ……ッ

 折れる。
 扇風機が壊れたのだ、とはもう、とてもではないが思えなかった。
 何者かに力を加えられたとしか思えない折れ方で、三枚あるうちひとつの羽根が、床に落ちる。同時に、折れたせいで鋭く尖った羽根の破片が、フローリングの床を浅く傷つけた。
 これは、やばい。
 先ほどそう思ったときよりも、ずっと強く、そして混乱し切迫した頭で、思った。
 恐怖と焦りと不安。そんなものを綯い交ぜにした感情が、早鐘を打つ心臓を引き絞る。
 やばい。やばすぎる。逃げたい。逃げなくては。
 落ち着きを失くした拓海はベッドの上に凍りついたままの身体を動かそうと躍起になった。
 足をばたつかせ、腕を持ち上げ、頭を振ろうとする。
 けれど、身体は動かない。その反対に、心臓は呼吸を圧迫するほどに身体のなかを激しく揺さぶる。
 いやだ、いやだ、いやだ!

 バキ……ッ

 ひっ、と喉が空気を鋭く吸い込んだ。
 恐怖に見開かれた視線の先で、床の上に落ちた二枚目の羽根がぐらぐらと揺れていた。
 その破片も、まるで悪意を宿らせたように、鋭い。
 身体が熱い。
 全身が、心臓にでもなってしまったかのようだった。
 もう、身体を揺する心臓は壊れる寸前にまで速くなっている。
 助けて、助けてっ!
 声のない、動かないくちびるで、拓海は叫んだ。
 ふたりで行っておいで、と笑って旅行に送り出したやさしい両親の顔、そして色とりどりの花火に笑った仲の良い四人の友だちの顔が、脳裏に浮かぶ。
 怖い、助けて! 死にたくない!

 グギギ……ガキ……ンッ

 悲鳴を上げた。
 声のない、誰にも聞こえない悲鳴を、拓海は上げた。
 最後の羽根が折れ、その狂気を纏う破片が、床の上で陸に打ち上げられた魚のようにぴくぴくと跳ね上がるのを、半狂乱になった拓海の涙と血管を浮かせた瞳が、ただただ映す。
 ゆっくりと、散らばる鋭い先端がこちらを向く様を、反らすことすらできずに、映す。
「……ぅああああああああああああああッ!」
 不意に。
 身体を圧していたものがするりと解け、喉から獣のような声が迸った。
 ベッドから飛び起きると、部屋の反対側にある扉へとたった三歩でたどり着き、縋りつく。
 ノブをひねり暗い廊下へと飛び出し、助けて、と大声で叫ぼうとした拓海は、しかし、

 ぞぶ……

 逃げてきた部屋の中の『異変』を振り返り、そこで声が塞き止められたことに、気付いた。
 ぬらり、と汗に濡れた喉元を、さらに熱いものが滴る。
 恐怖に痛むほど激しく上下させていた胸に、痙攣するほど力を込めていた腹に、灼熱を感じた。
 熱はやがて激痛として、喉から、胸から、腹から広がり全身を焼く。
 限界まで見開いた目から、涙と、そして涙ではないものを流した。
 おおきく開けた口から、声にならない悲鳴が長く、長く、溢れる。
 やがて。
 ずるり、と廊下に座り込み、拓海は自分の喉と胸、そして腹から生える半透明の青い羽根を見た。

『つぎはだれがいい……?』

 不意に、背後から耳に注がれた少女のものであるらしいあまりにか細く暗い声音に、膝の上に落ちた指が震えた。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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