「夏の夜に」 参夜之壱
時刻は二十三時。
日付が変わるまで、まだ一時間ある。
夏休み中であることから、はやく寝なさい、という母の声は聞こえてこない。
冷房の効いた自室。
白々とした蛍光灯の光を浴びて、和樹は椅子に深く寄りかかり、ぎし、と軋(きし)ませた。
勉強机に軽く足を乗せて、写真の束を手にする。
「うぅ〜わ。ケイタ、ごっつ変な顔やしっ」
一枚一枚、笑いながら写真を繰っていく。
それらはすべて、三日まえのもの。
なんのことはない、仲間五人とカラオケに行ったあと児童公園で興じた花火、その際に和樹がデジカメで撮った写真だ。
派手に噴き上がり火の粉を盛大に撒(ま)き散らした花火は、最高だった。
大騒ぎしすぎて近所のおじさんに怒鳴られたが、それさえも楽しくて仕方なかった。
思い出し笑いをしながら、ぎし、とさらに全体重を背もたれに預けたときだ。
「う、わぁっ!」
ぐらりと椅子が傾(かし)ぎ、和樹は見事にうしろへと倒れた。
衝撃とともにものすごい音が響き渡り、背後の本棚が震える。
「いっだぁっ!」
背中を押さえて叫ぶと、夜遅いのだから静かにしなさい、という母親の怒り声がした。
「いったぁ……っつか、オカン、ちょっとくらい俺の心配しろっつぅねん」
文句を言うものの、しかし、まあいいか、と元来おおらか、悪く言うのならば能天気である和樹は、へらり、とすぐに笑う。
鼻歌混じりに椅子を起こし、そこらじゅうに散らばった写真に手を伸ばした。
そして、
「……あ? なんやコレ」
伸ばしかけた手指を、止める。
いくつもの笑い顔が映った写真の数々。その、一番上に、さきほどは気付かなかった写真があった。
キリンを模した滑り台。
ぽつん、と街灯に照らされて、それが闇の中に浮かび上がっている。
ただ、それだけの写真。
そんなもの、もちろん撮った覚えなどない。
「誰やねん、こんなん撮ったヤツは」
怪訝(けげん)に思いつつもその写真を、拾い上げる。
ぱち……っ
不意に、頭上からちいさな音が降ってきた。
ん、と音の発生源を見上げるが、蛍光灯は相変わらず無機質な白い光を降らせている。
もうすぐ切れるのかなぁ、などと思いつつ、和樹はふたたび写真へと瞳を落とした。
とたん、
ざわり。
冷房に冷やされた肌が一層冷えて、粟立つ。
キリンの上。
そこに、現れていたのだ。
白い、影が。
わずか、声を失っていた和樹だったが、気のせいだ、と乾いた笑いを顔に張り付ける。
けれど。
なにかが、おかしい。
静かすぎる。
両親も弟も、まだ居間でテレビを見ているはず。さっきまで、かすかな笑い声が聞こえていた。
それなのに、いつのまに眠ってしまったのだろう。
なんの音もしない。
いや、
ぱち……っ
ふたたび、頭上から音が降ってくる。
ただ、そのちいさな音だけが、意識を支配してくるのだ。
おかしい。
部屋が、冷たい。
冷房の設定温度よりも、蛍光灯の白が、冷たい。
ぱち……っ
肩が、震えた。
いつもの、部屋。
それなのに、この冷たく重い気配はなに。
鼓動が、徐々にはやくなる。
繰り返す呼吸の間隔が、狭まる。
汗などは、出ない。
ただ、全身の毛穴から、冷気が怯える心臓目掛けて流れ込んでくるようだ。
おかしい。
おかしい。なにか、おかしい。
ふ、と。
誰かを呼ぼうとしてさまよわせた瞳が、本棚で止まる。
隙間なく並べている本棚。
けれど、そのまえ。
つまりは、自分のすぐそば。
薄い煙のような、白い靄(もや)があった。
ガタ……ッ
あとずさると、椅子に背をぶつける。
ぱら、とその手から足もとへと落ちたのは、さきほどの写真。
「っ!」
もはや、声などは出なかった。
喉(のど)が引き攣(つ)って、ひぅ、という音がくちびるからこぼれただけ。
なぜなら、
キリンの上にあった、白い影。
それが、キリンの手前に移動して、大きくなっていたのだ。
そして、
ぱち……っ
目のまえの、白い靄。
それが、ゆっくりと、濃くなっていく。
曖昧(あいまい)だった輪郭(りんかく)を、徐々に現しはじめる。
に……ぃ
それは、歯のない口を開けて、
笑った。
ぱちり。
最後に大きな音がして、和樹の意識は一瞬にして闇に、
喰われた。
|