「夏の夜に」 参夜之弐
 
 
 じとり、と。
 湿った暑気が、小麦色に焼いた肌に纏(まと)わりつく。
 喘(あえ)いだ喉(のど)に、汗が伝った。
 見上げた空は、暗い。
 分厚い雲に覆われて、星ひとつ見えなかった。
 どこからか聞こえてくる虫の声が、不気味にさえ思える夜だ。
 暗闇に、ぽつ、と頼りない街灯が、アスファルトの上、細く黄色い帯を落としている。
 圭太は大きく息を吐き出し、両手で自分の頬(ほお)を軽く叩く。
 浮かんでくる闇への怯えを、そうしてごまかそうとする。
 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、そのささやかな明かりにほんのすこしの安堵を得て、ふたたび歩き出した。
 左の手指だけで操作して、数分まえに届いた和樹からのメールをもう一度、開く。
 話があるから来てくれ、という内容。
 それにしても、と圭太は思う。
「なんでこんな時間に呼び出すねん、アイツ。アホか」
 時刻はすでに、零時を過ぎていた。
 とはいえ、いつも明るい和樹にしては珍しくたった一行であったそのメールに、なにやら落ち着かなくなって真夜中に家を出てくるほどには、親しくしている友人だ。文句を言いつつも、和樹の身を案じていた。
 だが、いつも通りなれているはずだというのに、ほかに人の気配がない真夜中の道は、どこか別の場所のように感じる。
 まるで、まったく知らない世界に迷い込んでしまったかのようだ。
 高校から帰宅する際に突っ切ってくる児童公園は、視界に入れたくないほど暗い。
 足早にその脇を通り過ぎ、和樹とその家族が暮らすマンションへと向かう。
 駐車場の角を曲がったとたん、
「うわっ」
 思わずちいさく声を上げて、足を止める。
 低い位置に、双つの黄色い光。
 それは、こちらを一瞥(いちべつ)すると、さっさと車の下へと消えていった。
「……猫ぉ」
 驚かすなよ、とほんのわずかな怒りと安堵に、くちびるを歪める。
 と、そのとき、
 
 こつ……っ
 
 背後に、ちいさな音を聞いた。
 息が、詰まる。
 心臓が、冷たい手に握られたような、そんな感覚。
 ただの、なにか硬くちいさなものが落ちる音、だ。
 自分には関係ない。
 怯えることなんて、ない。
 そう、自分に言い聞かせるのに、なぜか身体が凍り付いて動けなかった。
 まるで、見えない手に両の足首を掴まれているかのようだ。
 そして、気付く。
 そよ、とも風が吹いていないことに。
 さきほどまで聞こえていた虫の声が、やんでいることに。
 ざわり、と足もとから這い上がってくる恐怖に、総毛立った。
 唯一自由になる瞳だけをせわしなく動かして、圭太は街灯に照らされて長く伸びた自分の影を、正面に見る。
 くっきりと浮かんだ影。
 けれど、ただの影だ。
 音もなく、喉に唾(つば)を飲んだ。
 おそるおそる、視線を右へと移し、しん、と静まり返った駐車場を見やる。
 なにも、ない。
 異常なんて、あるわけがない。
 だって、猫がいた。
 たぶん、まだいる。
 そう、自分を納得させようとして、ふたたび自分の影に、視線を移した。しかし、
「っ!」
 それを見たとたん、喉が引き攣(つ)り声にならない悲鳴を発する。
 
 自分の、影。
 
 そのすぐ隣りに、もうひとつ、影が現れていた。
 それは、頭ひとつ分、短い。
 背後だ。
 背後に、いる。
 
 せわしなく繰り返す呼吸。
 早鐘のように鳴る心臓。
 見るな、と圭太は自分に言い聞かせる。
 だが、明らかに背後から漂ってくる空気の質が、違う。
 冷たく静かで、そして、
 重い。
 
 こつ……っ
 
 びくり、と身体が硬直する。
 
 こつ……っ
 
 息が、できない。
 
 こつ……っ
 
 立て続けにこぼれたそれが、もうひとつの影の上を転がってきた。
 見覚えのある、かたち。
 ちいさくて白い、それ。
 いや、それは真っ白ではなかった。
 気付いたとたん、異臭に気付く。
 ぬらり、と絡みつく、血の臭い。
 無理やり引き抜かれたと思われる、歯。
 それが、転がってきたものの、正体。
 
 ……タスケ、テ
 
 しわがれた、声。
 それが、背後から。
 囁(ささや)くような、声。
 
 ……ケ、テ……ケイ……タ
 
 ケイタ、と呼ばれたとたん、その声が誰のものであるのかを、圭太は覚った。
 けれど。
 見るな。見てはいけない。
 そう、本能が叫んでいる。
 
 ……ケ、イタ
 
 見るな。絶対に、見るな。
 けれど、
「カズ……っ!」
 圭太は、振り向いた。
 そこにいたのは、和樹だ。
 けれど、それはもはや、和樹ではないモノ、だった。
 その右手には、引き抜かれた歯を。
 そして、歯のない血塗れの口で、にやり、と笑って。
 大きく見開いた血走った目で、嬉しそうにこちらを見据えて。
 
 ブン……ッ
 
 左手に握ったなにかが、振り下ろされる。
 圭太は、悲鳴を吐くことさえ、できなかった。
 すべてが、止まってしまったからだ。
 思考も、息も、その鼓動さえも。
 そして、
 
 ぱちん
 
 誰もいない夜の道。
 ちいさく音を立てて、街灯が消えた。
 残ったのはただ、深い静寂とじとりと暑い闇だけ。
 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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