暗くなるのがはやい。
 学校の帰りにほんのすこし寄り道をしただけだというのに、もうあたりの輪郭は暗い色に
溶け出している。
 忍び寄る夜闇とともに、風も一層冷たくなっていた。
 ひやり、と足もとから心臓めがけて這い上がる冷気に、全身は強張っている。
 コートの前をかきあわせ、すこし前かがみになってマンションの階段を駆け上がった。
 家に帰れば、母親のつくったあたたかい夕食が待っている。
 直樹とその家族が住むのは最上階の五階なのだが、近ごろは勉強ばかりで身体が
なまりそうだと思ったため、わざわざ一階に止まっていたエレベータではなく階段で上がった。
 そして、軽く息を乱しながらも最上階へとたどり着いた、そのとき、
 
 ざわり。
 
 と、なぜか総毛立った。
 まるで、正体不明のなにかに突然背後から両の肩を掴まれたような、そんな感覚。
 思わず立ち竦んで、息を飲む。
 どくん、と胸のなかで心臓が厭な音を立てた。
 景色は、なにも変わらないはずだ。
 目のまえにあるのは、頼りなげな白い光を降らせる蛍光灯のついた細長い廊下。
 左には、並ぶ鉄製の扉。
 右にはマンションの駐車場と、向かいのマンションが見える。
 いつもとなにも変わらない。
 自分に言い聞かせるように、うるさく鳴る胸のうちでつぶやく。
 ゆっくりと、廊下の一番奥にある扉を目指して、一歩足を踏み出した。
 とたん、
 
 ギイィィ……
 
 不気味に軋む音とともに、目指すその扉が、開く。
「ひ……っ」
 思わず、悲鳴をもらした。
 なぜなら扉の内側が真っ暗だったからだ。いや。真っ暗、ではない。
 黒いのだ。
 それも夜闇の黒ではない。なにかもっと、冷たくおぞましいような、息の詰まる黒。
 同時に、なにかがどっと流れ出してくるようだった。
 目には見えない。
 においでも、ない。
 ではなにか、と問われても、それがなにか直樹にはわからない。
 けれどなにかが、通常では理解できないなにかが、そこから流れ出していた。
 それに、どう考えてもおかしい。
 なぜならその扉は、外開きだ。しかも鉄製の扉なのだ、手を離せばすぐに閉まってしまう。
 けれど扉は、こうして開いているのだ。
 まるで、こちらを得体の知れない深い闇へと手招きするように。
「……ゆ、ゆず……?」
 ふたつ年下の妹の悪戯かと思い込もうとした直樹はおそるおそる、しかしわざと明るい
ようすをつくろって、声をかける。
「なにやってんだよ、ゆず」
 しかし、それに答える声はなかった。かわりに、
 
 ギッ……ギ……ッ……
 
 扉が、限界にまで開かれる。
 もちろん引く手はない。押す手も、ない。
 だというのに、扉は低い悲鳴のような軋みを上げて動く。
 直樹は混乱した。
 なにが起こっているのか、まったく理解できなかった。
「ゆ、ず」
 喉が引きつる。
 がちがちと鳴る歯の隙間から、かすれ声がこぼれた。
 心臓はもはや、身体をつきやぶって外に飛び出すのではないかというほど。
 どくどくと脈打ち、冷たい血液を痛いほど速く全身に送り込む。
 呼吸も、運動のためではない荒さで両の肩を揺さ振った。
 全身は凍りつくようだというのに、四肢が音を立てるのではないかというほど激しく
震えているという、このおかしな現象。
 やばい。
 逃げなきゃ。
 ここから逃げなきゃ。
 ぎくしゃくと、直樹は踏み出していた足を引き戻した。
 けれど、視線は真っ黒ななにかを吐き出す扉に吸い付けられたまま。
 やばい。
 なにかがいる。なにかが出てくる。
 わけもわからず、そう思った。
 ひとじゃない。
 けれど、生々しいなにか。
 けれど、生き物ではないなにか。
 やばい。
 くちびるから溢れるのが呼吸なのか、小刻みの悲鳴なのか。それさえもわからない。
 
 ギ……ッ
 
 それ以外に音はない。
 この場所だけが、まったく別のどこかに切り離されてしまったかのように。
 そしてただその音だけが、直樹の意識を侵食した。
 逃げなきゃ。
 身体が、心が、もう限界だと泣き叫んでいる。
 はやくここから逃げ出さないとなにかもっと恐ろしいことが起こる、と。
 直樹は、力を振り絞って視線を扉から引き剥がし、身体を反転させようとした。
 した、のだ。
 けれど、
 
「……どこに、いくの」
 
 すぐ、ほんのすぐそばに、その幼い声を聞いた。
 見るな。
 見てはいけない、と。
 本能が叫んだ。
 だが直樹は、その幼い声が持つ暗い不気味な響きに逆らえず、扉から引き剥がした目を
ぎくしゃくと動かし、自分の右側、腰のあたりを見る。
「ねえ、ゆびきりしてあそぼう」
「っ!」
 一瞬息が、止まった。
 いったいどこから現れたのか。いつからいたのか。
 こどもが立っていた。自分のすぐ、わきに。
 顔は、見えない。
 幼いこども特有の、癖のないまっすぐな黒髪が、長く垂れていた。
 そのすだれのように顔を隠す髪の隙間から見えるのは、白い、青いほどに白い肌。
 こどもは、少女は、明らかに通常とは異なる雰囲気を放出していた。
 言うならばそれは、狂気。あるいは恐怖。
 それのずっと密度の高い、そしてたまらなく温度の低いもの。
 そして、そのちいさな手が胸のまえに持っているのが、ちいさな箱だ。
 視線を落としたとたん、それはかすかに動いた。
 直樹は声のない悲鳴を上げる。
 とっさに後ずさり、しかし足がもつれてあっけなく尻餅をつく。
 そのままの状態で後ずさろうとするが、両足がうまくコンクリートの床を蹴ってくれない。
「ねえ、ゆびきり」
 ただただその少女と、そして彼女の持つ箱が恐ろしくて、必死に首を横に振る。
「あそぼうよ」
「……い……っ」
「あそぼう」
「や……っ」
「ゆび」
 
 カタン……ッ
 
 少女が、箱を取り落とした。わざと。
 そして、ずい、と腰を抜かして立てない直樹の顔に、ちいさな顔を寄せる。
「ゆび、ちょうだいよ」
 にぃっ、と。
 色のないくちびるが悪意に満ちた笑みに歪み、そこからあまりにもしわがれた低い声音が
吐きつけられた。
 心臓が止まったのは、氷のように冷たいちいさな指に指を掴まれたから。
 目が、床に落ちた箱の中身を見てしまったから。
 
 無数の切り取られた指が、まるで蟲のように蠢きながら箱のなかから這いずって……
 
 
 
 そのころ。
 ゆずはこたつに入ってテレビをみながら、兄の帰りを待っていた。
 兄が帰ってこないと、鍋ができない。
 しかたがないから、スナック菓子をつまんでいた。
「おにいちゃん、どこほっつき歩いてんだろうね」
 母の返事はなかった。鍋の用意で忙しいのだろう。
「はやく帰ってこないかなぁ」
 そう言って、ゆずが手指をつっこんだ菓子袋のなか。
 そのなかに蠢くものがあるのを、
 
 彼女はまだ、知らない。
 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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