蜘蛛の棺
キシ……
と、そこに満ちた静寂に綻びをつくる、幽かな音。
締め切った障子は茜の残光に燃えるようであり、そこにゆらゆらと映る木々の黒々とした影が畳の上にまで伸びている。
その、まだ青い香りを放つ畳の上に、ぽつん、と置き忘れたかのように座る人形があった。
絞りの黒い着物に、金と紺青の糸を多く使った錦の帯。
癖のない漆黒の髪がちいさな背肩に流れていた。
少女を模る人形の白い顔に、表情はない。
けれどその硝子球のような紺青の双眸は、じっ、と頭上を見据えるよう。
そこに、それはあった。
さまざまな花鳥が鮮やかに描かれた天井のすぐ下に張られた、巨大な蜘蛛の巣。
音を立てたのはその、真珠の色をした糸だった。
そして、
ギシ……ッ
さきほどよりも、強く。
美しい網目を描く糸が緊張し、啼いた。
赤い障子に映る黒い影が、風に強く揺れる。
押し寄せるように闇が部屋の内側を侵食し、無数に張られた糸をも覆い隠した。
しかし、
ギリ……ッ
さらに強く糸が引き絞られ、青い畳の香りを掻き消すほどに濃く、鉄錆びの臭いが漂う。
人形の視線の、先。
蜘蛛の巣の、中心で。
「……っ!」
そのときになって、ようやく少女は声を上げた。
いや、上げようとしたが、できなかった。
なぜなら、青白いほどに白いその細い首には、繊細な見た目を裏切るほどにしなやかな糸が幾重にも巻きつけられていたからだ。
いや、首だけではない。真白い単を着けただけの少女の身体中を、それこそ、小さな白い顔や頼りなげな十指までもを執拗に、糸は絡め取っていた。
深い眠りの淵から唐突に襲った痛みに目覚めた少女は、自分がどのような状況に置かれているのかが把握できずに声のないまま混乱し、恐怖した。
必死に唯一自由になる瞳だけを動かすが、あたりは闇に覆われてなにも見えない。
すると。
「かわいそうな、ちょうちょ」
小鳥が覚えたてのひとの言葉を話すような、どこか拙く幼い声がした。
抑揚のないその声音に、ひくっ、と喉が引き攣る。
とたん、ギシリ、と強く糸が啼いた。
「い……っ!」
それはじわりと皮を破り、肉を裂き、骨に食い込む。
絞られた喉から、不自然に空気が洩れた。
声のない悲鳴が、突出した眼球で弾ける。
うねる、痛み。
逃れようと思えば思うほどに、激痛は細く鋭く、深く、食い込んだ。
そしてすべての感覚は痛みに変えられる。
神経どころか思考さえも、焼き切れるほどに。
痛覚だけが、非情にも冴え渡った。
いっそう濃くなる、血の香。
「でも、あなたのいのちはわたしのなかでいきる」
声音とともに、目のまえで火影が揺らいだ。
炎のような痛みと恐怖に支配された意識のなかで少女の瞳が見たものは、黒いほどに血に染め上げられた無数の糸。
そして、巨大蜘蛛の巣に捕らわれたおのれの影。
ギリリ……ッ
蜘蛛の巣の真下。
動くはずのない人形のちいさく白い指が動くと同時に、それに絡みつく糸が引き絞られた。
けれど、糸がその指を落とすことはない。むしろその指に絞られ手繰られて、糸は愉悦に啼き、巣に捕らえた獲物を朱に染める。
そう、畳の上にぽつんと座ったこの美しい人形こそが、蜘蛛。
その姿が、いつのまにかかたわらに置かれた蝋燭の火に、闇の中、不気味なさまで浮かび上がっている。
「うらむなら、うらむといい」
冷たく硬いくちびるは、動かない。けれど、声は人形のなかから発せられる。
「わたしはそのうらみごと、あなたをたべてあげる」
つ、と。
その残忍な言葉を吐く冷たいくちびるに向かって、赤い色が伝った。
人形は、そのちいさなくちびるに糸を挟み込んでいる。
揺れる明かりのなかでゆるやかに、真珠色は禍々しい色に染められていく。
感情など、命などないはずのその紺青の双眸が、火影のせいであるのかそうでないのか、揺れた。
残忍でありながらも悲哀に満ち、優しげでありながら無慈悲に。
ギヤァァァァッ
それは、なにもかもが焼き切れた声のない絶叫。
断末魔。
締め切られた障子の一部が、激しくしぶいた血と弾け飛んだものに破れた。
そこから覗くのは、猫の瞳のように細い血色の月。
ざわざわと黒い木々は騒ぎ、溢れ出る血の匂いをかき混ぜる。
しゅる……
ひどくやさしく、糸が啼いた。
直後、なにか濡れて重いものが畳に叩きつけられる音がつづく。
少女、だったものだ。
魂が喰われた、刻まれた空の器。
それを、衣擦れとともに立ち上がった人形が、感情の窺い知れない硝子球の瞳で見下ろす。
「あなたのたましいは、わたしのなかに」
わたしは、そう……あなたのひつぎ。
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