刻墓地
 
 
 人の気配はない。
 唯、仄かに紫がかって見える猫の瞳のような金の三日月が、夜闇に沈む墓地を見下ろしているだけだ。
 紫の薔薇が絡まる十字架の墓標に寄り掛かり、左右で色の違う瞳を笑っているかのように細めて此方を見据える美しい女は、人ではない。
 後ろに流したたっぷりと襞のある漆黒の衣装の裾と、靴下留めで吊った黒の薄い絹靴下の合間に見えるのは、滑らかな肌理を持つらしい白い脚だ。
 緊張に震えた喉を鳴らすと、其れが聞こえたのか、女が月光に鈍く妖しく光る銀色の長い髪の先を黒い手袋に包まれた手指でくるりと弄んだ。
「覚悟は出来たのかね」
 不意に低く声を掛けられて、身体の中で既に拍動を速めていた心臓が更に跳ねる。
 声を掛けてきたのは、女ではなかった。
 思わず出かけた悲鳴を痛む喉の奥へと飲み込みながら、相変わらず瞳を細めて此方を見据える女から声がした方へと視線をずらす。
 何時の間にか、墓標の傍らに男が現れていた。
 此方もやはり黒ずくめで、しなやかそうな細身の身体に燕尾服を纏い頭にはやや反った縁のある円筒形の帽子という礼装に、右目には片眼鏡をつけている。
 月光を受けて静かに光る片眼鏡の向こうの金の双眸に、冷ややか且つ鋭く見詰められて、思わず其の息苦しさに喘ぐと、男は胸元に左の手指を滑り込ませ内側から金色の懐中時計を取り出した。
「我々と共に行くというのならば、此れ迄の全てを捨てなくてはならない」
 厳かに言って、男は懐中時計を開く。
「此れ迄与えられてきたものを捨て去り、此れより差し伸べられる手を拒むのだ」
「……すべて……」
 喉から落ちるのは、情けなく震えた自身の声だった。
 此れ迄与えられてきたものを。
 其処にあった優しく、幸せであった思い出を。
 其の全てを捨て去れ、と。
 迫られて、身体が震えた。
 其の哀愁に、心が泣いた。
 だが、
「捨てられないのかね。捨てられたというのに」
 歌うように、誘うように。からかうように、そして哀しげに、此方を見詰めたままの男に問われて、はっ、と顔を上げる。
「君は裏切られたのだろう。そして、全くの独りきりには、なりたくはない。だから、今此処にいる。違うかね」
「……そう、だけど」
 そう、自分は捨てられた。
 始めの頃は酷く甘やかされ可愛がられ、自分はとても幸せで、其の幸せも当たり前だと思っていたのだ。
 良い匂いがする温かい世界に暮らし、外の世界があるなど思いもしなかった。
 けれど、其れも手足が伸び身体が大きくなる迄のことだったのだ。
 何も知らない儘、訳も知れない儘に、或る日突然外の冷たく厳しい世界に放り出されてしまった。
 其れから見知らぬ連中に、此方へ寄るな、と引っ掻かれ、何処ぞへ失せろ、と砂を掛けられて、絶望と共に此処へと流れてきたのだ。
 喉が裂けそうで、胸が破れそうだった。
 もう身も心も襤褸切れのようで、じっと立って居ることすらも本当は苦しかった。
 自分だけでは如何しようもなくて、誰かに縋りたくて、気が狂れてしまいそうだった。
「人は気紛れで薄情。慈悲に溢れながら無慈悲な生き物だ。我々は違う。存在する距離を知っている。必要な時を知っている。そして掟を知っている。だからこそ、自由なのだ」
 張り上げるでもなく朗々と響く声とぴんと張った髭が、美しい。
 光る瞳が強い顔を上げて真っ直ぐに先を見据える姿が、誇り高い。
 今にも心が折れて臥してしまいそうである自分の姿とは、余りにも違った。
 目頭が熱くなり、視界がぼやけた。
「此の儘であれば、君は近く死ぬだろう。間違いなく」
 さて、如何する。
 すいと細められた瞳に問われて、血の滲む口からありたけの声を上げた。
「おねがい……たすけて……っ!」
 解き放って欲しいと訴える。
 折れない潔さを、臥さない強さを。独りでも真っ直ぐに立ち、そして歩む気高さを。
 魂の底から、欲した。
「良いだろう。我々と共に行くというのなら、我々が知る全てを教えよう。だが其の為には、与えられた甘さを捨て、距離を知らねばならない。狡猾と俊敏を持たねばならない」
「……ぅ」
「今は、全てを捨てることは辛いだろう。信じたかったものも多かろう。其れを忘れろとは言わない。唯、捨てろ」
「……すて、る」
「然うだ。其れ等を捨て去り其の上を歩み、己の強さへと変えるのだ」
「つよさ……」
「然う、強さだ。新しい己へと生まれ変わるのだ」
「あたらしい、ぼく」
 男はひとつ頷いて、金の懐中時計の蓋を閉じた。
「さて、時間だ。此れが最後だ、若者よ」
 最後にもう一度だけ訊ねよう。
 沈黙の下りた墓地に響き渡る葬送の鐘のように、男が言った。
 此処は此れ迄の己を捨て去る、墓地。
 そして、新たな己が生まれる、誕生の地。
 紫の薔薇が揺れる。
 三日月が、見詰める。
 静かに、静かに。
「覚悟は、出来たかね」
 此の儘、絶望の直中にくず折れうち臥して、そして、此れ迄の自分は何であったのか、と嘆いた挙句、野に乾ききった白い骨を晒すのは厭だ。
 優しかったあの手の温もりは、最早遠い。
 懐かしいあの微笑みも、辛く痛い裏切りさえも、唯。
 哀しみの向こうへ。
「ぼくは、いきたい」
 行きたい。
 生きたい。
 気高く、強く。
 生きていきたい。
 哀しみも怒りも、痛みも苦しみも、全てを力に変えたい。
 新しく生まれ変わりたい。
「……良かろう」
 其れを聞いて、男が厳かに頷いた。
「では、名乗るのだ。新しく生まれ変わる、君の名を。私の名は、『長き尾の黒き紳士』。其方の美しい淑女は、『三界を見据える白き魔女』」
 すい、と腕を開いて名乗った男の燕尾服の裾から艶やかに長い黒い尾が現れ、ゆったりと振られる。
 そして、紹介されて外方を向いた女の、過去を見詰める右の青い瞳と未来を見詰める左の金の瞳が、きらりと光った。
「祝福を受けるのだ、若者よ」
 足音なく此方の傍らへと歩み寄った紳士に、優しくしかし力強く、墓標へと腰掛ける美しい魔女の方へと背を押される。
「淑女の右側に立ってはいけない。彼女は其方側の耳が聞こえないから、引っ掻かれてしまう」
 喉を震わせて笑う紳士を肩越しに振り返り、覚束ない足取りで魔女の正面に。
 不安と怖れと哀しみの中に、僅かな希望が顔を覗かせた。
「さあ、名乗るのだ」
 力強く後押しされて、ゆっくりと頷く。そして、
「ぼくは……ぼくのなまえは、『     』」
 静かに、静かに。
 見守る月の下、小さな声で名乗った。
 すると女は、
「にゃぁ」
 澄んだ声音で、ひとつ。
 過去と未来そして現在に生きる此の命へと、祝福を囁いた。
 
 

CentralStation様へ、相互リンクのお礼に捧げますv
猫っぽいなにか、ということで……このように。擬人化してみました。
猫、とは表記してはいませんが、捨て猫と野良猫のお話です。
漢字を多用して、カタカナ文字を排除してみたのですが……わかりにくいかしら。
にゃあ。
三毛猫さん、相互リンクしてくださってありがとうございます♪ 2009.9.26
 
 
   

 

 

 

 

 

 

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