60cmのディーバ
カラッポ、ダッタノ。
デモアナタハ、アタシヲ愛シテクレタ。 アタシモアナタヲ、愛シタワ。 ダカラ。 アタシハアナタノ、 冷タイ、棺。 人の手によって地上に生み出された幾万の星の欠片と、それらを纏う街路樹。 そしてその下に集う、恋人たち。 街はいま、聖夜を彩る灯りに輝いている。 なかでもひときわ美しく飾られた、大きな樅(もみ)の木。 その天辺で輝きをこぼす金色の星の上に、彼女はいた。 イルミネーションの絨毯を足もとに、彼女は星の見えない暗い空にちいさな両手を伸ばし、歌っている。 その歌声は、暗い空から真白い六花(りっか)が舞い降るように、恋人たちの上に降り、彼らの鼓動をやんわりとひとつに重ねた。 白いレースに縁取られた、真紅のドレス。 ふんわりとした裾から覗くのは、ちいさな薔薇に飾られた艶のある靴。 光の加減で金にも銀にも見える髪は、ゆるく巻かれて背肩に流れる。 「綺麗な歌。ううん。歌だけじゃないわ。あの子、とっても綺麗。欲しいな」 「ダメだって。あの人形は、このイベントの目玉だろ。でも、確かに綺麗だよな。いったいどういう仕組みなんだろうな」 そう。彼女は、歌う人形だった。 「ねえ、ディーバ。聞いた? 綺麗ですって。良かったわね」 ふと、歌うのをやめた人形はちいさなくちびるを歪め、薄紅色の硝子の瞳で地上を冷たく見下ろしながら、言った。 「でも。ねえ、ディーバ。これがあなたの望み?」 ほんとうにこれが望みなのか、と人形はせせら笑う。そして、 「もう飽きたわ。つぎに行きましょう」 ゆっくりと、空に浮き上がった。 人形がつぎにやってきたのは、イルミネーションの海を遠くに眺める窓だ。 薄暗い部屋のなかでは、ひとりの少女が深い溜息をついていた。 ぼんやりと、甘い香りを放つ蝋燭を眺めている。 「浮かない顔ね。クリスマスだというのに」 声をかけると、少女はちいさく悲鳴を上げ、開け放たれた窓から離れた。 その当然の反応に、人形は綺麗に微笑んだ。 「こんばんは」 はじめは突然現われた人形を気味悪がっていた少女だったが、人形が歌い出すと、とたんにうっとりと心を解かした。 「あなたは綺麗ね。羨ましいわ。わたしは……綺麗じゃないから。だから、クリスマスだっていうのにひとりになっちゃった」 歌をやめた人形は、ちら、と硝子の瞳で少女を見やる。 少女の鼻は確かに低く、目も一重。 誰が見ても美しく、愛らしくつくられた人形とは、なにひとつとして似通うところはなかった。 「あなたは天使なの?」 訊ねられて、人形は首を振る。 「違うわ。人形よ」 「ほんとうに、人形なの? まるで生きているみたい」 「……そう」 「クリスマスの魔法、なのかしら。それとも夢?」 「あなたが夢だと思うのなら、夢かも知れないわ」 「もう一度、歌ってくれる?」 窓辺に腰かけた人形がその願いに応じてやると、不意に少女の瞳から真珠のような涙がこぼれ、蝋燭の明かりをやんわりと吸い込みながら絨毯の上に落ちた。 「綺麗ね」 歌をやめて人形が言うと、え、と少女が涙に濡れた瞳を上げる。 「あなたを捨てた男の目は、相当に曇っていたのね」 「そうじゃ、ないわ。わたしが綺麗じゃなかったから、だめだったの。彼は、悪くないわ。わたし、あなたのようになりたいわ。あなたに、なりたい」 「腹が立つわね」 「え?」 「あなたよ。わたしは、綺麗ね、と言ったのよ。どうして否定するの。あなたのどこが綺麗じゃないのか、わたしにはわからないわ。あなたがどうしてわたしを羨むのか、わたしにはわからないわ」 「だって、あなたはほんとうに綺麗で」 「やめて」 あなたは綺麗で不思議だわ、と言いかけた少女の言葉を、人形は冷えた声音で遮った。 そして、細い肩を流れる金にも銀にも見える長い髪を、ちいさな手で乱暴に引く。そうやってまるい頭から無理やり取ったウィッグを、少女の胸に叩きつけた。 靴を脱ぎ捨て、ドレスを破く。 「なにをするの! やめて!」 「わたしのどこが綺麗なの」 破られたドレスから、継ぎ目が覗いていた。 ウィッグのないあたまにも、切れ目が入っている。 「わたしはただの人形よ。生きているようでも、ほんとうには生きてなんかいないのよ。それなのに、いったいどこが綺麗だっていうの。人形は人形でしかないわ。硝子の瞳からは涙なんて流れないし、ウレタン樹脂の指では誰を温めることもできないのよ。でも生きているあなたには、いくらだって可能性があるじゃない! わたしには、ないわ!」 生きているほうが、ずっといいわ。 そう叫んだときだった。 ゴト…… 手首のパーツが外れ、少女の足もとに転がる。 「そうよ、ディーバ。生きていたほうが、ずっと良かったわ……」 「あなたはほんとうに綺麗ね。さあ、薔薇の髪飾りをつけましょうね」 わたしは、彼女がとても好きだったわ。 金にも銀にも見える髪に、薄紅色の瞳。 見ているだけで、幸せな気持ちになったのよ。 なにも語らなくても、ただそこにあるだけで、 それだけで幸せだったのよ。 真っ白でちいさな、宝物。 わたしは彼女に色鮮やかなドレスを着せて、綺麗なリボンで飾った。 綺麗じゃないわたしは、綺麗な宝物だけを愛したわ。 そして、綺麗な彼女に、わたしはなにもかもを捧げた。 お金も、愛情も、 命さえも。 彼女に、なりたかったから。 綺麗だね、と言われたかったから。 「あなたに、なりたいわ」 「……わたしは、忘れていたわ」 綺麗じゃない自分が、嫌いだった。 けれど一度だけ。たった一度だけ、綺麗だ、と言われたことがあった。 天使のような歌声だ、と言われたのだ。 そう言われた自分の声が、好きだった。 それをずっと、忘れていた。 この人形の姿を、この声を、どれほどの人にどれほどに綺麗だと褒め称えられたとしても、 「どうせ歌うのなら、生きた声で、歌いたかった」 いまさらこんなことを思うなんて。 と、人形は絨毯の上に転がるパーツを、虚ろに見下ろした。途端に、 ガタ……ン。 膝が崩れて、人形は窓から絨毯の上へと転げ落ちる。 そして、悲鳴を上げる少女を、硝子の瞳で見上げた。 「どうしたの? いったい、どうなっているの? でも、あぁ、ごめんなさい。きっとわたしがいけないんだわ」 混乱する少女に、人形は首を横に振る。 そのしなに、身体のあちらこちらがひどく軋んだ。 「あなたのせいじゃないわ。だから、泣かないで。それよりも笑ってちょうだい」 「え」 「知っていた? わたし、まだあなたが笑うところを見ていないのよ」 「で、でも……」 「わたしはもう、行くわ。どこへ行くのかは、知れないけれど。行くわ。だから、笑ってちょうだい。あなたが笑ってくれたのなら、わたし、嬉しいわ」 くちびるが、硬くなっていくのがわかる。 身体から自由が消えていくのが、わかる。 「ねえ、魔法が解けるわ。そのまえに、笑って」 けれど、どこかが軽いような、そんな気がした。 「ともだちに、なりたかったわ」 「もう、おともだちでしょう、わたしたち」 そう言って、少女は綺麗な涙をその瞳いっぱい溜めながら、微笑んだ。 「あぁ……綺麗ね、あなた。笑うと、とっても、きれ……い」 ゆっくりと、硝子の瞳から光が消えていく。 けれど、光が見えていた。 「ね……え……ディーバ」 ねえ、ディーバ。 いいえ。 『わたし』。 わたしの望みは、みんなに綺麗だと言われることじゃなかったわ。 誰かを、幸せにしたかったのよ。 わたしが愛した、お人形のように。 でも、もっと生きたかったわ。 そうしたら、生きた歌をこの少女に届けてあげられたのに。 そうしたら、きっともっと幸せだったわ。 魔法が、静かに解ける。 幾万の輝きの海に。 幸セ、ダッタノ。 アナタハ、ワタシニナリタイト言ッタ。 ワタシモ、アナタニナリタカッタ。 ダカラ。 ワタシハアナタヲ、 解放シテアゲル。 棺ノ蓋ヲ、開ケテアゲル。 行きましょう。 光が、見えるわ。 歌いましょう。 一緒に。 |