パラノイア
 
 
 
 息苦しい渇きに、眠りの淵にあった意識が浮いた。
 太陽が闇に堕ち、夜の女王が中天に妖しく輝く姿見を浮かべて、しばらく。
 いまにも皮膚を破り外へと踊り出してしまうのではないかというほどに身の内で激しく鳴る拍動に、いやおうなく覚醒させられた青年は、汗に濡れた身体を起こし寝台に座った。
 喉が渇く。
 身体が渇きを覚えて、居ても立ってもいられない。
 ぐ、と寝衣の胸元を掴み、青白い月光に満ちた窓へと苦しげに細めた瞳をやった。
 どろりと生温かくねっとりと甘い、あれが欲しい。
 あの、赤い命の水。
「……血……が……」
 血が欲しい。
 くちびるから零れたおのれのしわがれた声に、青年は背筋を震わせ頭を抱えた。
 血に渇く身体が怖い。
 そしていまにもあの窓から身を躍らせ、運悪く通りがかった者を襲いその血を啜るのだろうおのれが、恐ろしい。
 この身は血を求めて荒れ狂う醜い魔物となり果てた。胸に杭を打たれ首を斧で落とされ埋葬されても、決して許されないだろう。
 恐ろしい、助けて欲しい、と身体をまるめるようにして震える青年のその目蓋の裏に浮かぶのが、闇の中輝く黄金(こがね)巻き毛を揺らして微笑む女神のように美しい少女(おとめ)の姿。
 出会ったのは、つい先日。ほんの、わずかの間。
 なまえすら、知らない。
 それでも、
 陶器のように滑らかで白い肌に、薔薇のくちびる。
 光の粒が絡まるような長い睫毛が縁取る、碧緑にまばゆく輝く形良い双つの宝玉。
 ひと目見た瞬間、恋に落ちた。
 ほんの手指の先だけでもいい、あの艶やかな肌に触れたい。
 少女のかたちをした麗しく輝く女神をただ、見つめるだけでもいい。
 いや、こちらを包みこむ薔薇のような香りを感じるだけでも構わない。
 彼女が欲しい、と。
 しかし。
 身の程知らずにも女神に懸想した代償であるのか、罰であるのか。
 黄金の少女に恋い焦がれ、求めれば求めるほどに。
 心の臓がうるさく音を刻み、少女を求めるのとおなじだけの強さで、身体が渇いた。
 どれほどに水を含もうが、焼けた砂の上に水滴をひとつ落とすような空しさで、渇きは一向に癒えはしないのだ。
 
 この身は恋に落ち。
 そして、奈落に落ちた。
 
「あ……ぁ……」
 助けてくれ、と音もなくくちびるが紡ぐが、一度湧き上がったひどい渇きのまえでは最早それすらも認識できてはいない。
 ただただ、あの少女はどこだろう、血はどこだ、とそれだけを思った。
 はやく、はやく。
 急いて心の臓は早鐘を打ち、身体が揺れる。
 あまりの渇きゆえに目が眩み、世界が揺れる。
 あぁ、はやく。
 白く滑らかな薄い皮膚を、歯の尖ったところで薄く破って。
 そこからとろりと溢れる赤い水を。
 豊潤で芳しい少女の甘さを、舌で掬い取って、喉に。
 それを味わう想像をしただけで、渇いた喉がおかしな音を立てた。
 なにをどうしても欲しい、なまえも知らないあの少女。
 どうあっても抗えない、なまえも知らないこの渇き。
「……う……ぅ……」
 低く呻くその耳に、鈴を転がすような少女の笑み声が蘇り、ぴくり、と手指が弾かれた。
 なにを怯える必要がある。
 なにを嘆く必要がある。
 なにを耐える必要がある。
 女神がこの渇きを与えるなら、どこまでも落ちればいい。
 そうして落ちていく姿を、見たいというのなら。
 誰に許されずとも構わないではないか、それが女神の、望みというのなら。
 
 渇きを、癒せ。
 
 そう身の内に棲む魔物が命じるまま、青年は震える身体を寝台から冷えた床へと滑り落とした。そのままふらりと扉を開け、石造りの階段を下りていく。
 それはあたかも幽鬼のようで。
 けれど、その双眸だけは血走りぎらつき、(けだもの)のようで。
 しん、と静まり返る夜闇に包まれた石畳の道に、流れる雲がつくりだす影のように下り立った。
 ふら、と一歩足を踏み出し、耳を澄ませる。
 わずかほども獲物が立てる音を聞き漏らすまいとするものの、けれど聞こえるのはおのれの内で鳴る心音のみ。
 もっとよく聞こえる耳が欲しい。
 音を立てた獲物がどこかの穴に逃げ込むまえに捕まえようと思うものの、けれど渇く身体は思うように動かない。
 もっとすばやく動ける身体が欲しい。
 古の物語を模る重たげな彫刻で飾られた屋根に縛られるあの石の魔物も、思うように動かない身体に焦れているだろうか。
 ふと、そんなことを思ったのは、湿ったような風が頬を撫でたからであるのか。青年は傍に建つ建造物の屋根を仰いだ。
 雲間から覗いた月の光が屋根に落ち、石のなかに閉じ込められたガーゴイルの輪郭を青く染める。
 視線を石畳に戻した青年は、じっとりと汗が滲む両の手指を見下ろした。
 もうすぐ、この爪も異様なほどに黒々と伸びるのだろう。
 無数の針のような獣毛に覆われ、蝙蝠のようにぬらりと醜い飛膜が肉と皮とを突き破って背から生えるに違いない。
 それはあまりに醜い姿。
 けれどそれが女神の与えた罰だというのなら、その姿のまま彼女の足もとにひれ伏そう。そうして彼女がこの首を切り落として微笑む姿を、至福のなかで見つめよう。
 けれど、苦しい。
 いま、これほどに苦しいというのに、この先にある女神に与えられる至福とは、いったいどれほどの苦しみなのだろうか。
 恐ろしい、と魂が泣き叫ぶというのに、足は止まらなかった。逃げ出してしまいたいというのに、求めてやまない。
 はっ、と息を吐き出すたびに、身体中の水分という水分が空気中に逃げ出すようで、掻きむしるように喉を押さえた。
 そのとき、だ。
 暗い路地の向こうで、木製の扉が軋むような音がかすかに響いた。次いで、荒んだような女の声と、靴音。
 ぶつぶつと文句を吐き散らすのは、客に追い出された娼婦であるのか。
 とにかく、女は独りだった。
 獲物だ。
 血だ。
 そう覚った途端、身体中の毛穴が広がり、血が湧いた。
 ふらつきながらも、それでも細心の注意を払って足音を忍ばせ、出来うる限り素早く娼婦の背後へとつける。
 白く滑らかな薄い皮膚を、歯の尖ったところで薄く破って。
 そこからとろりと溢れる赤い水を。
 豊潤で芳しい女の甘さを、舌で掬い取って、喉に。
 どうしても欲しいなまえも知らない少女の、その代わりに。
 少女のかたちをした麗しく輝く女神が与える、罰のために。
 震える狂気を塗りつけた手指を、伸ばして。
 腕と首の根を引き掴んで、暗く冷たい石畳の上に押し倒してしまえ。
 悲鳴をうるさく上げるなら首を力尽くで折ってしまえばいい。
 そしてぐったりと力なく横たわったなら、そのままやわらかな皮膚を食い千切れ。
「……ぁ……血……っ!」
 そう考える通りに手を伸ばし駆けだそうとした、まさにそのときだ。
 黒い影が、差した。
 一体なに、と足を止めると、視界を遮るように、その黒いなにかが音もなく娼婦の頭上から降ってくる。そして、
「っ!」
 気付いた娼婦が悲鳴を上げるそのまえに、大きな闇色の翼のようなものがほの青い月光を遮るようにして広げられた。そうかと思うと、あっという間にその黒い影は娼婦の姿をその内側へと取り込んでしまう。
 突然のことに為すすべもなく呆然と立ち尽くす青年の目のまえで、取り込まれた娼婦がもがくらしい。しばらくくぐもった声が、その闇の内側から聞こえていた。だが、それもやがて弱々しくなって途絶える。
「…………」
 わけがわからず声もなくその様子を眺めていると、するり、と石畳の上に闇の裾からぐったりと気を失って力をなくした娼婦の身体が滑るように落ちてきた。
 その剥き出しの白い首筋には、うっすらと血の痕。
 え、と無意識につぶやくと、零れたその音に引かれるように、青年の獲物を横取りした黒い影が動いた。
 すい、と宙を滑らかに動いたのは、闇色の翼からはみ出した白い色。それが、ゆっくりとした動作で口もとであるのだろうか、そのあたりを軽く拭うような仕草を見せ、
「ふむ。塩がひと(さじ)分、多い」
 囁くような、溜息で紡いだようなほんのちいさな声音で、不満げにつぶやく。
 そしてゆるりと闇を揺らしながら、こちらを振り返った。
 
 闇のなかで禍々しく光る、双眸。
 
 その色を認識した途端、ひっ、と喉に息を飲んだのは、それがつい今しがたその影が啜ったばかりのものとおなじ色と、人のものにあらざる妖しい輝きを持っていたから。
 つまり、それはまるで奪い取られた命の色で。
 静かなる狂気に輝く、真紅。
「……ぁ……っ」
 目のまえにいるものは、人ではない。
 それどころか、人を狩る捕食者。
 そう覚ったのは、本能と呼ばれるものだっただろう。青年は魂の奥底から湧き上がる恐怖に震えながら、一歩、後ずさった。
 一歩、また一歩。
 いまや、獲物を狩る捕食者となるはずであったおのれが、目のまえに突如として現れた真の捕食者により狩られる獲物、被食者となってしまったのだ。
 追い詰められた獲物の悪足掻きと嗤われるだろうが、いまはそんな悪足掻きを恥じる場合ではなかった。こちらをひたと見据える真紅の双眸からわずかでも距離をとろうと、捕食者を刺激せずにどこかに隠れてしまいたいと、声なき悲鳴を上げる身体を後退させる。
 しかし、ゆっくりと双つの真紅が瞬きをする、それだけですら、竦み上がった情けない精神では耐えることなどできなかった。わっ、と渇ききった口から声を上げると、ただただ恐怖のあまりに慌てて(きびす)を返し、駆けだしてしまう。
 追いつかれる、いまにもこの首の根を引き掴まれる、とふらつき、なにかに(つまづ)きながらも追われる恐怖に急かされ振り返ることすらできずに、うるさく乱暴に鳴る心の臓を抱えてただ懸命に手足を動かした。
 そして、暗い路地を出て鐘を掲げた塔を持つ教会の前まで、息も絶え絶えに逃げてきた、そのとき。
 幻聴ではない、くすくすと、鈴を転がすような澄んだ声音が確かに、どこからともなく降ってきた。
 ついに足がもつれ崩れるようにして教会前の広場に倒れ込むと、また愛らしい笑い声が月光のように降り注いでくる。
「まるで仔兎(ラプロー)のようだわ」
 いまにも飛び出してしまうのではないかというほどに暴れる心の臓を服の上から掴みつつ、その笑み声に誘われるように顔を上げると、
「かわいそうに。怖い(ルー)追われているのね」
 教会の屋根に優雅に腰かけた声の主が、聖女のようににっこりとほほ笑んだ。
「……ぁ、あなた、は……っ!」
 抜けるように白い手指にもてあそばれる、昼間の陽光で縒ったかのような黄金の巻き毛。
 やさしくも淡い笑みを刷く、清らかなくちびる。
 そこにいたのは、恋しい少女の姿をした女神だった。
「ぁ、女神……! た、たすけて……! たすけてください……っ!」
「ええ、もうだいじょうぶ。なにも怖いことなどないわ。恐怖なんて、わたしが取り除いてあげる」
 助けてあげるわ、と美しく微笑んだ黄金の女神が、すい、と爪長い優美な手指をこちらへと差し伸べて寄越す。
 ああ、もう助かる。愛しい女神の手指によって、救われる。
 そう青年は、安堵と恍惚が入り混じる表情を浮かべた。しかし、
「その仔兎に喰らいつくなよ、クソ魔女」
 背後で、ぴしゃりと棘のある声音が響く。
 その声に、あれほどうるさかった心の臓が一瞬にして音を立てて凍りついた。目を零れるほどに見開いてぎくしゃくと石畳に伏したまま、背後を振り返る。
「醜く歪んだ牙で仔兎のやわらかな肉を引き裂き、真っ赤な返り血と(よだれ)に塗れたおまえの顔など、目も当てられん。いや言い直そう。目が腐る」
 ふ、とあからさまに嘲笑する気配。
 それと共に、闇の向こうから真紅の双眸がゆっくりと近づいてきていた。
「ひっ、女神……っ」
 助けてください、と女神のいるほうへと這いずって逃げようとして、ふと気付く。
 こちらを見下ろすその顔が、怒りに醜く歪んでいることに。
「……え」
 さらに、思わず逃げるのを忘れて瞠目する青年のその視線の先で、女神が美しい顔におよそ似つかわしくない鋭い舌打ちをした。
「相変わらず口が悪いわね。いったい誰に似たのかしら」
 口調はやわらかい。やわらかいが、しかし、その表情はいまや決してやさしげでも清らかでもなかった。内側にどろりとした毒を抱えた艶やかな花のように女神は妖しく、それどころか禍々しくさえ見えるさまで笑んで、碧緑の双眸を細める。
 すると、怯えて身体をまるめた青年のほんのすぐ傍にまで歩み寄り、音を立てて闇の翼を震わせた魔物が高慢に鼻を鳴らした。
「わたしは誰に似てもいないし、似るつもりもない。わたしは、わたしだ」
 それはいっそ清廉なほどに高く澄んで言い放たれ、咄嗟に身体をまるめていた青年が顔を上げたほど。
 ところがそうして思わず呆けたところを、ぐい、と乱暴に首の根を引き掴まれて悲鳴が喉に詰まった。そして、
「おまえは誰だ。思い出せ、仔兎」
 に、と。目のまえで笑みに歪むくちびるに、思わずきつく目を瞑る。
 しかし不意に、
「……え?」
 力を入れた眉間のあたりに、羽根のようにやわらかなものが触れた。
 そしてその一点から、ゆっくりと、温かい水が全身に染み渡るようにやさしい安堵感が広がっていく。あれほどまでに苦しい渇きに苛まれていた身体が嘘のように、するりと満たされ余分な力が抜ける。
 それはまるで、悪意に満ちた魔法が一瞬にして解けたかのような変化だった。
「な、に……?」
 いったい自分はなにをされたのだろう、と目を開けようとすると、それまで青年の首の根をしっかり掴んでいた魔物が、玩具に興味を失った子どものようにあっさりと手を放す。
 その姿を呆然と見上げた青年は、やがてゆっくりと瞠目した。
 闇のなかに、まるで甘い夢のようなやわらかな色彩を見つけたのだ。
 それまでされていた性質の悪い目隠しを解かれたかのように、視界に曇りがない。その瞳に最初に映ったのが、風に軽やかに揺れる灰みの淡紅色だった。
 闇の翼と思いこんでいたものは、裾長い黒のマントだったらしい。それに包まれた華奢な背肩に、灰みの淡紅色をしたふわりと長い髪が、ゆるやかに巻かれて流れているのだ。
 思い描いていた恐ろしい姿の魔物はそこにはおらず、代わりに凛然と立つ美しい少女が目のまえに現れていた。
 女神の少女が太陽ならば、こちらの魔物の少女は月か。
 鮮烈な美貌と、澄んだ美貌。どちらも人にはあらざるほどに凄絶な美貌だということに違いはないが、ふたりはまるで対称的な印象を持っている。
 間が抜けたようにぼんやりと青年が突如現れた美しい月を見つめていると、一旦は別の方向へと視線をやっていたその少女が、ふたたび美しい紅玉の双眸を寄越し、
「目が覚めたか」
 そう、短く訊ねて寄越した。
 それに慌てて頷いて返すと、少女は高潔なさまで力強く微笑してみせる。
 思いがけず寄越されたその笑みに、邪な思いなど欠片もなく素直に見惚れていると、
「綺麗な狼でしょう。わたしも気に入っているの。いつか、その真っ赤な血でドレスを染め上げたいわ」
 甘い毒のような声音が、こちらを揶揄(やゆ)するように闇を震わせた。それを、
「黙れ、変態」
 ぴしゃり、とまだ幼さの残るような愛らしくも美しい顔には似合わない厳しい口調で跳ね返すと、赤い目の少女は青年を守るかのように前へと出る。
 あ、と声を上げると、仔兎はひっこんでいろ、とちいさく返された。
 甘い色をした髪が流れる重たげな黒マントのその背の向こうには、女神の容貌を持った黄金の少女が見える。
 それはいまにもこの世に恐ろしい呪いを振り撒くのではないかと危ぶむほどに、禍々しく艶やかな笑みをくちびるに刷き、凄みのある笑みを浮かべていた。
「ほんとうに口の悪い狼ね。いますぐに裂いてやりたくなるわ。けれど」
 けれど、と黄金の巻き毛を揺らしながら魔性の美少女は、不意にその隣りに現れた人影に向かって、やさしげなさまを装って微笑んだ。
「わたしの騎士(シュヴァリエ)遊んでくれるそうよ。嬉しいでしょう、狼」
 呼ばれて、すい、とおなじく屋根の上で少女に跪いたのは、見事な銀髪の精悍な顔立ちの逞しい男だ。
 深い溜息が聞こえて目をやると、ついさきほどまでは魔物と恐れていた赤い目の少女が、心底嫌そうな顔をしていた。
「おまえ……そんなクソ魔女などに傅くとは。恥を知れ」
 どうやら銀髪の男とも顔見知りであるらしい、溜息を吐くだけでは物足りないのか、面倒だとばかりに脱力して猫背になる。
「黙れ、裏切り者。一族の面汚しめ。一匹狼のおまえになにがわかる」
「クソ魔女の騎士などに成り下がる気持ちなど、欠片ほどもわからんな。わかりたくもない」
 そう言ってふたたび背筋を伸ばした狼と呼ばれる少女が、ちら、と赤い瞳を石畳に座り込んだままの青年を見やり、預かれ、とマントを素早く脱いで寄越した。
 そして、それをおとなしく受け取った青年は、思わず感嘆の溜息を洩らす。
 闇色のマントの下から現れたのは、細いながらもしなやかに引き締まって均整のとれた身体。それを、黒い革と網目状の透かし模様や襞で飾られたシフォン生地が、美しい身体の線を損なうことなく優雅に覆っている。
 そして黒い繻子の細紐で美しく編み上げられた細い腰には、精緻(せいち)かつ瀟洒(しょうしゃ)な長剣が下げられていた。
 それは高潔な戦士のようにも気品溢れる姫君のようにも見えて、おのれに降りかかった悪夢がいまだ破られたわけではないというのに、目と心を奪われて青年はうっとりと眺める。
「……綺麗だなぁ」
「緊張感のないやつだな。おい、呆けた顔をしていないで、下がっていろ」
 溜息混じりで呆れたように声をかけられようやく我に返ると、重みのあるマントを手に慌てて立ち上がり、後ずさった。
 石造りの建造物の冷たい壁に背があたると、じっと広場の中央を見つめる。
 不思議なことに、心の臓は常よりも速く打っているものの、気持ちは落ち着いていた。
 どこか不可解で恐ろしい夢を見ているような心境ではある。けれどいまや、あれほどに恋い慕った女神が、おのれを呪った血に飢えた魔女なのだと覚り、目のまえで娼婦を襲ってみせた狼と呼ばれる魔物の行為、それこそが、娼婦を襲おうとしたおのれを救うための行為であったことを覚っていた。
 だからマントを握りしめ、固唾を飲んで青年は見守る。
 対峙する赤目の少女と、女神の騎士を。
 必ず助かる、と。そう根拠もなく、信じた。
 鳩の血色をした最上級の紅玉を双眸に持つ、美しい狩人を。
 その狩人であり狼である少女は堂々と広場の中央に進み出ると、くす、と咲き初めの花のような薄紅色のくちびるに高慢な笑みを浮かべつつ、指先だけで騎士を誘った。
「いつか殺してやりたいと思っていた」
 誘われて高い屋根の上から身軽に跳んで下りた騎士は、石畳の上に下り立つなり腰に佩いた剣を抜く。
「ふうん? それはクソ魔女に『お願い』されたからか?」
「違う! 一族のまえで生き恥をかかされたからだ!」
 吼えた瞬間、騎士の姿が掻き消えた。
 いや、ところどころに残像が見える。風のような恐ろしい勢い、決して人間には出すことのできない速さで移動しているのだ。
 瞠目するその顔のすぐ傍で壁が音を立て、青年はびくりと肩を揺らす。しかし、一瞬見えたかと思った騎士の残像はすぐに広場の反対側に現れた。
 対して、赤目の少女は剣を抜くことはおろか指先ひとつ動かすことなく、ただじっと闇に静かな灯りのように浮き上がって咲く白い花のような顔を前へと向けている。
 あまりの速さに立ち尽くすようにも見える少女に、動きを止めないまま騎士が嗤った。
「この俺の速度には、さすがのおまえもついてはこられまい」
「そういえば、おまえは速さが自慢だったかな。なんでも一族随一だと」
「そうとも。そのまま何もできずに立ち尽くしていろ、狼! いまその憎らしい首を斬り落としてやる!」
 言うなり、銀色の風が広場の中央にぽつんと立つ少女へと押し寄せて唸る。
 振り下ろされた剣閃が、白い首を狙った。
「っ!」
 思わず悲鳴を上げかけた口を青年が閉ざしたのは、少女の首を落とすために薙いだ刃が、なにもない宙を斬ったからだ。
 いつの間にか、赤目の少女の姿が残像すら残さず掻き消えていた。
 そして、次の瞬間、
「それで速いつもりか」
 はっ、と瞠目する騎士のその背後で少女がちいさく嗤い、
「のろまめ」
 一気に首が、落とされた。
 噴き上がる血飛沫を間近で浴び、闇のなか炯々と真紅の双眸を光らせるさまは、見る者の背筋を凍らせ心の臓を震え上がらせる呪われた魔物の姿そのもの。だというのに、口に入ったものを吐き出し、
「死に恥も晒すはめになったな」
 と呟いた少女の顔はひどく哀しげで、どこか切なく見えた。
「つぎはおまえだ、クソ魔女」
 振り払うように、石畳に転がって動かなくなった騎士の首から屋根の上へと視線を移した赤目の少女が言うと、そこに腰をかけて氷のように冷たい薄笑いを浮かべつつ高みの見物をしていた女神のごとき魔女が、ゆるりとくちびるを艶やかな笑みに歪めなおす。
「やめておくわ。石畳に綺麗な真紅の薔薇が咲いたのだもの。せっかく咲いたその花を踏み荒らすなんて、もったいないことだと思わない? それに、楽しみは大事にとっておくものよ」
 そう言って、見事な黄金の巻き毛を揺らしつつ、魔女は立ち上がった。
「きょうも逃げるのか」
「きょうも逃がしてあげるのよ。言葉は正しく覚えておくのね」
 そして自分を睨み上げる血に濡れた少女から、息を飲んで成り行きを見守っていた青年へと魔女は視線を移す。
「命拾いしたわね、仔兎。あなたの代わりに、わたしの騎士が薔薇を咲かせてくれたのよ」
 そう言われて、もう一度目がいった。
 驚愕と無念の入り混じる表情を浮かべて転がる、首へ。
 石畳にじわりと広がる血の海に沈む、身体へ。
 あ、と膝が崩れて座り込むと、くすくす、と騎士を失ったというのに楽しげな笑み声が降り注いだ。そして、
「ごきげんよう。また逢いましょう?」
 そのまま、嘲笑うような笑み声だけを残して、魔女の姿は闇に解けるように掻き消えた。
 しん、と途端にあたりは静寂に包まれる。
 妖しく零れる光もなければ、苦しみをともなう渇きもない。
 ただ、濃厚な血の臭いが夜気のなかに充満していた。
「まあ、なんというか……帰って寝なおせ」
 不意にそう気まずげに声をかけられて、青年は呆然としていた肩を揺らす。
「悪夢を見たと思って、忘れろ」
 剣を鞘に収めつつ溜息混じりにそう言って、魔女を追わずに残った狼と呼ばれた少女は首を振った。せっかくの髪が、いまは血を吸って重たげに揺れる。
 青年は、そうは言われても、といまだ握りしめたままだったマントを見下ろし、おなじように首をゆるく振った。
 悪夢の終わりにしても、あまりに酷いありさまだ。
 ひどい渇きのあとに残されたのは、情けなく座り込んだ自身と、返り血で染め上げられた赤目の少女、そして首と胴が切り離された死体なのだから。
 忘れようと思っても、そう簡単に忘れられるものではないだろう。
 ふ、とちいさく息を吐き、青年は瞳を上げた。すると、浴びた血を拭いもせず、困ったような表情でこちらを見下ろす少女と目が合う。
「あの」
「なにもかも忘れてしまえ。そうしたなら、見逃してやる」
 するり、と抱えるマントを腕から取り上げられるところを、青年は慌てて手指でそれを止めた。眉を寄せた少女に、自身でもその行動の理由が知れないまま、ちいさく苦笑を向ける。
「……無理、かな」
「そこは嘘でも、そうします、と従順に頷いておくほうが賢明だと思うが」
「うん、そうだよね。でも……やっぱり、無理」
 首を振りつつ立ち上がり、そうして魔物であり狩人でもある狼を見下ろすようになって、はじめて気付くことがあった。
「僕は、女神に……いいや、魔女に、一度は呪われた。今回はあなたに助けてもらったけれど、たぶん、次はないだろうし」
 ゆっくりと、すぐ目のまえで光る鳩の血色の双眸が、その色を変えはじめている。
 それは揺れるように、滲むように。
 どこか頼りなく、不安げに。
「だから、僕を見張ってくれないかな」
 思わず血に汚れた白い頬に手を伸ばすと、少女は触れられるのを厭って一歩下がった。
「なぜわたしが」
 形の良い眉がしかめられ、不審そうに上目でこちらを見る。
 その双眸の色は、すでに矢車草の青色へと移ろっていた。
 見る者の心を吸い込みそうなほどに深く澄んだその色彩が、胸の奥を音も立てずに静かに、しかし強く射る。
「また自分がおかしくなるんじゃないかと不安で」
「あのクソ魔女の術にはまったおまえが悪い」
「うん、そう思うよ。なぜあんな、心の冷たい恐ろしい『クソ魔女』を女神だなどと思ったのか。なぜあなたのようなひとを魔物だなどと思ったのか。僕は愚かだった」
「あの女は確かにクソ魔女だが。わたしは、魔物だ。それは間違ってはいない」
 ふん、と鼻を鳴らした少女が今度こそマントを奪い返し、ふたつの青石で青年を睨んだ。
「もうわかっているはずだ。わたしは吸血鬼(ヴァンピル)。それから、そこに転がっている男もな」
 視線で示されてまたそちらを見てしまった青年は、ぐ、と走る怖気を抑えて少女へと視線を戻した。そして無理やりに微笑んで見せる。
「そうみたい、だね。でも、あの娼婦。殺してはいないよね」
「当然だ。数が多いとはいえ、血を啜るだけでいちいち餌を殺しているようでは、いろいろ面倒だからな」
「だったらなおさら、傍においてもらえないかな。あなたが吸血鬼だというのなら、死なない程度に餌も務めるよ」
 魔女の騎士は首を落とされて死んだ。
 けれど、自分は生きている。
 血を啜られた娼婦も、生きている。
 それなら、彼女は魔物であっても悪魔ではないのだろう。
 それに、もしも彼女が凍れる心の残忍なだけの魔物であるなら、餌になるから傍において欲しいと言われてこれほど驚くはずがない。
 演技などではなく元々大きな瞳をさらに大きくしてこちらを凝視する少女からは、獰猛さや凶悪さの欠片も見当たらなかった。
 だから、青年は再度少女へと手指を伸ばし、今度こそその雪のように白くやわらかな頬を汚す血を拭う。
 触れた瞬間煙るような睫毛が震えたさまなどは、さきほど騎士の首を落とした狩人とは別人に思えた。
 青年の全身に、愛しさが湧く。
 けれどそれは、魔女に惑わされたときのような激しさや苦しさを伴うものではなく、ひどくあたたかでやさしいものだった。
「料理も洗濯も得意だよ?」
「……それは確かに、苦手だが」
 む、と眉を寄せる少女に、笑みが込み上げる。
 ぜひともこの少女とともに行きたい、と思った。
 そうすることで魔女からも守られるということもあったが、これほど惹かれた存在はついぞ知らない。それが魔女の魔力の残り香によるものであるのか、危ういところを救われたことにより高ぶった心が釣られたのかは知れないが、しかし、そうであるとも言い切れない。
 とにかく、恐ろしい魔法を一瞬で解いてみせた少女の、強く美しいというのに脆さも抱えるらしいその危うさに、ひどく惹かれたのだ。
「あの、好きです」
「それはどうもありがとう……って、おまえ。かわいそうに。頭がおかしくなったのだな」
「それはどうかなぁ。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れないね。ただ、さっきのあなたは、とても強く美しかった!」
「え、なにその少年のように輝く目」
 思わず青年が白い手を取ると、少女は血を浴びてすら美しい顔を盛大に引きつらせた。
 それすらも、なぜか青年は愛おしさを感じたのだ。
「まさに正義の味方だよ!」
「いや、だから、わたしは魔物だが」
「正義の吸血鬼! いいや、正義の味方の吸血美少女! 素晴らしいよ!」
「なるほど、クソ魔女の魔力とはいえ、妄想が暴走するわけだ。どれだけ夢見がちで惚れっぽい男だ、おまえ」
「男はみんな、夢見がちな生き物だと思うよ」
 そう言ってみせると、少女は握られていた手を引き戻しつつ深々と溜息を吐いた。
「……人間というのは、ほんとうに……」
 逞しいというか、愚かというか。
 重たげな羽音のような音を立ててマントを纏った少女は、呆れ果てたようすでそうつぶやき路地の闇へ向かってさっさと歩き出す。
 青年は慌てて少女を追おうとし、ふと血に沈んだままの騎士の亡骸を思い出した。振り返ることなく、背後を指さす。
「彼……置き去りにしてもだいじょうぶなのかい?」
 するとその声に立ち止まった少女は肩越し振り返ると、静かに亡骸を見遣り、
「朝日が昇り始めれば、そのうち燃えて灰になる。放っておけ。運悪く人間に見つかっても、それはそいつの失態だ。関係ないとは言わんが、どうでもいい」
「ちなみに、どういう関係?」
 好奇心から訊ねると、ふん、と鼻を鳴らして少女がふたたび歩みはじめた。そしてさも面倒そうに言う。
「……大昔、婚約者だった気がする」
「あぁ、だったら……放っておこう。うん」
 ぜひそうしよう、とひとり青年は頷いた。
 そこへ、闇に紛れた少女が甘く悪戯な声音でもって、
「おい、盲目の仔兎。ぼんやりしているとおまえも置いていく」
 と、そう笑って誘うから、青年は苦しく恐ろしい妄想(ゆめ)から抜け出し、恐れることなく闇のなかへとその足を踏み出した。
 
 
 
 
10,000HITの記念に書きました。
キャラのなまえは本文中に出してはいませんが、『サン・シュクレの』番外です。
本編でらぶらぶっぷりを発揮しているふたりの出会いを書いてみたのですが、い、いかがだったでしょうか。
ちょっと真面目にゴシックな雰囲気を書いてみようと思ったのに、最後、あのひとの盲目っぷりがそのすべてをぶち壊してしまった感があるとかないとか。
でも、鳳蝶の森はこんなノリかなって思います。シリアスなんだかふざけてるんだか。
ちなみに彼のなまえには、盲目、という意味があるらしいです。
そんなこんなで、昔は仔兎だったらしいじーちゃんが、正義の味方の吸血美少女の執事兼愛人なんかにおさまった……らしい。そんなお話。
 
2010.5.2
 
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