甘いお菓子を焼いて待っています 
 
 
 
 微笑ましい光景と見るのか、それとも異様と見るのか。
 それを判断するものには、いまのところ出会ってはいなかった。
 夜の間に浄化された、黎明の澄んだ空気のなか。
 靄のかかる川端の石畳を、ひとりの老翁と一匹の白い犬が散歩していた。
 いや、犬とはいうが、それは犬にしてはあまりにも巨大で、あまりにも不格好なものである。前足を元気よく前後に振りながらの二足歩行で老翁の隣りを歩いているのだ、あまりにも非常識な姿だ。
 本物の犬ならばの話ではあるが。
 もちろん、それは自然界につくられた美しい生き物ではなく、人の手により糸と布などからつくられた着ぐるみという人が纏う犬の姿を模した愛嬌のある被り物だ。
 娯楽施設や公園などにいるのならば、さぞかし子どもたちから喜ばれるのだろうが、しかし、ここは人気のない川端。しかも、夜明け間もない時刻。
 誰かを喜ばせようという気は、まったく感じられない。着ぐるみを纏う『中身』もそのような気は欠片もないのだが、それも仕方がないといえば、仕方がない。
 なぜなら、その人の手によりつくられた着ぐるみの『中身』、実は人ではない。
「ルー。きょうはどこまで血をもらいに行っていたんだい」
 穏やかな表情をした老翁がのんびりとした声音で、軍人並みの切れの良い歩みを見せる着ぐるみにゆったりと微笑みかける。だが、
「美味しい血だったのかな、元気だねぇ?」
 その問いかけの内容が、あまりにも老翁の見かけにそぐわない恐ろしいものであった。
「まあ、悪くはなかったな。少々、脂っこい気もしたが」
 そして、老翁の問いかけに対する着ぐるみの答えも、同様に見かけを裏切る恐ろしい内容だ。
 左右のつぶらな瞳が愛らしいおおきな犬の頭を被っているせいでくぐもってはいるものの、そこから聞こえる声音は美しい。瑞々しい少女のように澄んではいるが、多くの恋を知る大人の女のような甘さも内包していた。
 老翁は、着ぐるみに向かってもう一度、ルー、と呼びかける。
「血をもらったのは、男かなぁ?」
 すると、ルーと呼ばれた女は、着ぐるみのなかでくつくつと楽しげに笑った。
「なんだ、セシル。それは嫉妬か?」
「そりゃあねぇ。こんなお爺ちゃんになってしまってはもう、きみは血なんて分けてほしくないのはわかっているけれど……」
「勘違いするなよ。おまえはいまでも充分美味しそうだよ。だが、わたしはおまえをしわっしわの木乃伊(ミイラ)にはしたくないから、吸いつくのを我慢してやっているんだ。おまえが、わたしよりもずっとはやく老いてしまうのが、悪い」
「……最期はそうしてほしいなぁ。身体のなかに流れる赤い命の水を、全部、きみのなかに取り込んでほしいよ」
 くす、と笑った老翁は、不意に立ち止まり動かない犬の表情でじっと自分を見つめる女を振り返る。そして、動かない女に、
「ルー……ごめんね?」
 困ったように、微笑んだ。
 靄がゆっくりと晴れ、首を傾げる老翁を包むように透き通った太陽の光が満ちた。
 だがそれを、着ぐるみを纏う女は黒い布を通してでしか見ることができない。
 女は、闇の生き物だった。
 光の世界には生きられない、そこに住むものを直接見ることのかなわない、人ではない人に似た種族だった。
「わたしが……」
 わたしが人の身であったならば。
 おまえと共に老い、死ねたかも知れない。
 ルーは、そう言おうとしたのかも知れない。だが、声には出さず、ただ立ち尽くす。
 そのようすに老翁は、数十年前にルーと出会ったころと変わらない穏やかな笑みを、いまは皺に包まれた顔に改めて浮かべ、
「ルーがルーでなければ、共に生きてはこなかったよ。僕は、正義の味方の吸血美少女が大好きだから」
「……そんなことは……言われなくてもわかっている!」
 きっ、と犬の顔をあげたルーは、ふたたびやわらかそうな肉球がついた前足を前後にきびきびと動かし歩いて、老翁に追いつき、追い越した。
「抱っこしたいなぁ、ルー。着ぐるみなんて着ていないきみをぎゅってして、宝石のような綺麗な瞳を見つめながら、夢のような色の髪を撫でたいなぁ」
「う、うるさいぞ、セシル! わたしはこれからクソ魔女に目をつけられた不良司祭を拉致ってこなくてはならないのだから、さっさと来い!」
「あぁ、彼ねぇ。なんていったかなぁ。ジュリアン司祭? 口は悪いけど、顔だけはいいよねぇ。きみ、彼にベタベタしていたし。ちょっと嫉妬……」
 顔だけ、という箇所を強調するあたり、性格悪いなぁ、と老翁は胸のうちで自嘲する。だが、ルーは照れのほうが勝りそのことに気付かなかったらしく、今度は跳ねるようにしてずんずん歩んでいく。
 その背を、のんびりと歩きながら老翁は眩しいものを見るように目を細めて見つめた。
「ふふ。おまえは、せいぜい嫉妬の火に焼かれながら、甘いお菓子を焼いてわたしが戻るのを待っていればいい」
「わかったよ。だから、つまみ食いなんてしないで帰ってきてねぇ」
 待っていろ、と振り返るルーに、にっこりと微笑みながら老翁はうなずく。
 せいぜい。
 司祭殿の血よりもずっと甘いお菓子を焼いておこう、と。
 そんなことを思いながら。
 
 
 
 
6400の地雷で、『サン・シュクレ』のルーを、とリクエストしてくださったのでイラストと短文を書かせていただきました。
ありがとうございます♪
イラストのルーさんの右手には……おそらく剣があったものと思われ……げふごほ……;
 

  

 

 

 

 

 

 

 

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