遠くに男が上げる咆哮をかすかに聞きながら、夜気に流れて肩をくすぐる厭で仕方のない銀の髪を背に払う。
 まといつくきつい臭気に、さっさと立ち去りたいのに、とうんざりと溜息をついた。
 目のまえには、かつての自分の姿がある。
 自分の姿を映しただけあって速さはあるらしく、魔犬を破り捨ててやったあとにすぐに現れたミラの写生帖の魔物だ。こちらもすぐさま破ってやってもよいのだが、過去の自分の姿をまえにするとやはり少々躊躇うものなのか。
「……ほんと、厭になるな」
 ふたたび溜息を吐き出して、月影の魔女は目のまえで凛と剣を構える美しい姿を横目で流し見た。
 月夜の甘い夢のようなアッシュピンクの髪と月下美人の花弁のように白く滑らかな肌をした、矢車草の青い双眸を濡れたように光らせる、魔物。
「いまのわたしではない、セシルが愛したわたし。ジュリアンが……愛した、わたし」
 くちに出してしまうと、ひどい嫌悪が込み上げる。
 震えがくるほど、吐き気がするほどに、いまのこの身が汚らわしく思えてならない。
 いっそ、自分で自分を、滅茶苦茶に引き裂いてしまいたいほどに。厭で厭で、厭で、たまらない。
 諦めたくはない、と。自分のもとに来い、と。
 そう言った男のもとに、ほんとうはどれほど行ってしまいたかったことか。
 救えない、救われはしない、とわかってはいても、どうしても望んでしまうのだ。
 それがわかっていたから、会えなかった。会いたくはなかった。
 一度目は耐えた。けれど、二度目は。どうしても。その姿をこの瞳に捉えてしまうと、その声をこの耳に聞いてしまうと、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のようにこの醜く浅ましい姿を晒してしまった。
 かすかに感じる甘い血の匂いにひどい喉の渇きが襲ったけれど、それ以上に、魂が乾くようで。甘い血の匂いを纏うあの甘い魂が、欲しくて仕方がなかった。
 セシルの血を啜り、その魂ごとを取り込んだような高揚感と絶望。恍惚と、恐怖と。
 あのとき感じたそれを、自分を戒めていた鎖を引き千切るほどのそれを、つぎもまた思い知るのだろうか。それとも、まったく違うものなのか。
 知りたい。
 知りたくない。
 殺したい。
 殺したくない。
 救われたい。
 救われたくない。
 いくつもいくつも浮かんでは積もっていく矛盾に、身体が軋む。
 愛したい。
 ……愛されたい。
 けれどそれは、いまの自分ではない。セシルの血を啜り魔女となった自分では、容易く渇きに負けて獲物を残忍に殺しその血を奪う自分では、ないのだ。
「前のあなたは美しかったのに」
 写生帖の魔物に遅れてやってきた少女に言われ引き攣りそうになったくちびるを、三日月の形に無理やり笑ませてごまかした。
 この凶悪な魔女のもとにこんな少女をみすみす行かせてしまうとはあのヘタレ保護者はなにをやっている、となかば八つ当たり気味に内心で司祭を責めつつ、月影の魔女は白く滑らかな剥き出しの肩をすくめてみせる。
「いまも可愛いぞ、わたしは」
 滑稽な言葉が、喉の奥に張り付くようだ。じり、と喉が渇く。
「いまはにんにく臭いです。あと、ジュリアン司祭は渡しません」
 きっぱりとした口調で返されて、思わずちいさく溜息を零して渇きを誤魔化した。
「なあ、それは、どういう意味でだ? 保護者を奪われたくない、という意味か? それとも……」
「あなたには、渡したくない」
「ふうん? ほかの女ならいいのか?」
「そ、れは……だめです」
「なんだ、惚れているのかあのヘタレに。趣味悪いな」
 自分のことは棚に上げて、嗤う。そうしながら、喉を通り過ぎて干上がる心臓のどこか一部がぼろぼろと乾いた石のように欠けて落ちていくような、そんな感覚に陥り重い眩暈がする。
 嗚呼、きっと、血が足りない。
 なぜならきょうはまだ、誰の血も奪ってはいない。誰の血も見てはいない。
 祓魔師であるジュリアン司祭に出会ってしまったから。挙句、にんにく臭を纏わせるはめになったから。
 こうなっては、誰も誘惑などできないし、暗がりから急に襲いかかることもできない。
 嗚呼、そうだ、血が足りない。
 だから眩暈などするのだ。
「うるさいです。あなただってそうでしょう。そうでなければ、司祭さまにその血を分けたりなどしない」
 そう。目のまえにいる少女は自分から見ればまだほんの赤ん坊のようなものだが、それでも、女だった。こちらが渇きの深淵に押し殺そうとするものくらい、とうに覚っている。
 邪魔だ、と不意に思った。
 甘い血の司祭の傍を独り占めする娘。守られ、向けられる愛情を当然のように受け入れられる、娘。
 嗚呼、なんて幸せな娘だろう。
 だというのに、それに気付かない娘。
 いや違う、いけない。
 この娘は、血は繋がっていなくとも『妹』のような存在であるはずだ。司祭に託したのは、ほかでもない自分。
 若く瑞々しい血の匂いが、その細い身体のなかで鳴り響く鼓動に合わせるように、こちらの鼻孔をくすぐってくるのがいけない。だから余計なことを考える。
 嗚呼、けれど。
 目のまえにいるのは、いずれ精神だけでなく身体も成熟し、愛した男を甘く慰めることができるだろう、娘。
「なあ、ミラ。それなら、どうする。ジュリアンを奪われたくないなら、わたしを殺すか?」
 暗い暗い淵から込み上げるどろりとした黒いなにかにつられるように、やれるものならやってみるがいい、と挑発するよう歪んだ笑みを浮かべてみせるが、不意にこちらを怖れたわけでもないだろうに目のまえの闇に慣れきった少女が珍しく表情を曇らせた。
「……あなたを殺したら、わたしは魔女になるのでしょうか」
 問われて、思わず瞠目する。飢えた獣の狂気に染まっていた思考の一部がほんのわずか覚めたような気になった。
 その瞬間があることに戸惑い、かけられた問いに呆気にとられて、この娘はなにを言っているのだ、と首を傾げると、問うてきた当人は当人で戸惑っているのか写生帖を抱く腕に力を込めるらしい。
「あなたのことは嫌い。けれど、あなたを殺せば魔女になるのなら……それも厭。魔女になんて、なりたくない。わずかほども。母と口にするのもおぞましいあの魔女と同じものになど、なりたくはありません」
「ああ……まあ、な。わたしもそう思っていたが……なっちゃった。なにこの屈辱。あ、腹立ってきた」
 生温かい血の色と匂い、そしてそれが肌に落ちる感覚と、くちびるに吸い舌で舐めとる瞬間がたまらなく心地良い。突然生命を吸い取られる獲物の恐怖と絶望とに彩られた最期の瞬間の表情が、震えがくるほど愛おしい。
 そんなこと、吸血鬼として生まれながらも一度たりとも思いもしなかったというのに。
 むしろ、そう感じるのなら、目のまえで大切な家族と使用人たちを惨殺した、あの狂気に満ちた残忍な爛れた陽光の魔女とおなじ、と嫌悪すらしていた。
 そんなこと、知りたくもなかったというのに。
「……魔女になったあなたは……どう、思っているのですか」
「だから、腹立ってきたと言っている。うん、最悪」
「そうでしょうけど。そうではなくて」
「なんだ。はっきり言ってはどうだ。鬱陶しい」
「ジュリアン司祭のことです」
「ふん。クソ魔女ではなくて、やはりジュリアンか。まあ、そうだな……ジュリアンは相変わらずお菓子のような甘い血の匂いがする。必死に追いかけてくる様も、笑える。それは楽しい気がするけれど……苦しい、か」
「苦しい?」
「おまえも言ったように、わたしは美しい生き物などではない。でも、自分ではどうしようもない。だから、この手で殺しちゃおうかなー、って思っている」
「変です」
「そうだな。でも、それもどうしようもない」
 もう、自分でもわけがわからなくなっているのだ。狂気と冷静とが入れ代わり立ち代わり、どこがどう狂っているのかわからない。いや、すでになにもかもが狂っているのかも知れない。
 それとも、なにも狂っていないのかも、知れない。
 はじめから、自分はそういう化け物だったのではなかったか。知っていたから、自分の狂気に鎖をかけて閉じ込めていたのではないか。爛れた陽光の魔女リーナはただ、その鎖を断ち切っただけだ。
 狂っているのは、はじめから。いや、違う。どこも狂ってなどいない。
 なぜなら、なにもおかしくはない。
 欲しいものは、欲しい。
「なぜです」
 そんなこと、わかるわけが、ない。
 欲しいから、奪うのだ。
「えー? 魔法美少女だし?」
 くすくす笑ってからかいながら、視界が狭まっていくのを感じる。
「……意味がわからねえよ」
「おまえ、素かソレ。まあいい。だが……そうだな。意味など、わからんさ」
 自分が口にする言葉も、遠くに聞こえる。
 わかるのは、ただ、目のまえにあるものが邪魔だということだけ、だ。
 なぜならあの司祭はわたしのお菓子。きっとひどく傷つけて齧ってやれば、たまらなく甘くて美味しいに違いない。
 邪魔は、させない。横取りなど、許さない。
 嗚呼、なんて邪魔な女だろう。
「悪いが、ジュリアンはやらない。アレはわたしのもの」
「……なっ」
「遠ざけようと思っていたけれど、やっぱりやめた。あの男は、わたしがもらっていく。たとえ首ひとつにしたって持ち歩こう」
「魔女め……っ! 殺してやる!」
 小娘が叫ぶと同時に、見覚えのある姿をした写生帖の魔物が剣を構えた。
 嗚呼、殺してあげよう。破ってあげよう。
 細かく細かく刻んで、二度と目のまえに現れないように。
 司祭が保護する、血の繋がらない『妹』も。
 司祭が愛した、甘い色の髪をした綺麗ごとばかりの甘い『ルー』も。
 情けも容赦もなにもなく、破り棄ててあげよう。
 だから、一番言われたくはないだろう言葉を、贈ろう。死出の餞に。
 
「笑わせる。『おまえ』ははじめから魔女ではないか。魔女を殺す殺さない以前に、な」
 
 それは、自身にすら向けられた刃。
 けれどもはや魔女にはそうと気付くことができなかった。
 そして、獲物を鋭く残忍に切り刻む金の牙が唐突に巻き起こる銀の風のなか唸りを上げ、哀れな今宵の贄へと襲い掛かる。

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