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ジュリアン、愛しなさい。なんでもいい、誰でもいい、なにかを愛しなさい。
そしてそのために、生きなさい。
守るのでもいい、貫くのでもいい、そうしておまえを愛しなさい。
それが、わたしの望みなのです。
心を救ってくれたひとは最期にそう言って、自らから溢れた血の海に沈んでいった。
忘れたわけではない。忘れるわけがない。
それでも憎しみのなかだけに捕らわれずにいられたのは、たぶん、そこにその存在があったからなのだ。
そのひとはおそらく、自分と自分の身代わりとなったひとを、朝の教会に連れて逃げてくれた。
たぶん、変なきぐるみを着て。
だから教会できぐるみに連れ去られたとき、誰もとめなかったのだ。
忘れたわけではない。思い出せなかっただけだ。
『目を閉じろ。いまは、眠っておけ。眠くなくとも、そのふりをしろ』
そう言って、ひやりとした白い手指で熱を持つ目蓋を塞がれた。
甘い、甘い夢のような色の髪がゆるりと流れて、さらにこちらを帳のように覆う。
その向こうで、愉悦と嗜虐に満ちた狂った女の笑い声が、響いていた。
『耳を塞げ。なにも聞かなくていい。あいつの声など聞いたところで、魂が爛れ堕ちてしまうだけ』
嗚呼。甘い匂いが、零れ落ちる。
「……『ルー』」
なぜいまになって思い出す。
なぜいまになって、古い記憶にかけられた錠が錆びて落ちた。
ふわりと闇夜に流れた甘い夢のようなアッシュピンクの長い髪。しなやかな身体を包む美しいレースとシフォンに飾られた黒革のドレスから零れる肌は、月光のように白く絹のように滑らで柔らかそうであるというのに、こちらに背を向け凛と立つその姿は、まるで磨き上げられた一振りの美しい剣。
つい、とこちらを華奢な肩越しに振り返ったその瞳は、矢車草の青だった。
嗚呼、そして。
その瞳はゆっくりと鳩の血のような真紅の色に移ろうのだ。
目を閉じて耳を塞げ、とその薄紅色のくちびるで、怒りと、そして悲哀とを混ぜ合わせたような不思議な響きの美しい声音で、そう言うのだ。
そっと耳を塞いで、上から流れ落ちる甘い夢の色で囲って、閉じさせた目蓋の上にくちびるを落とす。
そうして、記憶のなかから爛れ落ちる陽光の魔女とともに消えていった。
そうだ、だからこそ。
だからこそ、こうしてこの命はここにあるのだ。
「……なん、で……」
けれど、いま目のまえに現れた『ルー』の瞳は矢車草の青のまま。歩み寄って巨大な魔物の下敷きになったこちらを助け起こすこともなく、無言のままで月のように澄んで愛らしくも美しい顔を傍らに立つ少女へと向け直した。
少女の手には、描かれた絵が抜け出て真白い頁を晒す写生帖。
魔物狩りにして雄狼の名を掲げる吸血鬼たる剣姫。その澄んだ月夜の夢のような姿を、愛と憎しみとを込め全身全霊をもって描いたもの。実体化絵師によって名を与えられ現出した写生帖の新たな魔物は、かつてのルーの姿をしていた。
「ミラ、おまえ……」
「リーナの執着も、司祭さまの愛も。全部持って行ってしまうあのひとが……リーナの娘であるわたしを愛そうとした綺麗で、強くて、優しいあのひとが……愛おしくて、大っ嫌い。ただ愛させてもくれないし、ただ嫌いにさせてもくれない」
「……それ、は……」
嗚呼、そうだ。それは確かにその通りだ。
ただまっすぐに愛させてくれたなら。
ただひたすらに憎ませてくれたなら。
けれどそのどちらをも選ばせてはくれない、と。
そう思い悩むのは、まるで見えない炎に焼かれるかのような苦痛だった。
「けれど、もう終わりにする」
「ミラ……?」
「ジュリアン司祭さまは殺させない。絶対に」
「ミラ!」
待て、と声を上げたこちらの伸ばした手を、しかし闇の奥を睨むように見据えたミラは見ないふりをする。そうして写生帖の剣姫を伴い歩み出した。
「やめろミラ!」
ジュリアンは石畳を掻くように、身体の上にずしりと乗ったままの魔物から抜け出そうともがく。
確かに、ミラが名を与えて写生帖から現出させた『ルー』は、いつもなにを描いてもどこかが狂って不気味に見えるかくすりと笑いが込み上げてくるようなものしか描かないミラが描いたものとは思えないほど、本物のルーに限りなく近く、美しかった。
それほどに魂を込めて描いたものだ、ミラが生み出す魔物のなかでも最も強いのだろう。
けれど、だからといって本物とおなじ能力があるのかというと、別であるはずだ。
ルーは、多くの同胞である吸血鬼一族の戦士たちを返り討ちにし、そして多くの餌である人間たちの生命の流れを奪ってきた魔女。生まれたばかりの魔物が太刀打ちできるはずがないのだ。
写生帖の魔物中一番の強さだというその『ルー』が敗れ破れたなら、ミラにあとはない。ミラを頼む、とあの日焼け落ちる屋敷にてそう言ったくちびるでミラの命を奪わないとは限らないのだから。
けれど、
「戻れミラ……っ!」
それは、駄目だ。
ミラは、ルーがリーナから守ろうとした娘。それを自らの手で握りつぶそうなど、そんなことはさせてはいけない。
ミラは、ルーが自分に託した娘だ。なにがあっても守らなくてはならない。
そうでなければ、ルーも戻って来られないではないか。
そんなことは、させない。
ジュリアンは、魔物と石畳に挟まれて潰れたその腹の底から、声を上げた。