暗く冷たい石畳をかつかつと引っ掻くのは、獣の長い爪であるのか。
 その音に、焦りであるのか不安であるのか、それとも苛立ちであるのか、なにかわけのわからないものが込み上げてくる。しかしその冷たくも熱いようななにかを振り払うように、ジュリアンはさきほど剣が放たれそしていまはその獣の爪音が聞こえるほうへと視線を向けた。
「ミラ」
 帰れと言ったはずだろう、と思わず責める口調で言うと、暗闇の向こうからまずは三頭の白い犬のような魔物が姿を現し、次いでいつもは人形のように表情の乏しい顔に珍しく苛立ちをありありと浮かべたミラが姿を見せて、
「やめて。あなたは、わたしの父にでもなったつもりですか」
 ぴしゃりとそう言い放つ。とっさに息を飲んだジュリアンだったが、それで引き下がるわけにもいかない。
「そりゃあ、俺なんかじゃおまえの父親代わりなんてできないんだろうけど、それでもいまはおまえの保護者には違いないだろう。帰れって言ったのに、なんで言いつけを守らないでこんなところに来るんだ!」
「わたしが来ないとあなたが行ってしまうではありませんか!」
 珍しく声を荒げたミラに、なにを言っているのだ、とジュリアンが戸惑う間に、ミラは白い魔物たちをけしかけてミラと入れ替わるように闇に紛れた月影の魔女を追わせる。
 あっという間に遠ざかる獣の爪音に、慌ててそちらへと視線をやると、
「ルーはわたしが追います。だから、ジュリアン司祭。あなたは行かないでください」
「なに馬鹿なこと言ってんだ! それは祓魔師の俺がすべきことでおまえがすることじゃない!」
 いいから戻れ、と有無を言わせない様子でそう言って、ジュリアンは踵を返した。
 しかし、魔女とそしてミラの魔物たちが消えたほうへと駆け出すジュリアンの耳に、なにかの名を発するらしいミラの押し殺したような声が届く。そして、次の瞬間、
「……ぐ、ぁっ!?」
 ジュリアンはその背に突如圧をかけられ、無様に石畳に押さえつけられた。石畳に押し倒された衝撃に呻きながら背を振り仰ぐと、色のないなにかまるい巨大なものが自分に乗り上げているのが見える。さらにその向こうには、写生帖をこちらに向かって広げたミラの姿。
「っこら、おまえ! ミラ! こいつどかせろっ!」
「駄目です。あなたはおとなしくそこにいてください。邪魔なのです」
「ふざっけんなよ! おまえになにかあったらどうすんだ馬鹿っ!」
 人肌ほどの温もりを持つ微妙にやわらかくひどく重いなにかの下敷きにされたまま、ジュリアンはそこから抜け出そうと必死でもがくが、ミラがひどく乱暴に簡略化して描いた写生帖のまるい魔物はそうであるのにも関わらず随分と頑丈であるらしく、びくともしない。
「お言葉ですが、ジュリアン司祭」
 そんなジュリアンの目の前までやってきたミラは、いつもの感情に乏しい人形のような顔に戻り、その硝子玉のような淡い緑の双眸で、写生帖を胸に抱えたままこちらの顔を覗き込んだ。
「ご存知のとおり、わたしはこうして描いたものを実体化し操ることができる、爛れた陽光の魔女リーナの娘。ルーの血を取り込み多少人間離れした体力を手に入れたところでただの人間たるあなたより、わたしのほうが魔物を狩るのには適している。なぜ言わないのです。手伝え、と。一緒に来い、と言えばいい。そうすれば、もっと簡単にルーを探し、追い詰め、捕えることができる」
「言うわけないだろう、そんなこと!」
「ええ、そうですね。あなたは言わなかったし、この先も言わないのでしょう。あなたはわたしをなるべく危険から遠ざけ十分な教育を受けさせ見守る愛情を与えるお優しく生温いわたしの保護者になるおつもりのようですから。でも、わたしは父の代わりも兄のような存在もいらないのです。あなたにそんなものを望んではいない。だから」
 邪魔なのです、とそう言って、ミラはすいと立ち上がる。淡い緑の瞳はジュリアンではなく、まっすぐに闇の向こうへと向けられていた。
 遠くで、獣の吼え声がする。
 主に獲物の居場所を知らせる猟犬の声のように、それは闇のなかで響いた。
 途端、ぞわりと法服の下の肌が冷やりとした手で逆撫でされたかのように粟立ち、
「よせ、行くな」
 とジュリアンは石畳を掻きながら、声を絞り出す。
「いいえ、ジュリアン司祭。あなたがどうしてもルーを止めたいのなら、追いたいのなら、あなたの代わりにわたしが追います。あなたに死なれては困るんです。なのにあなたはわたしを連れて行かない。だから、勝手にわたしは行きます」
 ああ、ほんとうに。なんて邪魔な女(ひと)。
 そう、つぶやくような言葉が愛らしいくちびるから零れるのを耳にして、ジュリアンはおおきく目を瞠った。
 なにを言っているのだ、と声に出そうとして、しかしそのとき、乱暴に紙を引き裂くような音が闇の向こう側から聞こえ、はっ、と息を飲んだ。
 音の正体は写生帖の魔物の、断末魔。
 そうと覚った直後に次いで聞こえてきた、月影に揺れる木々の葉擦れのような笑み声に、身体のなかで心臓が早鐘を打つ。
「血なんて一滴も繋がっていないけれど、だからこそ愛しくて、それ以上に憎かった。それでもいまほど邪魔だと思ったことはない。あなたがわたしの存在を認知したのはあのひとがわたしを認知していたから。あなたがわたしをそばに置くのは、あのひとにわたしを託されたから。あのひとはわたしが欲しいものをわたしに与えようとするくせに、その実何食わぬ顔でわたしから片端から奪っていく」
 夜闇にひやりと静かに沈むような抑揚ない声でミラは言って、ほっそりとした手指で手元の写生帖を捲った。新たに描くのではなくいくつか頁を戻り、すでに真白ではなくなっているとある頁で手を止める。
 そして、黙ってそこに描かれたものに、淡い緑の双眸をじっと向けた。
「ミラ……?」
 石畳に圧しつけられる苦痛のなかジュリアンが名を呼ぶと、ミラはいつの間にか握られているパステルでその頁になにかを素早く書きつける。
「癪ですが、いま一番美しく描けるのはあの魔物だけ。以前、自分をモデルに描け、と言われて馬鹿にされたくなくてこれまで何度も、何度も練習した。出したくはなかったけれど……わたしが描くものでは、これが一番強い」
 そう言って、わずかの間その顔に浮かせた不安と戸惑いの色を消し去ったミラは、強い意志に光る双眸とそして彼女の愛情と憎悪、羨望と嫉妬、そして技術のすべてを注ぎ込み描いた既存の魔物が描かれた写生帖を、月影と狂気の滲む闇の向こう側へと向けた。

「出てきて、雄狼の名を掲げる吸血鬼族最速の剣姫、『ルー』!」

 

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