「諦めてたまるか。このまま誘惑に負けてにやけた顔のまま死んだら、セシルに、顔向けできないだろうが」
 セシル、とその名を聞いて、赤い瞳が揺れた。
「セシルばかりか、おまえまで救えないなんて……ぶん殴られるわ、俺」
 胸に込み上げる悲しみをそのまま音に乗せて、ジュリアンは言う。
 夜気に撫でられた頬が、冷たかった。
「俺は、おまえが欲しい。でも、それはいまのおまえじゃない。セシルが愛した、ルーだ」
 これまでも何度も誘惑されたくらいだ、隠したところでとうに気付かれている、と震えそうになる手を握り締めつつ、そう告げる。
 いまは、届かない女だ。
 それでも欲しいのは、ひとに愛され、愛した、甘い夢のような色と冴えた月のように凛と輝く女なのだ。
 諦めてしまえば簡単なのだろう。それでも、諦められない。笑えるほど弱くてヘタレだろうが、決して諦めたくはないのだ。
 いまはどうしても手が届かないのだとしても、この皮膚が擦り切れ肉が引き千切れて骨が砕け折れても、追いかけて捕まえて、引き戻してやりたい。
「たとえ……俺の血が干上がっても、俺はおまえを諦めない」
 必ず、連れ戻す、と。
 揺れる赤い瞳を見つめながらジュリアンがそう告げると、石畳に座ったままの魔女は、なにかを口にしようとしてか薄紅色のくちびるをかすかに開くが、しかし、そこから言葉は発せられないまま閉じられた。
 それがとても弱い生き物のように見えて、どうしようもなく悲しくて、やはり放ってなどおけない、とジュリアンはくちびるを引き結んだ。
 やがて、ルーが剣を支えに身体を起こす。そして、
「……馬鹿か。なにも、泣くことはないだろうがダッサい」
「うるさい。泣いてないだろうがどこに目ぇつけてんだにんにく魔女」
 ジュリアンがそう言うと、自分の身体についた臭いを思い出したのかひどく嫌そうな顔をして、魔女が深々と溜息をついた。
「あぁ、もう。なんかやる気なくした。折角殺す気満々だったのに」
「……はじめから、殺す気なんかないだろ、おまえ」
「あるし」
「ねえよ」
 じ、と睨みつけると、魔女は真白い肩をすくめて顔を逸らす。
「きょうは、見逃してやる。ってことで、帰る。お風呂入りたいし」
「そう言われて、ああそうですか、っておとなしく帰すと思ってるのかよ」
 さっさと踵を返そうとする魔女に、ジュリアンは足を一歩踏み出した。
 しかし、銀の髪を揺らして魔女がささやかに嗤う。
「どうやって。いまおまえが持っているものはその剣のほかには、その身ひとつだけだろうに。もうなんの策も仕掛けもないのだろう? それとも……その身を餌に?」
 ゆるりと近づく魔女のくちびるに、艶やかな笑みが乗った。
「いまなら……抱かれてやってもいいぞ? 熱烈な愛の告白を聞かせてもらったことだしな」
 すい、としなやかに真白い手指をこちらの首筋へと伸ばして甘く誘いかける魔女に、ジュリアンは舌打ちしたい気持ちでその手を振り払う。
「だから、いまのおまえじゃないって言ってんだろうが」
「身体は以前となにも変わってはいないのに……? 舐めて、吸って、噛んで。好きなようにしていいんだぞ」
 ふふ、と笑った魔女がこちらの肩にしなだれかかってきた。それには、
「にんにく臭ぇ」
 と、ひとことで拒絶した。すると、あ、と魔女が声を上げてあっさりと身を引く。
「そうだった。よし、帰ろう。お風呂がわたしを待っている」
「だから! 帰さない、って言ってんだろうがアホ魔女!」
 思わず声を荒げて、ジュリアンは立ち去ろうとする細い腕を掴んだ。
「えー」
「えー、じゃない! ってか、なにやってんだ俺は!? 思わず捕まえちゃったけどどうしよう! こんなあっさり捕まえられると思ってなかったから、おまえが言う通りもうなにも持ってない!」
「いや、知らないけど……おまえこそアホだろ」
 いまにも溜息をつきそうなほどに呆れた顔をする魔女は、しかしその腕をジュリアンに掴ませたまま、半眼だというのにこちらを見上げてくる。
 すぐにでも腕を振りほどけるとたかをくくっているのか、さきほど言った通りやる気をなくしたのか、身体から力を抜いていた。とりあえずいまのうちにと、ぐるりと掴むこちらの手指が余裕でまわるほどに細い、剣を持つ魔女の右手首のほうも確保しておく。
「おい。ここで説教とかしたほうがいいのか?」
「わたしに訊くなヘタレ司祭」
「とりあえずおまえは血ばっかり飲んでないでもうちょっと飯を食え。手首細すぎるだろうが。するっと抜けるぞコレ」
「おまえはわたしのお母さんか」
「夜中にそんな恰好でうろつくようなこどもはいりません」
「だから、お母さんか」
 それでどうするつもりだ、と意地悪く笑まれて、ジュリアンは魔女の左の腕と右の手首とを掴む手に力を込めた。
「もうどこにも行くな。俺のところに、来い」
「やっぱり抱きたいのか?」
「違う! いや、抱きたいっちゃ抱きたいけど、そうじゃなくてだな!」
「めっちゃ正直だな。でも、司祭としてはダメな気がする」
「聞けよ、ひとの話!」
 思わず怒鳴ると、ふ、と目のまえで魔女が淡く微笑んだ。
 どこか哀しげで、そしてどこか優しげでもあるその微笑みに、え、と思うその隙に、するりとジュリアンの手の拘束から抜け出した左手で、魔女がこちらの頬をそっと撫でてよこす。
「おまえこそ、聞いていたかひとの話を」
 皮膚の感触を楽しむようにやわく撫でて、魔女がひどくやさしく言った。
「わたしは、おまえの祈りなど聞かない。そう言ったはず」
 そして、静かに白い頬をこちらの肩へと預ける。
「わたしを殺すか、おまえが死ぬか。その選択しかないんだ、ジュリアン。なぜならわたしはこうして魔女と成り果てた。逃げ惑う人間を殺して恐怖と悲しみに染まったその血を残らず啜って浴びて愉悦に浸る、化け物。あのクソ魔女……リーナとおなじ、醜悪で狂った化け物なんだ。だから、人間を救いたいのなら、そしてわたしを救ってくれるというのなら……ジュリアン。わたしを、殺すしかない」
「……駄目だ。聞けよ、俺の……」
 俺の祈りを、願いを、と。
 そう言いかけるそのくちびるを、不意に冷たいくちびるが塞ぎ言葉を飲み込んだ。飲み込んで、そして哀しげな色を吐息に乗せてまた微笑む。
「ジュリアン。わたしがおまえの愛したわたしに戻ることなんて、もうない。わたしを戒め縛っていた鎖は、粉々に引き千切れてしまった。わたしは元々化け物。ただ、おのれでその化け物を鎖で封じ、偽っていただけ。それを解き放ってしまったなら、もう戻れない。わたしは、殺したくて弄びたくて、たまらない。人間の苦しむ姿に、嘆く姿にたまらなく愉悦を感じる。ジュリアン。おまえのことも、はやく殺したくて、その血を啜りたくてどうしようもない。だからどうせなら、おまえが……ほかの誰でもない、おまえが。殺してくれ。そうでないのなら、その血を、その命を、わたしに寄越せ」
 それは、そのひどく哀しく切ないそれは、ひたすらに救いを求めていた。最早自分ではどうしようもない狂気に飲まれ、どうすることもできずに血の海のなか喘いでいるのだ。
 祈りは聞かない、といいながら、まるで祈るように。喘ぎ、求めている。
「……ルー」
 頬に触れたままの手をふたたび掴み取ろうと手を伸ばすが、今度は身体ごとするりと逃げられてしまった。
 月光を跳ねる銀糸の髪がゆるやかに夜気のなか流れ、ひそやかな熱が遠ざかる。
「ルー!」
「……ティファレト」
「え?」
「父にしか呼ばれたことのない、名だ。自分が殺す相手、あるいは殺される相手、か。そのなまえくらい、知っておけ」
 そう言って、魔女はくちびるを笑ませた。
 しかしすぐに、ちいさく首を傾げる。そして闇のなかに、なにかこちらには聞き取れないほどのちいさな音を拾ったのか、す、と魔女は赤い瞳を細めた。
「時間切れだ、ジュリアン司祭。邪魔が入る」
 言いざま、魔女が銀のきらめきを残して目のまえから風のように消え、直後、ついいままで魔女がいたその場所に、ジュリアンの腰に吊るされた剣『月夜の狼の牙』とまったくおなじものが、突き刺さる。次いで、
「どこが大丈夫なんですか、司祭さま。まんまと誑かされて」
 まだ幼さを残してはいるもののひどく凍えた声音が、剣が放たれた方角から聞こえた。
 

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