「ルー」
 再度呼ぶと、魔女は高慢に細い顎を上げて、愉悦を浮かべた赤い瞳でこちらを見下ろす。それに法服の下の肌を逆撫でされて、ジュリアンは内心で舌をうった。
「おまえが……魔女に、なるとはな」
「どっちかというと、『魔法美少女』呼びが推しだ」
「いや、まて。おまえのどこに魔法の要素があるんだ」
 以前と変わらない軽口に釣られてはならない、と己に言い聞かせながらも言い返すと、軽く俯いた魔女のくちびるが影のなかでにやりと三日月のかたちに笑みを浮かべる。
「細かいことは気にするな。禿げるぞ」
「おまえはもうちょっといろいろと気にした方がいい……っ!?」
 気を抜くな、とそうは思いつつも、それでもまだこんな軽口のやりとりを楽しんでいたいのだという甘さが、ふ、と心の隅に沸いた、その途端。
 月影の魔女が、瞬きをするそのわずかな間に残像を残し、目のまえから掻き消えた。そして、
「ぐっ、あ……っ!」
 急激に襲った圧に呼吸が潰され、爪先が浮き上がる。喉を掴まれているのだ、と気付いたときには、こちらをぶら下げたその細腕で乱暴に放り投げられ壁に背を強打し、肺に残った息を吐き出すこととなった。そして、あっけなく沈んだ石畳の上で、声もないまま唐突に与えられた苦痛に呻く。
「細かいことを気にする割に注意散漫だな、ジュリアン司祭。相変わらずヘタレのままか。なあ、おまえの目のまえにいるのはおまえの敵で、捕食者だ。いつまでも甘い考えでいては、早々に死ぬぞ。わたしを殺すか、おまえが死ぬか。ほかに選択肢などない。わたしはおまえの祈りなど聞かないのだから」
「……っ」
「おや? 返事がない。ただの屍のようだ。んなら、遠慮なく吸い尽すか」
「死、んでねえっ!」
「だったら、さっさと返事をしろ」
 石畳を掻くようにして頭を上げ無理やり声を上げるが、その上げたばかりの頭を、膝まで編み上げられた黒革の長靴の底でなんの躊躇も容赦もなく蹴られた。身体が吹き飛ばなかっただけ力の加減はされているのだろうが、ぐらりと重い眩暈が襲い目のまえが暗くなる。それでも、
「く、っそ……! ぶっとばされて肺が潰されるかと思ったんだぞ、返事なんかできるか!」
 壁を支えにしながら、ようやっとのことで身体を起こした。
「軟弱者め。それでよく魔物狩りの祓魔師などと名乗れるな」
 甘く響く声音に嘲笑われて、月影を負う相手を睨んだ。ところがふたたび、
「祓魔師ではなくただの『餌』と名乗ってはどうだ」
 がつ、と米神あたりを蹴られて転がされる。その上で肩を踏まれ、ぐ、と仰向けに押し倒したこちらの胸を膝で圧しつつ覆いかぶさられた。
「……く……っ!」
 するり、と細い背肩から流れ落ちてくるゆるく巻かれた銀糸の髪の先が、頬を掠める。
 影のなかで不気味に炯々と光る赤い瞳の魔女が、嗤う気配がした。
 ゆるりと白魚のような右の手指が、頬、耳朶、首筋となぞっていく。薄桃色の爪の先に血の流れをくすぐられて、肌が粟立った。だが、どうしたことか、身体が動かない。
 赤い瞳から、瞳を逸らせなかった。
 やめろ、と言うそのまえに、魔女が甘く淀んだ笑みをこぼす。
「生温い半端な覚悟なら、ないほうが楽に死ねるぞ。なにもかも諦めてわたしのまえにすべてを投げ出すのなら、最期くらいは良い思いをさせてやってもいい」
 どうする、と問われて、悲しみに胸が冷えた。
「……諦める……?」
「そう、なにもかも諦めてしまえよ。なにをどう足掻いたところで、ただの人間たるおまえではわたしには勝てないのだから、それならさっさと諦めて、せめて最期だけでも甘い夢をその舌先で舐めしゃぶれ」
 ふふ、と蜜のように笑んだ魔女が心臓の上をくすぐる。
 欲しいのだろう、と。
 甘い毒を囁くくちびるが首筋に触れた。
 そうされて、どくりと薄い皮膚の下で血が沸くのは、怯えであるのか、それとも歓喜であるのか。けれどジュリアンは、なんの魔法であるのか暗示であるのか思うように動けず倒されたままの恰好で、ぐ、と手のひらに爪を立てるほどにきつく拳を握った。
「……なんで諦めないといけないんだよ」
 血が熱く沸くと同時に、胸がひどく冷えた哀しみに覆われる。哀しくて空しくて、どうしようもなく、痛い。
 す、とわずかに引いた魔女の白く美しい顔が怪訝そうに歪められた。
「なんで、諦めないといけないんだ。たしかに俺はおまえからしてみれば虫けらみたいな存在なんだろうよ。笑えるほど弱くてヘタレで……でも、だからってなんで諦めなきゃならねえんだよっ!」
 叫ぶと同時に渾身の力でもって膝を上げて上にあった細い身体を振りほどき、握っていた拳を開いて指輪の仕掛けを爪で引っ掻き蓋を開けると、その中身を驚いた顔をする魔女の顔目がけて振りかける。
「っ!」
 鼻をつく濃いにんにく臭に、魔女が小さな悲鳴を上げて石畳の上に悶えてうずくまった。
「お、まえ、ふざっけんなよ! めっちゃ臭いっ!」
「それはこっちのセリフだ、アホ吸血鬼改めにんにくくせぇ魔女」
 言いざま、懐から左手で抜いた彫の美しい銀色の銃の引鉄をひく。
「え、なにそれ、かなり嫌!」
 美しい顔を歪めて纏わりつく臭気に悶えながらも、魔女は立て続けに放たれた銃弾を躱し、腰に吊っていた金の細工が美しくも豪奢な長剣を鞘から抜き放った。
 だが、こちらも元はルーの持ち物である『月夜の狼の牙』を抜いている。
 五年。ただふらふらとこの魔女を探すだけだったわけではない。
 『狼』と呼ばれたほどの剣技を持つ魔女には遠く及ばないとはわかってはいるが、それでも彼女にとってのただの餌となるのではなく『祓魔師』でありたかったのだ。上司や同僚やらには渋い顔もされたが、魔物だけでなく魔女による被害が頻発する現状からなにも言われないことをいいことに、祈りと捜索の合間に銃だけでなく剣の腕も磨いた。
 体内に取り込んだ彼女の血の影響もあるのか、『月夜の狼の牙』は魔物の剣とは思えないほど従順にこの手に馴染んだ。
 だから、迫る臭気に右だと判断した瞬間には、月光を跳ねる銀色の牙は魔女の金色の牙を捉えていた。
 間近に見る赤い瞳がわずかに瞠られるなか、ジュリアンは、
「だから、くせぇっつってんだろ……っ!」
 腕を振り上げ魔女の剣を弾く。次いで、彼女が避けることを見越して踵の高いブーツを狙って刃を薙ぎ、距離を取った。直後、
「きゃ……っ!?」
「あ、はじめて聞いたかも。おまえの悲鳴」
 狙い通り後ろへと跳んで避けた魔女が、不意に踵を滑らせて石畳に尻もちをつく。にんにくの強い臭いに銃弾に仕込んでいた油の臭いが掻き消され、石畳にそれが広がっていたことを気付かせなかったのだ。
 ずいぶん可愛い悲鳴だな、と挑発すると、情けなく尻もちをついてしまった魔女が珍しく頬に血を上らせた。
 そこへ、
「俺は、おまえを諦めない」
 そう、静かに、しかしはっきりと告げてやる。
 

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