赤かった。
 なにもかもが、赤く、濡れていた。
 
 湯気を上げる真紅で白いドレスを染め上げ、陽光を紡いだかのような見事な金の髪を揺らして嗤っているのは、ひとりの少女。
 それは、まるで太陽に愛された女神のような美貌を持った、しかし底なしの狂気を孕んだ、爛(ただ)れ落ちる陽光の魔女だ。
 返り血のドレスを揺らして足もとにいくつも転がる屍を相手に円舞を踊り、くちびるを濡らしたまだあたたかい血を、真っ赤な舌で舐めとる。
 その、愉悦と嗜虐を孕んだ呪われた宝石のように恐ろしく美しい碧緑の双眸が、呆然と立ち尽くすこちらを見やって色濃く微笑んだ。
 無力な獲物をなぶりいたぶるように、いつもと変わらない金色の小鳥が囀(さえず)るようなやさしい声音で、
「わたしの愛しい、可愛い子。さあ、こちらへいらっしゃい」
 そう言って、何重にも身体中に巻き付いた鎖を、元は真白いはずの赤く穢れた細い手指で、
 引き千切る。
 
 それはとても、赤かった。
 なにもかもがじっとりと濡れた赤に染められた、記憶だった。
 
 痛む頭に手をやり、ジュリアンは月を背に石畳の上に濃く影を落とす教会を振り仰ぐ。
 あの日、魔物狩りと称していた雄狼の名を持つ吸血鬼との別れ際。
 彼女にかけられた魔女の呪いをわずかでもやわらげたくてくちびるを奪い、喉と臓腑と心臓とを焼く毒を引き受けた。
 そうして受けた毒のせいで、あれから毎夜、夢を見る。
 それまで見ていた記憶から成る夢を上書きするように、自分のものではないはずの記憶は毒とともに身体と意識を侵していった。
『神の赦さない存在を救えば、おまえがその怒りに触れるぞ』
 そっぽを向きながらも白い頬を薔薇の色に染めてそう言った吸血鬼の言葉が耳によみがえり、ふ、とジュリアンは静かに微笑む。
 確かに、放任主義で心の広すぎる神でも、この身のためにはもはや盾にも剣にもなってはくれないだろう。
 けれど、それでもいいのだ、とジュリアンはふたたび教会に背を向け歩き出した。
 神が赦さない存在と成り果てても、救ってやりたいのだ。
 たとえこの身が、どのように変わり果てても。滅んでも。
 その思いを胸に抱きつつ、ジュリアンは美しい月夜に現れる魔物のせいで人気のない夜道を進む。
 彼女がどこに現れて誰を襲うかなど、誰もわからない。
 それでも、暗がりを行くその歩みに迷いがないのは、身体のなかにまわった彼女の血のせいか。
 しかし、
「……ジュリアン司祭さま」
 不意に声をかけられて、ジュリアンはその歩みを止めて肩越しに背後を振り返った。
 軽い足音とともに栗色の長い髪を揺らし駆け寄ってくるのは、ほっそりとした肢体の愛らしい少女だ。
「ミラ」
 怒った顔をつくりたしなめるように名を呼ぶと、写生帖を胸に抱いた少女はいったん駆け寄る足を止めて淡い緑の双眸でこちらの顔色をじっと見つめてくる。
 ミラは、ふたりの魔女と関わりのある少女だ。
 五年前にジュリアンが引き取り、いまは学校に通わせている。ついでに、おそろしく下手だった絵をなんとかしようと、絵も習わせていた。
「司祭さま、わたしも行きます」
 すぐそばまで歩み寄ったミラが、相変わらずの無表情で抑揚なくそう言う。
「駄目に決まってんだろ、そんなの」
「司祭さまひとりでは、心配です」
 硝子玉のような双眸がまっすぐに見つめてくるのに、ジュリアンは苦笑しつつ首を横に振った。
「いや、俺だってちゃんと鍛えてるし。いまなら屋根まですいすい上れるくらいだってのに」
「相手はあのルーです。一族のなかでも最速の、容赦なき剣を持つと名高い『(ルー)』を継いだ存在です。司祭さまの腹筋がちょっとくらい調子に乗って割れたところで、まともに太刀打ちできる相手などではありません」
「……おまえね。ひとこと多くないか?」
「そうでしょうか」
「誰に似たんだよ」
「司祭さまです」
 きっぱりと言い切られて、ジュリアンは軽く脱力した。
「だからって、連れて行かないからな」
「いいえ、行きます」
 五年前にくらべるとすらりと手足が伸びて少女らしい愛らしさも増したミラだったが、それまで母であり彼女の支配者であった爛れた陽光の魔女リーナと行動をともにしていたせいか、暗闇や人外の存在をまったく恐れることがなくて困る。しかも、言い出したら聞かない頑固さも持っていた。
「ルーが言っていました。ジュリアン司祭はヘタレだ、と」
「あんの規格外!」
 見つけたら文句言ってやる、と憤慨したジュリアンだったが、ふと気になってミラを見下ろす。
「……おい、それ。おまえ、いつ聞いた」
「半月ほどまえでしょうか」
「会ったのか」
「会いました。司祭さまは、気付かず素通りしていました」
 何事もなかったかのようにそう言って、ミラはそのままジュリアンを置き去りに先に歩き出した。
 通り過ぎていく結わないままの長い栗色の髪が、ふと甘い夢のようなアッシュピンクのそれのように錯覚したジュリアンは、はっ、と瞠目する。そして我に返り、
「言えよ! なんで呼び止めないんだ!」
 こちらがずっと彼女を探していることは知っているだろう、と思わず声を荒げた。けれど、
「気付かない司祭さまが悪いのです。ルーは笑っていました」
 そう言われて、自分も歩き出しながら、笑っていたのか、とジュリアンは青い瞳を揺らす。
「……あいつ、元気だった?」
 思わず声音を和らげて訊ねると、振り返らないままミラが、
「ええ、とても血生臭く元気でした」
 と頷いて答えた。
「嫌な言い方したねっ?」
「わたしはルーが嫌いですから」
 素っ気なくそう言って、ミラはくるりと振り返る。
 瞳の色に合わせた淡い緑の膨らんだスカートが、夜のなかで揺れた。
「嫌いですから、ルーなんて」
 繰り返して言ったミラの、その胸にぎゅっと抱えられている写生帖には、ゆるく巻いたアッシュピンクの長い髪を背に流し矢車草の青い瞳でまっすぐに前を見据える美しい少女の姿が、いくつもいくつも描かれている。
 だというのに嫌いだなどと言って、ミラは、常は表情のない緑の瞳で珍しくこちらをじっと睨みつけた。
「……リーナの、仇だからか? それだったら、俺もそうだろう。俺だって、おまえの母親を……」
「違います」
 きっぱりとそう否定したミラは、なぜか深々と溜息をつく。そして、どこかしら苛立ったように、
「リーナはたしかにわたしを生んだけれど、母などではありませんでした。わたしは愛されたいと思っていたけれど、一度だってリーナから愛されたことはありませんでしたから。それどころか、リーナの歪んだ迷惑な愛情は、いつでもルーに向いていた。だから、リーナを殺したことに関しては気にする必要などありません。ふたりを仇だなどと思ったこともありません」
 とそう言って、またくるりと背を向ける。
「司祭さまは、アホです」
 ついでに罵られて、なぜそうなるのか、とジュリアンは軽く頬を引きつらせた。
「べつに、俺だってあいつにあっさり殺される気なんてないぞ?」
「アホでヘタレの司祭さまが、ひとりでどうやってルーに勝つつもりですか」
「……勝とう……とは、思ってない、けど」
 言った途端、恐ろしい勢いで振り返ったミラが写生帖を振りかぶり、脳天にその角が乱暴に叩きつけられた。突然の衝撃に石床の上で声なく頭を抱えてうずくまるジュリアンに、
「だからアホだと言うのです!」
 あまりにも珍しいミラの怒号が、容赦なく降り注いだ。
「いまや魔女となったルーがあなたの喉を掻き切るのに、一瞬でもためらうとでも思っているのですか!? どれほどに汚い手を使ってでも勝つつもりで全力で挑まなくては、あなたは絶対に死にます!」
 大きく肩で息をして怒鳴るミラを、座り込んだままのジュリアンはなかば呆然と見上げていたが、やがて、
「……なんだ、おまえ、俺の心配してくれてるのか」
 ふ、とそのくちびるに笑みを浮かべて言った。
 爛れた陽光の魔女の娘でもあるミラは、どうやら優れた画家だったという父親の人間らしい優しさも、やはりしっかりと受け継いでいたのだろう。
「なっ!」
 途端、ミラの白い頬が耳まで真っ赤に染まる。そして、さきほどこちらの頭に振り下ろした凶器であるところの写生帖をぎゅっと胸に抱き、勢いよくそっぽを向く。
「あなたに死なれては、わたしが学校に通えなくなりますから!」
「ああ、まあ、そうだよな。おまえ、成績悪いし」
 頷くジュリアンに、今度はミラがたじろいで一歩後ずさった。
「なぜそれを……っ!」
「聞くだろ、そりゃあ。だから、ミラ。おまえはいまから戻って勉強な」
「だから、そんなことをしている場合では……っ!」
「これ以上成績を落として、俺の頭痛のたねを増やすつもりなのか?」
「……そういう脅し方はどうかと思います」
「脅してねえよ。心配してるんだよ、心配」
「……くっ……司祭のくせに、汚い大人ですね……」
 ぐ、と睨みつけるミラに、しかしジュリアンは静かに苦笑して暗い空を見上げる。
 宝石を砕いてばらまいたかのような星の海のなかに浮かぶ、美しい月。
 リーナが太陽だというのなら、ルーは月だった。
 浮かぶ、凛と涼やかに美しかった吸血鬼の姿を眼裏に閉じ込めるように、ゆっくりと目蓋を閉じる。
 身体中に廻った彼女の血が、痛みを訴えるように哀しく泣くようだった。
 そうして、ふたたび目を開くと、また表情を消し去りひんやりとした人形のような顔をしたミラがじっとこちらを見つめていることに気付く。
 心配されているのは、わかる。それを、嬉しいとも思う。
 けれど、
「俺は、汚い大人だからな……大丈夫だ。ちゃんと罠は、しかけている」
 どんな手を使っても、新たな魔女を止めて見せる。
 そう言って、ジュリアンは静かに笑った。
 
 

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