四角い籠のような昇降機の扉を閉め、その傍にあったレバーを押し込むように動かすと、ちいさなミラを乗せた昇降機が、ゆっくりと上昇をはじめる。
 ひとりはいや、と繰り返す啜り泣きが、どんどん上へと昇っていき、やがて聞こえなくなった。
 それを見送ったジュリアンは、すぐ目のまえに残された写生帖の魔物を見遣り、
「それって、俺も使える?」
 その手に握られた、どちらかというと棒に近い形状をした剣らしきものを指さす。
「生きて地上に戻ったら、ミラを絵画教室にでも通わせよう」
 うん、とひとり頷きつつ、す、と黙って手渡された剣らしきものを躊躇(ためら)いなく握った。
 それは見た目よりもしっかりと手に馴染む。ひと振りすると、意外にも鋭く空気を裂くらしい。
「ちょっと、借りる。おまえは消されないように気をつけろよ。おまえが消えたらたぶん、この剣みたいなのも消えるだろ?」
 良い子だから隠れていろよ、と写生帖の魔物に言うと、これも意外に素直なようすでおとなしく物陰に隠れる。単に、魔女が怖かっただけかも知れないが。
「神様、ミラを助けてください。ついでにルーと、それから……爺さんの魂も」
 呟き、ひゅっ、と細く息を吐くと、おのれを貫く金属棒に縋るようにすら見える魔女の碧緑の瞳が、こちらを向いた。
 逃げ出すようすのない獲物を嘲笑うように、真っ赤なくちびるを歪める。
「神などいないわよ、司祭様。いるのは、ほら、ご覧なさい。血に飢えた魔物が、二匹」
「あと、ついでのついでに、気が向いたらでいいから……俺も、助けて欲しいなー……なんて」
 辺りは血の海。
 そして黒煙と炎が、生き物のように取り巻いている。
 こんな場所に、神などいるものか。
 そう言って、魔女が嗤う。
 けれど、その足もとには金属棒を伝った血も溜まっていた。
 魔女とて、深く傷ついている。
「あなたも愚かねぇ、司祭様。さっさと逃げてしまえば、ほんのもうすこしだけ生きていられたのに」
「どっちにしろ、食い意地汚く追っかけてくるんだろうが、クソ魔女」
「ふふ。口の悪いこと。けれど、追い詰められた恐慌からくるものだとするのなら、なんて可愛らしいこと」
 ねえルー、そう思うでしょう。
 するり、と俯いたままの吸血鬼の細い顎に手指をかけた魔女が、甘く囁いた。
 そうしてようやく、ルーの顔があらわとなる。
 光のない、赤い双眸。
 あれほど美しく凛と輝いていた瞳はいま、なんの感情も溢れず、なんの意志も感じられなかった。
 ただぼんやりと開いているだけの、空虚な穴のように。
「……っ」
 神様、と胸のうちで呟いて、ジュリアンは毀れた人形のように魔女のまえに力なく身体を放り出しているルーを見つめた。
 アッシュピンクの髪が張りついた、血に濡れた頬。
 赤いくちびるから赤い色が白い喉を伝って、豊かな胸元へと滑る。
 沈黙したままで感情もないというのに、一層、白い肌はぬめるように輝きやわらかくもしなやかな肉体が恐ろしいほどに艶めかしく誘いかけるようだ。
 その上を、蛇のようにゆるゆると魔女の白い手指がなぞる。
 吸い込まれるようにその肌を見つめるこちらの弱さを、嘲笑うように。
 これが欲しいのだろう、とさらなる誘いを寄越してくる。
「欲しいのなら、どうぞ? ここにいるのは、わたしたちだけ」
 ぞわり、と背筋を逆撫でされたような感覚に、ジュリアンはただ震えた。
 気持ちが悪い。こんなものは厭だ。
 けれど抗いがたい、酷い誘惑。
「どうせ神なんていない。あなたの好きなようになさいな」
「……そう、だな。いないのかも……知れない」
 そんなもの、ほんとうはいないのかも知れない。
 救ってくれる絶対的な、なにかなど。
 けれど、
「でも、だからどうした」
 ふ、とくちびるが勝手に歪んだ。
 同時に、艶めかしく誘う肉体から視線を無理やり引きはがし、目を眇めた魔女を見遣って苦々しい笑みを溜息に混ぜて吐き出した。
「いてもいなくても、どっちでもいいんだよ。俺が、信じたいから信じてるんだ。ほっとけ!」
 信じたいから信じるのだ、と。
 そう口にした途端、歪な剣を握る冷えた手に見えない手が添えられたような、そんな気がした。
「あと、嘗(な)めんな!」
 凛と声を張って魔女を睨み据え、まっすぐに剣先を向ける。そして、
「おまえのきったない手でべったべったに触られた不抜けなんかいらねえよ!」
 言うと同時に、ジュリアンは冷たく凍えた石床を蹴った。
 信じていれば救われる、などとそんなことは簡単に口にはできない。
 相手は、最悪なる幻惑と誘惑を囁き寄越す、爛れ落ちる陽光の魔女。
 手負いとはいえ、たかが人間がまともに戦って勝てる相手ではない。
 それでもいま、なにもせずにただ食い殺されるわけには、いかないのだ。
 最期まで優しく穏やかだったセシルを、手厚く弔わなくては。
 まだちいさなミラを学校に行かせて、絵を習わせなくては。
 そして、ルー。
 傷付いた彼女の手を、とらなくては。
 血に塗れてしまったその手をとり、暗闇から引き上げなくてはならない。
 神は盾となり力となるというのなら。
 救うための、盾と力が欲しい。
 いま、その力が。
「っらあぁぁっ!」
 しかし、剣など持ったことはないのだ、型もなにもあったものではない。渾身の力を込めて突き込んだ剣の先から、標的であるはずの魔女は右肩を金属棒で貫かれたままであるというのに、悠々とその姿を消した。
 焦るな、とジュリアンは渾身の一撃を避けられたためにできた自らの大きな隙にぞっとしつつも、自分に言い聞かせ、すぐに身体を反転させ歪な刃を真横に滑らせる。
 だが、するり、とそれも魔女に回避されてしまった。
 当然といえば当然だ。迷いがあったということもあるのだろうが、あのルーの高速剣ですら長く魔女に致命的な傷を負わせてはいないのだから。
 とはいえ、諦めているわけでは決してない。諦める気など、毛ほどもない。
 まるで逃げまどう鼠で遊ぶ猫のような残忍さで、一息にこちらを仕留めにかからずただゆらりゆらりと笑みすらそのくちびるに浮かべて攻撃をかわす魔女を、力なく座り込んだままのルーから離し、そしてできることなら、地獄の竈(かまど)のように黒煙と業火が渦巻くほうへと誘導できればいい。
 がつ、と振りまわした歪な剣の先が、魔女の肉に埋まった金属棒を打った。
 と同時に、その振動を厭った魔女が鋭い爪を振り上げ、ジュリアンの肩を裂く。
「ぐ……っ!」
 目の端に赤い色が散り、ジュリアンは身体があっけなく宙を飛ぶのを自覚した。
 石床に何度か叩きつけられるかのようにして転がり、強かに壁に頭を打ち付ける。
「嗚呼、なんて良い匂いなのかしら」
 魔女の、長く赤い舌が、ぬらりとおのれの爪の先についた血を舐めとるのが見えた。
 剣を離してしまった手を痛む頭にやると、濡れた感触がある。どうやらそこからも出血したらしい。
「もう、我慢がならないわ……」
 息を大きく乱し、血走った目で食い入るように自分を見る魔女に、ジュリアンは舌打ちして首をめぐらせた。
 魔女がなにか結界のようなものでも張っているのか、地獄の竈はすぐそこで強烈な熱と光、そして臭いと煙を伝えてくるというのに、こちらを焼き殺すほどの炎と肺を潰すほどの煙とを送り込んでは来ない。
 それが自分たちにとっても助けとなっているのはわかっているが、いまはもどかしい。
 そのなかに飛び込めば、血の匂いに我を忘れているらしいいまなら魔女もふらりと後を追ってくるかも知れないというのに、立ち上がって駆けるには少々遠いのだ。
 諦めるわけには、いかないというのに。
 そのとき、
「……魔女は、火炙り」
 不意に暗い声音がぽつりとそう呟かれたのを、耳にした。
「悪い魔女は、竈で焼いてしまおう」
 え、とジュリアンが頭から流れる血が邪魔でよく見えない目を法服の袖で擦ると同時に、魔女の喉から引き攣った声が漏れる。ついで、
「ぎゃあああああああっ!」
 恐ろしい悲鳴が、大きく開いた口から迸った。
 ずるり、と一度乱暴に引き抜かれた金属棒が、ふたたび魔女の肉を貫く。
 その濡れたものに突き刺さるひどい音に思わずジュリアンは目を背けそうになるが、魔女がおのれの腹を貫いた金属棒を握った者を引き剥がそうと、すぐそばにあるアッシュピンクの髪を引き掴むのを見て、壁に縋るように立ち上がった。
「ルー……っ!」
「邪魔だ、退け!」
 暗い瞳のままルーが怒鳴り、ぐ、と金属棒をその細い肩に担ぐようにすばやく身体を反転させると、魔女の両足はぶらりと石床から浮き上がる。
「あ……あぁぁ……っ!」
 怯えを含んだ声音とともに、魔女のくちびるから赤黒い血がこぼれ、甘い色の髪を幾本か毟り取った爪が宙を掻いた。
 竈へと、そのまま魔女を放り込む気か。
 そうと知ったジュリアンが、ふたたびずり落ちるようにして身体の位置をずらす。
 だが、
「あ、ははハ、あハははっ!」
 突然の血の泡とともに上がる哄笑に、ジュリアンだけでなく魔女を担ぎ上げたルーまでもが身体を強張らせた。
「ねえ、わたしの可愛い、狼。愛して、いるわ。さあ、わたしを竈の火に、くべるといい。わたしを、殺してしまえばいい。わたし、を殺せるのは、あなた、だけ。さあ、なにもかも、から、解き放って、あげる……っ!」
 
 

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