転がり出た先にあった細い金属を編んだ扉に派手な音を立てつつぶつかったジュリアンは、しかしすぐに起き上がると体勢を立て直し、すぐわきを甘い色の髪を揺らして通り過ぎていったルーの、凛と伸ばされた細い背を見遣った。
 雄狼の名を持つ吸血鬼の右手には、その鋭い牙、細身の長剣が光っている。
 その向こうには、ゆらりと床から身を起こす魔女の、醜く歪んだ恐ろしい姿。
 ちら、と真紅に燃えるルーの瞳が、足もとに転がる枯れ枝のような老翁を見たようだった。
 不自然に左側の半分ほどが断ち切られたアッシュピンクの髪が、その表情を隠す。
「……っ」
 とたん、胸に鋭い痛みが走り、ジュリアンは思わずその姿から瞳を逸らした。
 なんて弱い。
 なんて、無様。
 自分のあまりの情けなさに、間抜けのアホは自分だ、とジュリアンは口を閉ざす。
 老翁を助けるために屋敷に戻ったというのに、このざま。
 ミラがいなければ、自分もとうに魔女の餌食となっていただろう。
「わたしの、可愛い、狼」
 醜く罅(ひび)割れた声音が血の臭いを纏う空気を伝って鼓膜を震わせ、ジュリアンは弾かれたように顔を上げた。
 とっさにあたりを見回し、武器となるようなものがないか探す。そして、細い金属の籠のような昇降機の、先ほど思い切りぶつかった際に軽く破損した扉に使われていた細い金属の棒を、力任せに引っ張った。
 ジュリアンが扉に足を掛け、ぐ、と何度も金属の棒を引く間に、ルーは無言で老翁の動かない身体をまたいで魔女の前へ。
「ねえ、ルー」
 ゆらり、ゆらりと、醜い魔女が左右に揺れる。
「わたしの、可愛い、娘」
 牙を剥いて目のまえに立つ狼へと声を掛け、女神のように美しい姿に戻ろうとするように。
 少しでもその間に、平静を取り戻そうとするように。
「裏切り者の、吸血鬼(ヴァンピル)。その身を、自ら、細い鎖で、がんじがらめに、戒める、愚かで、可愛い、わたしの娘よ!」
 しかし、ルーは聞く耳を持たず、すっ、と流れるように腰を落として剣を構えた。
 澄んだ刃が高い音を鳴らすように、わずかな灯りを剣先へと滑らせる。
「クソが。わたしはおまえの娘ではない」
 凛然とした声音が否定し、それを受ける魔女のつり上がった目が細められた。
「いいえ、あなたは、わたしの娘。なぜなら、わたしが……」
 ガコンッ、と音を立てて、ジュリアンの握った金属棒がとうとう折れる。
 と、同時に、魔女が哄笑を放った。
「わたしがおまえを戒める鎖を断ち切り、おまえを解き放つからだよ!」
 高らかな、嘲笑う声音。
 吐きつけられた呪詛とともに、ぶわり、と血の臭いが濃くなり。
 はっ、と金属棒を手に振り返ったジュリアンの目のまえで、床に転がったままだった老翁の身体から噴水のように赤い色が噴き上がり、すぐ傍にいたルーを頭から染め上げる。
「ルー!」
 いまにも剣を手に襲いかかろうとしていたはずのルー身体が、びくり、と全身を濡らす血とその臭いに硬直するのが、目に見えて知れた。
 ジュリアンは、とっさに長い金属棒を持った腕を思い切り引き、力任せに投擲(とうてき)する。
 ちり、と激しく揺れる、聖句を刻んだ耳飾。
 擲(なげう)たれたくすんだ金色の金属棒は、不自然に短くなったルーの髪を掠めて飛び、真っ直ぐ魔女へと飛んだ。そしてそのまま、
 ずぶり、と醜い音を立てて、魔女の剥き出しの右の肩へ突き刺さる。
 次いでジュリアンは、素早く祓魔の聖句を紡いだ。
「……あ……っ?」
 嗤う声を途切れさせた魔女が、肩を貫いた金属棒を抜こうと鋭く爪の伸びた手をやるが、どれほど力を込めてもそれは不思議と抜けず、戸惑いの声を上げてぐらりと揺れる。
「あ……な……っ」
 動揺した魔女の血走った目が、獣のような低い呻き声を上げる目のまえの吸血鬼を、見下ろした。
 しかし、
 隙の出来たいまなら、その牙で魔女を食い殺せるだろうに、不意に、ルーはべったりと血に濡れた全身から力を抜き、項垂れたままで血を噴き上げ終えた老翁の傍らにふらりと両の膝をつく。
「……ルー……?」
 高い音を立てて剣を落とし、いまは血に濡れた細い手指を老翁の青白い頬に伸ばしたルーの表情は、見えない。
 ずっと、薄く開いたくちびるの隙間から、低く獣のように唸っている。
 そして、
 
 ぴちゃり。
 
 赤い舌が、青白く枯れた老翁の肌の上に散る赤い血を、そっと舐めとった。
 それはまるで、なにかの儀式のように。
 聖なる獣が失われゆく魂を癒すような、神聖さと。
 押し込められた凶悪な魂を解き放つための、忌まわしさと。
 相反するふたつを呪い合う、儀式のように。
「……ルー」
 喉の奥で唸りながらも無言で、愛した男の上に屈み込みその血を舐め続ける吸血鬼の姿に、わけもわからず、法服の下の肌が粟立つ。
 血を啜り舐めとる音ひとつするたびに、ひんやりと心臓を掴んだ氷のような白い手に力を込められるようだ。
 いまにも心臓を握り潰されそうで、息ができない。
 労わるように、慈しむように、赤い舌が青白い肌の上を這い。
 飢えたような、噎(むせ)ぶような、獣の唸りが肌を傷つける牙の隙間から。
 膝に力が入らず、いまにも崩れそうだ。
 すると、それまで戸惑ったように目をぎょろぎょろとさせていた魔女が、金属棒を身体に埋めたまま、ふたたび渇いた嗤い声を吐き出した。
「ああ! ああ! 残念だったね、甘い血の司祭! その娘は、生きている限り血を欲する吸血鬼! 喉の渇きには抗えないただの魔物! 神の助けなどありはしない!」
 高らかに笑った魔女は、ゆっくりと美しい姿へと戻っていく。
 だが、それでも身体を貫く金属棒に力を奪われていくのか、ふらりとその場で膝を崩した。
 長い金属棒の先が冷たい床を叩き、高い音が炎と煙と血の臭いの充満する地下に響く。
 その音に、ふと、血を舐めていた吸血鬼が顔を上げた。
 ゆっくりと、赤く染まったおのれのくちびるを、舐める。
「愛した男の血は、美味しかったでしょう?」
 姿同様声音も美しいものに戻した魔女が、膝をついたままでやんわりと囁いた。
 ふ、とルーの喉から零れていた唸り声が止む。
 そして、
「……そう、だな」
 静かな、ちいさな声で、そう呟くように答えた。
「ふふ。あなたのお父さまも、とっても美味しかったわ」
 わずかに乱れる息でそう言って、魔女の白い手指が血の滴る金属棒を撫でる。
「嬉しいわ、ルー。わたしの可愛い狼、愚かな娘。きっと、あなたならわかってくれると、思っていたのよ」
「お、い。ルー」
 掠れた声で名を呼ぶと、顔を上げない吸血鬼のかわりに、魔女が呪われた美しい宝石のような碧緑の双眸でジュリアンを見た。
「美味しそうな、甘い血の匂い。きっと、いまはもっと美味しくなっているのでしょうね。あの血を啜れば、この傷もすぐに綺麗に消えるわ」
 ふわり、とそれは美しく微笑まれて、全身から音を立てて血の気が引いたような錯覚をする。
「『ルー』!」
 幼い声が飛んで、魔女の視線から隠すように、ルーを模した写生帖の魔物がジュリアンのまえに立った。
「ミラ」
 はっ、と我に返り、写生帖を抱えて震える子どもに必死に腕を伸ばし、そのちいさな身体を抱き寄せたジュリアンは、しかしすぐにミラを自分の身体の後ろに押しやり隠すと、昇降機で地上に逃げろ、と目で合図する。
 だというのに、ミラは激しく首を横に振った。なぜだかこちらの法服を、しっかりとちいさな手で握っている。
「司祭さまも、いっしょにいこう」
「先に行け。俺はあとから行く」
「で、も」
 法服を離さない子どもを振り返ると、硝子のような澄んだ淡い緑の双眸が、じっと見上げていた。
 この子を頼む、と。
 そう言われていたことを、思い出す。
 父を母である魔女に殺された、子ども。
 写生帖から魔物を生み出す奇妙な力を持ってはいるものの、ちいさな手が、頼りなく震えていた。
 不意に、愛しさのようなものが込み上げてきて、ジュリアンはミラの頭をそっと撫でて、
「良い子だから、先に行きなさい」
 司祭らしい声音で、そう言った。
「ミラ。行きなさい」
 そして、生きなさい。
 生きるために、行きなさい。
 あの幼い日、自分が言われたおなじ言葉を口にして、ジュリアンは穏やかに微笑んだ。
「ひとりは、いや」
「ああ、ひとりにはしない。必ず、ルーも連れて戻るから。だから、先に行って待っていなさい」
 残して逝きはしない、とそう約束して、なかば無理やりミラのちいさな身体を昇降機のなかに押し込み、一本金属棒が足りない扉を閉めた。
 
 

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