「そうね。死んでしまうわね、みんな」
ずるり、と白く細い手が引き抜かれるなりそのまま力なく伏した老翁の、その身体のむこう。
逃げ道となるはずだった扉を、豪奢に波打つ黄金の髪が嘲笑うように塞いでいた。
じわじわと溢れだし冷たい石床を生温かく染め上げる赤い色を、愉悦に細めた碧緑の双眸で見下ろした魔女リーナは、鮮血に染まるおのれの手指をこちらへと見せつけるように真っ赤な舌でゆっくりと舐め上げる。
「弱いものから順に死んでいくものよ」
「……セ、シル……?」
「そして、弱いものを踏み躙ることができるのは、強いものの特権よ。でも、そうねぇ……逃げ惑う餌を追い詰めるのは楽しいけれど、そろそろ飽きてきたわ。わたしの可愛い狼も、兎の穴に入ることができなくて地団太を踏んで悔しがっていることでしょうし、さっさと終わらせましょう」
「セシル……っ!」
ほんのわずか、呼びかけに応えるように動いた、皺だらけの指。
床に広がる血の海に沈んだ老翁に駆け寄ろうとしたジュリアンだったが、しかし、不意にちいさな力で法服の裾を引かれ、ざわり、とその瞬間に肌が粟立ったことを自覚した。
法服の裾を引いたのは、いつのまにか背後にまわっていたらしい写生帖を胸に抱えた少女。
魔女の、娘だ。
視線を逸らすべきではないと、そうわかっているのに、思わず、ジュリアンは魔女から視線を外して少女を振り返った。
すると、滑らかに動くパステルで「それ」のなまえを書き終えた少女の硝子玉の目と目が合う。
「良い子ね、ミラ。たくさん描きなさい」
薄暗い地下に響き渡る華やかに高らかな魔女の嗤い声のなか、少女が掲げた写生帖から、そこに描かれた平面の魔物が絵の向こう側から腕を伸ばし、ぐ、と写生帖の縁を掴んだ。
薄い膜を内側から引き伸ばすようにして立体となった魔物は、軽やかに石床に降り立ち、完全に写生帖から現出した。そして、ほっそりとした腰に帯びた剣を鮮やかに抜き、
「っ!?」
石床を蹴ると同時に恐ろしい速さで唸りを上げて、ふと嗤うのをやめた魔女目がけて剣を振り上げた。
「ミラ、おまえっ!」
怒り声を上げる魔女が、写生帖から現出した魔物の剣を寸でのところで避けるも、乱暴に蹴り飛ばされて煙の向こうへと派手に転がる。しかし、すぐに後を追った魔物が、やはり煙の向こうで紙を引き裂くような悲鳴を上げた。
同時に、ミラがふたたび写生帖に「それ」のなまえを書き終える。
再度現れたさきほどと似た魔物は、息つく間もなく煙を纏うように飛びかかってきた魔女へと向かった。
あまりの速さと輪郭の拙さから、その形状はよくわからない。けれど、
薄闇のなか光る滴る血のような真紅の瞳と、ゆるやかに巻かれたアッシュピンクの甘い夢のような色合いは。
「おい、これ……へったくそ……じゃなくて、」
みたび魔物を生み出した写生帖を覗き込んだジュリアンは、表情の窺い知れない少女の白い顔を驚愕しつつ見つめた。
「……『ルー』……?」
走り書かれた「それ」のなまえを口にすると、ミラがこくりとひとつ頷き、
「だってこのまえ、ルーを描けって、ルーが言った」
そう言って、淡々とパステルを握ったちいさな手を素早く動かす。
「ほんものみたいには、まだ描けないけど」
時間稼ぎにはなるかも知れない、とそのようなことを呟いたミラの硝子玉のような瞳が、ちいさく揺らいでこちらを見上げた。どこか、不安げに。
何故だとかどうしてだとかそんなことは後だ、とその瞬間、ジュリアンはミラのちいさな身体を抱き上げて、三体の写生帖の魔物『ルー』に飛び掛られながらもおのれを裏切った娘の細い首へと伸ばす魔女の爪から庇い、迷うことなく聖句を紡ぎながら右手に持った銃を撃つ。
流れ込み魔女と魔物の動きに巻き上げられる煙のなか、弾けるような音とともに短く潰れた悲鳴が上がるのを聞き、神様、とジュリアンはつぶやいた。
倒れ伏したままこちらの呼びかけに反応しなくなったセシルの傍へと寄り、扉に付けられた取っ手を握る。
しかし、開かない。
鍵も開いているというのに、押しても引いても、取っ手をいくら回しても扉が開かないのだ。
魔女の魔力で閉ざされているのか、ミラを下ろして扉へと体当たりするも、力任せに蹴りつけるも、開かない。
「頼む、神様! ミラだけでも逃がしてくれ!」
乱暴に拳を叩きつけると、ずるり、とそこに血がついた。衝撃で、手指のどこかを傷つけたらしい。
途端、視界の隅でミラが大きく瞳を見開いてその場に座り込むのが見えた。パステルを取り落としたちいさな身体が、がくがくと大きく震えている。
そしていつのまにか、高速の剣を持つ吸血鬼を模した魔物と魔女の争う音が、消えていた。
かわりに、まるで飢えた獣が餌を前に喉を鳴らすような音が、背後に響く。
「…………」
声が喉の奥に張りついて出てこない。
銃弾の残りは、と頭のなかで数えようとするのに、背後のその恐ろしく強大で不気味な気配につられて、うまくいかない。
怖気に全身を掴まれるまま背後を振り返り、そして、思わず扉に背を押しつけた。
振り返らなければ良かった、などとどうしようもないことを、ほんのわずか思う。
なぜならそこにゆらりと濃く深い闇を纏い立っていたのは、さきほどまで女神のような凄絶な美貌を誇っていたはずの魔女。しかしいまは、引き千切られた魔物だったもののなれの果てを石床に落とすその手には、恐ろしく鋭く長い爪が伸び、食い千切った赤黒い肉片を吐き出す口は、醜い牙がずらりと並び耳大きく裂けて、そしてこちらを爛々と見据える双眸は、禍々しい真紅に吊り上げた、恐ろしく醜く変わり果てた姿の魔女だったからだ。
「ああ……美味しそうな、匂い……美味しそうな、甘い、血の匂い……」
醜く歪んで潰れた声音とともに、大きな口からは涎が糸を引いて床に落ちる。
逃げ場は、なかった。
けれど、
足もとに、動かないセシル。そして、動けないミラがいる。
自分が食われて、それで終わりとなるはずがなかった。
「……っざけんな、クソ魔女……っ」
諦めたら、喰われる。
自分だけじゃなく、セシルもミラも。
諦めたら終わりだ、とそう思いやっとのことで悪態をつくも、しかし逃げる手立ても逃がす手立ても見つからない。
闇雲に銃を撃って当たるかどうかもわからない。それどころか弾が残っているのかすら、わからない。
なんとかして、ミラだけでも逃がさなくては。
けれど下手に彼女に声をかけて、いまはこちらの血の匂いに気をとられている魔女の注意がそちらへと逸れてもいけない。
扉さえ開けば、外に誘い出せるというのに。
「……っ」
しかしそのとき、ふと、ジュリアンはちいさく笑った。
成功するかどうかは、わからない。失敗したら終わりだろうけれど、それでもなにもしないで食われるよりはまだまし。
「……おまえ、さあ。ルーの言うとおりだったな」
自棄を起こしたように見えるだろう。けれど、ジュリアンは喉の奥で嗤いながら、そう言う。
すると、ぴくり、と魔女が目を眇めたのがわかった。
醜い姿を晒すくらいだ、相手も冷静ではないはず。魔物との争いとそしてこの血の匂いに興奮し我を忘れているのなら、そのままでいろ。いや、もっと興奮すればいい。もっと、そう、
「頗(すこぶ)る醜い、ってほんとだな。気持ち悪ぃ。いまの自分のツラ、鏡で見てみろよ。ひっでぇぞ。醜すぎて吐き気するっつーの」
怒れよ。
はっ、と鼻で嗤ったジュリアンが言うなり、怒り狂った魔女が魔獣そのものの雄叫びを上げた。
炎にあらかた喰われた屋敷全体が震え、いまにも潰れるのではないかというような、思わず耳を塞いで座り込みたくなる咆哮にそれでも耐えると、咆哮した後、すぐさま魔女が黒い闇の塊となってこちらへとどっと雪崩れ押し寄せてくる。
迫る風圧に耐えながらも、恐ろしい勢いで鋭い爪が振り上げられるのを、ジュリアンは視界の端に捕らえた。同時に、思い切り靴底で扉を蹴り、その反動でもって魔女の足もとへと飛ぶように転がる。
そして振り下ろされた魔女の爪によって扉が粉々に吹き飛んだのを視界の端に確認すると、身体を起こし、弾が残っているのか知れない銃の引鉄を引いた。
弾は運よく一発だけ残っていたらしい、発砲音の直後泥になにかが埋まるような音とともに魔女の身体がまえにのめる。ジュリアンは撃ち尽くした銃を放り出すと、魔女へと向かって全力で駆け跳び上がると、その黄金渦巻く後頭部を踏みつけて扉から外へと転がり出た。
そして、
「自分の家に入れないって間抜けすぎんだろ、アホ吸血鬼っ!」
「……うるさい」
そこに剣を手に待ちかまえていた、真紅の双眸ぎらつかせる、写生帖から現出したものではない本物の吸血鬼と、入れ替わる。