「セシル!」
 半ば悲鳴のように、ルーが声を上げる。
 とっさに屋敷のある方角へと振り返ると、面白がる魔女の声音が耳もとを甘い毒のようにくすぐった。
「ミラを返してほしかったんでしょう? 返してあげるわよ?」
 つまり、屋敷を襲っているのはミラということなのだろう。
 ジュリアンは鋭く舌打ちすると、白い顔を強張らせるルーに向かって、
「俺が行く! 魔女はおまえがなんとかしろ!」
 とそう怒鳴るように言い、返事を聞くよりも先に踵を返した。
 屋敷には、穏やかな老翁がたったひとり。
 その屋敷を、これまで領内に近寄ることすらしなかったというにこうして現れた魔女が、ミラにさせているとはいえ、襲撃している。
 それは、なぜか。
 それはすでに魔女が答えていたことだ。いや、それよりもまえに、ルーが言っていた。
 囮(おとり)だ、と。
 老いた兎には、獰猛な狼。甘い血の司祭には……毒に塗れた魔女。
 自分の血がどれほどに甘いかなど知らないし、知りたくもない。
 けれど、吸血鬼と魔女のどちらもが、甘い、と称する血。
 それを持つ自分を囮にしたのだから、襲撃してくることはわかっていたはずだというのに。
 それならば、やはり、なぜ。
 なぜ、襲撃してくるとわかっているのに、屋敷に老翁をひとりで残したのか。
 魔女に襲われるのは、甘い血の司祭だけだと思い込んでいたからなのか。
 だとしたなら、ルーも自分も、
「詰めが甘すぎるだろうっ!」
 くそっ、と自身に苛立ちながら、ジュリアンは休むことなく駆ける。
 祈りのためにいくつも繋がれた透明の珠が、一歩足を出すごとに忙しなく揺れて音を立てた。
 耳もとで、耳飾がちりちりと急いたように聖句を歌う。
 自分のせいで失われていい命など、もうあってはならないのだ。
 救えるものなら救いたい。いや、救わなくては。
 間に合え、と乱れる息と痛む肺を叱咤し、曇天の下、薄闇に包まれた屋敷へと向かう。
 近付くたびに強くなる、不穏な音と、匂い。
 焦るたびに縺れそうになる、足。
 しかしそれに舌打ちする余裕などなく屋敷のまえに転がるように飛び出し、そして瞠目する。
 屋敷は、黒煙と紅蓮とを噴き上げ、燃えていた。
 炎は容赦なく屋敷を舐め上げ咀嚼し、蹂躙する。
 柱が圧し折れ、硝子が割れる。炎の唸り声に、屋敷が震えて悲鳴を上げていた。
「爺さん! セシル!」
 あたりを真っ赤に染めて黒く沈んで行こうとする屋敷に向かって呼びかけるが、聞こえたのは屋敷にほど近い場所に住んでいる人間たちから発せられた悲鳴だけ。
「おい、誰か! なかにひとがいるんだ、手伝ってくれ!」
 とにかく人手がいる、と振り返ってこの事態を遠巻きに眺めている者たちに声をかけるも、川を挟んだ向こう側の、締め切る雨戸の陰からひとが出てくる気配はない。たとえ姿を見たとしても、こちらと目が合ったとたん、後退りして目を逸らす始末。
 誰ひとりとして、助けようという者がいない。
「……くそっ!」
 吐き捨てて、ジュリアンは川へと跳んだ。
 派手な水飛沫に、また周囲で悲鳴が上がる。
 濡れてしまわないよう銃を持つ右手を高く上げ、炎を映して妖しく揺らめく水に法服を浸す自分を、無茶なことをしている、とジュリアンは嗤った。けれど、
「だから、なんだ……っ!」
 水を吸って重い法服を引き摺るようにして川から上がり、揺れる炎に踊らされる屋敷の黒い影を睨む。
「セシル!」
 叫んだ途端に煙を吸い咳き込んで、取り出した布で顔の下半分を覆った。
 まだ無事だろうか、とちらとそのような弱気が顔を覗かせたが、それを振り払うように屋敷の門を蹴り開く。
 そして、花がない、とルーが文句を言っていた庭に、熱風に煽られながらも駆け込んだ。
 その、無残に焼かれた庭には、なにか巨大なものが踏み躙ったような痕がある。ミラが写生帖に描いて現出させた化け物だろう。壁が乱暴に崩され、屋敷内に侵入した痕もあった。
 ジュリアンは、ミラの化け物が侵入したと思われるその壁にできた大穴から、屋敷内に飛び込んだ。
「セシル! ミラ!」
 どこにいる、と見回すすぐそばで、炎の腕に圧し折られた壁が悲鳴を上げて弾け、燃える柱が落ちてくる。
 声を飲んで跳び退り、弄りにくる熱に目を細めた。
 毛足の長い絨毯など、あっという間に炎の餌食だ。こちらを追うように伸びる炎の舌に背を向け、確か地下は魔物狩りの際に使用する機材、とはいっても青やら薄紅やらの照明だが、とりあえずそういった機材が置かれたひんやりとした石造りの頑丈な避難所のような場所だったはずだと、地下へ下りるための隠し扉を目指して走った。
 まさか、こんなこともあろうかと予想して、この屋敷へと連れてこられたときルーがその場所を通ったとは思えないが、それでもセシルが逃げられるならそこからだろう。
 むしろ、時計屋がつくったという機械仕掛けの昇降機ですでに外へと逃げ出したセシルと入れ違いになる可能性もあるが、それならそれでいい。
 無事なら無事であることを確認しなくては。そうでないなら、なにがなんでも助けなくては。
 ジュリアンは、居間にある水辺が描かれていたはずの焼け焦げた大きな風景画の、重厚感のある装飾的な金の額縁の片側に両手をかけ、力任せに手前へと引いた。
 人ひとりがようやく入れるほどの隠し通路をふさぐその絵は重い音を立てて外れると、灰を撒きちらしながら床の上でばらばらになる。同時に、ひやりとした新鮮な空気の侵入に、ジュリアンの周囲を取り巻く炎がさらにその力を増した。
 ジュリアンはこちらを飲み込みにくる炎の舌を蹴散らすように、壁に現れた暗い穴へと身体を引き上げ、石でできた床を這いずりさらに追いすがるように伸びてくる炎の腕から逃げる。
 必死に暗闇の奥へと進みようやくまともに息ができるあたりで、背後の踊る紅蓮を見遣った。
 しかし、炎と熱から遠ざかったとはいえ、黒い煙が幽鬼のようにするすると追いかけてくる。煙に噎せながら立ち上がると、転げ落ちるように階段を下りた。
 勢いづきすぎて体勢を崩し、階段の一番下へきたときには呆気なく膝が崩れて石床に両手をつく。握りしめた銃を離すことはなかったが、それでも反動で盛大に噎せていると、
「こっちだよ」
 ぐい、と左腕を引かれた。
 顔を上げると、穏やかな顔立ちにいまは少々の焦りを浮かべた老翁の姿がある。
 いくらか煤に汚れてはいたが、どうやら怪我などはないらしい。
「無事、だったか」
 思わずジュリアンが安堵の息を吐くと、老翁は呆れたような笑みを浮かべた。
「それはこっちの台詞だねぇ。とりあえず、立って。あの扉の向こうから外に出よう」
 焼け焦げた法服や髪から灰を叩き落としながら立ち上がったジュリアンは、しかし、あの扉だよ、と指さされたほうを見遣ると瞠目し、すぐさま老翁を背に庇う。
「……っ!」
 扉の脇、暗がりになっているあたり。
 そこに、写生帖を胸に抱いたちいさな少女が、ぽつんと立っていた。
「ミラ……!」
 焦るジュリアンに、しかし少女は人形のように表情ひとつ動かさないまま、じっと淡い緑の硝子玉のような瞳でこちらを見つめてくる。
 写生帖から現出させた化け物はどこだ、とジュリアンはその周囲に素早く視線をやるが、しかし化け物の影はどうやらないようだ。
 そして、少女が化け物を描き出そうとパステルを握る右手を動かそうとするようすも、ない。
 どういうことだ、と不審に眉を寄せると、ふと老翁の枯れ枝のような手がこちらの肩を軽く叩いた。
「だいじょうぶだよ、司祭殿。ミラには甘いお菓子をあげたからね」
「……はっ?」
 思わず聞き返すと、今度は少女が無表情のままこくりと頷いて寄越す。
「お菓子、もらった。あとは、紅茶が欲しい」
「はあっ?」
「そうだねぇ。じゃあ、無事に外に出られたらお茶も用意しようねぇ」
「ちょ、はあっ? なに言っちゃってんの、ジジイっ! このガキのせいで、屋敷思いっきり燃えてるんですけどっ?」
「ガキじゃない。ミラ」
 なにを暢気な、と声を荒げるジュリアンに、抑揚ない幼い声で少女が訂正を入れた。
 しかし、そんなやりとりすらも暢気だということに気付かないのか、盛大に戸惑っているジュリアンに、
「いいから、ふたりとも。はやくこっちにおいで。外にでないとみんな死んでしまうよ」
 と苦笑しつつそう言って、あっさりと甘い菓子で魔女の娘を手なずけてしまったらしい老翁は、ちら、とジュリアンがやってきた方、煙が雪崩れ込んでくる様を見ながら扉に手をかける。
 そして、
「……あ、れ……?」
 自分の血に塗れた胸から生えた真白い手指を見下ろしちいさく戸惑いの声を上げると、老翁はごぽりと口から赤い色を吐き出しつつ、ゆっくりと細く枯れたその老いた膝を、崩した。
 
 

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