ぽつりとつぶやくようにそう言うと、美しい涙を流しつつもうっすらと蠱惑的なくちびるに嘲りの色を刷いていた目のまえの美しい女が、す、と瞳の温度を下げるように眇めた。
 そう、あのとき耳にした笑い声とおなじ響きが、この女の甘い声音のなかに潜んでいる。
 間違えてはいけない。
 肺腑のなかの淀んだものを吐き出すように深く息を吐き、ジュリアンはまだ震えの残る身体を叱咤した。
 奪われるのが怖いのなら、奪われないよう強くあろうとしなくては。
 奪われるのは怖い。
 奪うのも、怖い。
 けれど、助けられるだけのままでは、いけない。
 青白く光る狼の牙に映り込んだ自分の冷たい汗に濡れて情けない顔を、睨みつけた。
 逃げるだけでは、生きてはいけないのだ。
 そんなふうにはもう、生きていきたくはない。
 強くあらねば。
 命を嗤うことを、許してはならない。
 自分は、司祭であり、祓魔師だ。
 怖いのは、目のまえの魔女ではない。
 魔女が見せる幻惑でも、甘い声音で紡がれる誘惑でもない。
 惑わされるな、狂わされるな。
 刃に映る己の青い双眸を見据え、まだ痺れの残る左の手指で耳飾の聖句に触れた。
 逃げているだけでは、赦されない。
 生きたければ、奪われたくなければ、己が強くあらねば。
 命を弄ぶものを、許してはならないのだ。
「……一応、訊いておく」
 ジュリアンは、すっ、と息を吸うと同時に姿勢を正し、まっすぐに、なぜ弱みにつけ込んだ幻惑が破られたのか、と不審がるようにじっとこちらを窺う魔女の碧緑の双眸を見つめ返した。
「いまのうちに神に祈って、悔い改めたりしてみるか?」
 その問いに苦笑したのは、ルーだ。
「祈ったとたん、灰になるだろうよ」
 そして、身体を捩(よじ)りもがくもさらに強く押さえ込まれ苛立った魔女が、くだらない、と低く吐き捨てると、ルーは薄闇のなかで真紅の双眸を光らせ、
「ああ、くだらないな。わたしもおまえも、人間ではない。闇の存在などは強い光にあてられたなら、なにひとつ救われることなく呆気なく灰になるだろう。そうして成す術もなく、時の記憶の砂とともに風に溶けていくのだろうな。実に、くだらない最期だ」
 ふ、とどこか哀しげに、そう嗤う。
 アッシュピンクの夢のように甘い色の髪が、ゆら、とほっそりとしてまるい白い肩の上に儚く揺れた。
 己が魔物であると自覚している、魔物。
 強く美しいくせに、弱く儚い。
 己の鋭い牙を持つその白い手指のたおやかさが、結い上げずに背肩に流されたままの甘く儚く闇に溶ける砂糖菓子のような色の髪のやわらかさが、胸に染みた。
「……だいじょうぶだ」
 諭すかのように言うと、なにを言っているのか、と目のまえで光る真紅の双眸がきょとんと見開かれる。
 その手が掴む見事な金髪の先では、鋭く尖った歯を剥き出した魔女がふたたび怒り狂う獣のような唸り声を上げていた。
 その、なんとも不釣り合いなようすに、しかしジュリアンはいっそ穏やかなまでの表情で、だいじょうぶだ、ともう一度口にする。
「おまえのことは、俺が救う」
 無力で情けないおまえがなにを言う、と。
 嗤うなら、嗤えばいい。
 怒りたいなら、怒るがいい。
 けれど、自分はルーを信じ、ルーは信じた通りに魔女を止めた。
 だからこそ、かつては愛し、そして裏切られたものの動きを止めてすら尚いまだ怯えるようである彼女を、たとえ神に赦されない魔物なのだとしても、救ってやりたかった。たとえほんの、わずかでも。できるかぎりのことを。
 そう、自分はたしかに無力だ。
 吸血鬼が持つ力も速さもなければ、ましてや牙もない。
 魔女の幻惑にも、気を抜けばまた捕らわれるかも知れない。
 そして、薄暗い屋敷で待つあの老翁のような深い信頼と愛情でなにもかもを受け止めてやるには、自分はまだ、あまりに弱い。
 身の程知らずであることなど、自覚している。
 けれど胸の奥のどこか、深いところで。
 救いたいのだ、と。
 そしてそれをくちびるに乗せた瞬間、その意思は確固として胸に刻まれる。
 覚悟ができたと言っていい。
 この先なにが起こったとしてもルーを救う、覚悟。
 誰に嘲笑を、怒りを向けられても、本人にすらそれを向けられたとしても、それを覆すことはない、と。
 ジュリアンは、青い瞳でまっすぐにルーを見つめた。
 すると、嘲るか怒りを見せるかの反応をするだろうと思われたルーが、ふ、とおかしな顔をする。どこか、いまにも泣きだしそうな幼子のような、宗教画に描かれた慈愛に満ちた聖女のような、そのどちらともつかない微笑を、わずかの間、浮かべたのだ。
 ややあって、
「……神の赦さない存在を救えば、おまえがその怒りに触れるぞ」
 ふん、と不貞腐れたように言って鼻を鳴らした。
 しかしその白い頬は、いま、朝靄のなかでほんのりとやさしく開く薔薇の花のように色づいている。
 嗤うわけでも拒むわけでもない言葉と、素直ではない態度に、ジュリアンはどこか安堵しながらも呆れた。
 そして、軽く肩をすくめてみせ、
「俺の神様、結構心が広いっていうか放任主義だから、まあ、だいじょうぶだろ」
「それ、たぶん褒めてないぞ、罰あたり不良司祭」
「そうだな。でも……俺はもう、後悔したくない。神の怒りに触れたとしても、おまえのことは見捨てない」
 言いきると、それまでルーの拘束から逃れようと身を捩っていた魔女が、ぴたり、と動きを止め、悪意に輝く碧緑の双眸でこちらを見上げてきた。
「あら。あなた、もしかしてわたしの可愛いこの狼のことを好いているのかしら? ねえ、ジュリアン司祭?」
 魔女は、甘いお菓子と恋のお話は大好きよ、と夢見る乙女のような台詞には不釣り合いの醜悪な笑み声を放つ。
「だとしたら、とっても面白いわ。老いさらばえた兎を狂わせるよりも、ずっと。ねえ、あなたたち、殺し合いなさいな? そうしてどろりと真っ赤に溶けあって、甘い甘いお菓子になってしまえばいいわ!」
「黙れよ、魔女。おまえの無駄話なんて聞きたくないんだよ」
 もう幻惑も嘲笑もたくさんだ、とジュリアンはきつく眉を寄せながら、銀の銃口を真白い額に押しつけた。しかし、
「神様、お許しください。あなたの名のもと、俺は魔女を殺す」
 放任主義者の神へと一応の断りを入れ、ふ、と息を吐きだし引鉄を引こうとした、そのとき、
「おい、ジュリアン。この魔女はわたしの獲物だ」
 ルーの凛とした声音が遮った。
 しかし、視線をやった先にあったその顔は、どこか気遣わしげであるような気がして、ジュリアンは思わず込み上げそうになる苦笑を押し殺し、ゆっくりと首を振る。
「俺は祓魔師だ。魔物を祓うのが仕事だ」
「魔物を狩るのはわたしの仕事だ」
「おい、趣味だとかぬかしてなかったか? それは仕事って言わないだろうが」
「っさい、お菓子野郎」
「誰が菓子だ。おまえも黙れ、規格外」
 黙っていろ、ひっこんでいろ、と互いに言い合ううち、間に挟まれてそれを聞いていた魔女がうんざりと嘲笑うような低い笑みをこぼした。
「ねえ、司祭さま。あなた、祓魔師なんて向いていなくてよ。だってそうでしょう? せっかく奪われるまえに奪ってやろうとこうして綺麗な銀色の銃をわたしに突きつけているのに、こんなにぐずぐずしていては、やっぱり先に奪ってください、と可愛くおねだりしているようなものだわ」
 ざわり、とどこかでくすんだ色の木々が葉を揺らすのを聞く。
 同時に、肌が粟立った。
 なにかが焼け焦げる、そんな匂いがかすかに風に混じっている。
 しまった、と思ったときには、目のまえの美しい顔が目を剥き大きく醜悪に嗤う。
 
 ずっと背後で、なにかが派手に薙ぎ倒され爆ぜる音が、した。
 
 
 

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