しかし、瞬きの間に翻った冷たく凍える光に、笑みを乗せたはずのくちびるは引き攣り、くっ、と喉に声を飲んだ。
 仰け反る魔女の白い喉元にぴたりとあてられた、装飾美しい長剣の刃。
 魔物を狩る魔物の、鋭く長い牙だ。
 透き通るほどに白く滑らかな皮膚に、わずか、赤い線が浮かび上がる。
 それを目の当たりにして、思わず心が揺らいだ。
 祓魔師とはいえ、これまで姿ある悪魔や魔物の類などに出くわしたことなどなかった。一見すると人間と変わらない姿をした、しかも意思の疎通が可能である魔物を祓うことなど、当然、したこともないのだ。
 祓うということは、すなわち、殺すこと。
 あとは、一気に刃を滑らせるか、銀の銃弾を心臓に撃ち込めばいい。それで終わるはずだ。
 そうだというのに。
 いまさらのように、それに気付かされた。
 そして気付いたとたん、身体のなかで臆病な心臓が怯えた音を立てる。
 すると、それまで低く凶暴な唸り声を上げていた魔女が、ああっ、と悲鳴を上げた。
「お願い、司祭様。狼に牙をどけるように言ってちょうだい。怖いわ、お願いよ」
 見事な金髪は乱暴に掴まれた上に、その細く頼りなげな背を乗り上げてきた膝で成す術もなく押さえつけられ、喉には鋭い刃をあてられて白い皮膚を切り裂かれる寸前。もはやこれまでと悲嘆にくれる哀れな声音が、鼓膜を柔く震わせた。
 じり、と耳飾が冷え、その痛みに肌が粟立つ。
 そして、見えない白い手に掬い上げるようにわずかに顔を上げてその潤んだ碧緑の双眸をまともに見た瞬間、心が身体ごと大きく揺れた。
 ふたたびぐらりと重い眩暈に襲われ、冷たい汗が噴き出す。
「あぁ、このままだと殺されてしまうわ。ねえ、お願いジュリアン司祭様。弱く哀れなわたしを助けてちょうだい」
 恐ろしい狼に食い殺されてしまうわ、と訴える涙に震えるか弱くもひどく甘い声音が、冷えた耳朶をくすぐる。
 陽光を纏う女神のように美しい女の咲き初めの薔薇のようなくちびるが、お願いよ、と繰り返し縋り、さらなる眩暈を誘った。
「死ぬのは怖いわ。助けてちょうだい」
 身体中のいたるところから染み込む甘い毒のような声音に、引き寄せられる真紅の記憶。
 
 助けて。
 死ぬのは怖い。
 
 魔女の囁き声に重なるように、耳の奥で、死にたくない、と泣き叫ぶ幼い男の子の声がした。
 幼いころの、自分だった。
 それはやがて底から込み上げるように、溢れてくる。
 怖い、と訴えて全身を覆うのだ。
 けれど同時に、迷う声も聞こえた。
 
 生きるのも、怖い、と。
 
 なぜなら、自分にはなにもなかった。
 両親は流行病でとうに亡くなり、預けられた親戚の家では邪険にされ居場所などない。
 汚れた暗い路地裏で、似たような境遇の子どもたちとともにスリやかっぱらいをして喰い繋いでいたけれど、誰もがその日生きることに必死であったため奪い合いなどはあたりまえで、信頼のおけるものなどなかった。
 このまま生きていたところで、いったいどうだというのだろう。
 誰のためになるというのだろうか。
 
 けれど、
 
「ジュリアン!」
 
 記憶のなかの力強くやさしい声音と、少女のように澄んで凛とした声音とに名を呼ばれて、はっ、とジュリアンは瞠目した。溺れていた人間がするように、激しく息を吸い込み噎(む)せる。
 そして、ぜいぜいとうるさい己の口元に手を当てたその耳に、ふたたび記憶のなかの声が強く囁いた。
 
 ジュリアン、生きなさい。
 
 そうだ。
 そう言ったやさしく穏やかなひとは、そのつぎの瞬間には真紅に染まった。
 響き渡る哄笑のなか、ゆっくりとそのひとの身体が傾ぎ、床に広がる赤い海に落ちていく。
 それは、命が奪われた記憶。
 奪われる恐怖の、記憶。
 振り返らず走って逃げなさい、ともはや言葉すらまともに紡げないというにも関わらず背後を指され、ほかにどうすることもできずに無我夢中で駆けだした。
 その間にも、愉悦に満ちた甲高い笑い声が、恐ろしい音楽のようにあたりに響く。
 身体中の毛穴を無理やり押し開いてなかに入り込もうとするような、毀れやすく弱々しい命を嗤う、狂気に満ちたおぞましい哄笑。
 
「……嗤うな」
 

 

 
 

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