金貨を溶かして紡いだかのような豪奢に波打つ美しい金の髪を揺らめかし、その女はいつのまにかそこにいる。
 町を一望する高台。
 そこにつくられた欄干へとふわりと腰かけ、心を蕩けさせる最上級の宝石のような碧緑の瞳で、じっとこちらを見つめている。
 薔薇色に色づく滑らかな白い肌を下品にならない程度に出した、薄緑色のレースの飾られた真白のドレス。小鳥の尾羽のようにも、百合のはなびらのようにも見える、やわらかな裾が揺れる襞をたっぷりととった清楚なドレスを纏い微笑を浮かべる女は、ひどく美しかった。
 いや、彼女を縁取る輪郭のやわらかさと淡さからすると、まだ少女といってもいいだろう。
 それでもそれが少女などではないと判じるのは、一見すると真白のドレスに似会いのやさしげな微笑の向こうに、よくよく見ると、じわりと羽虫を甘く誘う毒花のような妖艶さとこちらを見下しきった底冷えのするような狂気が透かして見えたからだ。
「魔女……っ!」
 とっさに情けなく座り込んでいた体勢から、膝を立てて身体を起こす。同時に、法服の下に隠していた古めかしい銀の銃を抜いた。
 だが、引鉄を引くそのまえに、じわりと広がる真紅色を見とめてはっと瞠目する。
 真白を纏っているはずの魔女の左腕が、真紅に染まっていた。
 ドレスに零れ落ち、白い肌を艶やかに伝い石畳に滴り落ちるのは、彼女自身の血。
 血を流させているのは、ほかでもない、ルーの剣だった。
「なぜ貴様がここにいる」
 ここはわたしの領内だ、と長剣の切っ先をさらにやわらかな肉のなかへと押し込んだルーが、低く唸る。
 一見すると、長剣が真白のドレスの下にある肉を貫くさまは、綺麗な羽虫を縫い止める残酷な針のようだ。
 しかし、いま縫い止められているのはか弱く美しい羽虫などではない。魔女だ。
 それは捕らえたこちらの肉を嗤いながら裂きうっとりと血を啜る、残忍な捕食者。
 自分は、庇われたのだ。
 顔色悪く、間近で魔女を睨み据えるルーに。
 そう、ルーの顔色が、悪い。元々月光のように白い肌が、いまは死人のそれのように。
 対する魔女リーナは、左半身を赤く染めているにも関わらず、華やかな色のくちびるから鈴の音のような笑み声をこぼした。
「そうね。確かにここはあなたの領内で、わたしはあれから一度だってこの地には近寄らなかった。けれど、あなたの領内にわたしが入らないなんて、約束はしていないわ。それに」
 それに、と微笑みを浮かべていたくちびるが、艶やかに弧を描く。
 とたん、ぞわり、と全身の肌が粟立つ感覚にジュリアンは襲われた。
 まるで毒々しい色に染め上げられた尖った爪の先で、強張った肌をやんわりといたぶり撫でられるようで、心臓は早鐘を打つのに血の気が引く。冷たい汗が流れ、呼吸が乱れる。
「ここには年老いた兎がいて、獰猛な狼がいて、甘い血の司祭がいるのよ。兎には狼。司祭には……ねえ、魔女が登場しない方が、おかしいとは思わない?」
 じわ、と目のまえの赤が濃くなり、重い眩暈に襲われる。
 ぐらぐらと揺れる意識のなか甘い毒のように注がれる笑み声を聞きながら、ジュリアンは震える左の手指で耳飾に触れた。
「……黙れ、クソ魔女」
 ルーが目のまえの魔女を罵倒するために息を吸うのを耳にしたジュリアンは、彼女が吐き出すはずだった言葉を先回りして吐き捨てた。
 ぴくり、と目のまえの柳眉が片方、跳ねる。
「どいつもこいつも、甘い甘い、言いやがって。俺はお菓子じゃねえ、祓魔師だ。甘く見るな!」
「え、そこ? 気になったのそこ?」
 思わず、といったようすで振り返ったルーに、重要だろうが、と舌打ちを返し、法服の裾を一度叩くようにして払って乱れを直した。そうすると、掻きまわされ淀んでいた意識が、すっきりと澄んだ。
 そして耳飾に刻まれた聖句をすばやく口にし、知らぬ間に下ろしていた銀の銃を持つ腕をふたたび上げる。
「それに、俺はそこのクソ魔女をおびきよせるための囮なんだろう? だったら狙い通りだろうが。縄張りがどうこうといまさらガタガタいうなよ、規格外吸血鬼。魔物狩りだっていうなら、囮におびき出されたクソ魔女をしっかり狩りやがれ! じぇねえと、俺が死ぬだろうが!」
 言いざま、銀弾を込めた銃の引鉄を引いた。
 空を薄暗く覆う雨雲を切り裂くように響く、銃声。
 それとほぼ同時に、魔女の顔が歪み鋭く舌打ちをした。
 弧を描くように宙に跳んだ赤は、乱暴に左腕から狼の牙のような刃を引き抜いた魔女の血だ。
 とっさに銀弾を避けたらしい魔女の、金の髪の幾本かが散る。
 けれど、それだけだ。
 ジュリアンは舌打ちするよりも先に、暗記している魔物を滅するための聖典に記された句を思い浮かべた。
 正直、そんなものが目のまえの魔女に役に立つとは思えない。だが、魔女の幻惑から免れる手段として、魔女の動きを目で追いながらもそれに意識を向ける。
 衣擦れの音とともに欄干から飛ぶように離れた魔女の碧緑の双眸が禍々しく燃え上がり、次いで、正面から獣が低く唸るような音を立てて渦巻いた風が押し寄せた。
 しかし、ジュリアンは一歩も引きさがることなく撃鉄を起こす。
 なぜなら風を纏う魔女の背後には、鳩の血色に輝く真紅の双眸を持つ牙を剥いた狼がいるから。
 吸血鬼を、魔物を信じるなど、どうかしている。
 そう誰に言われようと、かまわなかった。
 ただ、信じた。
 魔女の毒色の爪がこの皮膚を捕らえるそのまえに、狼の名を持つ吸血鬼がその狂気の腕を必ず止めるだろう、と信じたのだ。
 そして、
 直後、がくん、と仰のき白い喉を晒した魔女の金の髪を鷲掴みにしたルーが、にやり、と不敵に笑う。
「かなり情けないことを偉そうに胸張って言うなよ、ジュリアン司祭」
 その顔色は、まだひどく蒼褪めている。
 けれど、ほんのわずか色を戻したようなルーの表情に、ジュリアンは静かな微笑をくちびるに乗せた。
 
 

   前頁へ サン・シュクレ 目次へ 次頁へ

 

 鳳蝶の森へ

 
 
 
inserted by FC2 system