「慕っていた。愛していた。あの日、父を殺されるまでは」
 常の軽々しい物言いなど皆無である、感情のすべてを凍らせたかのように冷たくも虚ろに聞こえる声音で。
 ルーは、嗤った。
「あの女は、使用人を含め、わたし以外の屋敷にいたすべての者を惨殺した。財産目当てなどではない。それならばその場にいたわたしも殺せば良かったのだから。それに……まだ生温かい血を浴び全身をその色に染めながら、あの女は笑っていた。あの女は……血と狂気のなか、ひどく美しく笑っていたんだ」
「なぜ、おまえを……」
「殺さなかったか? さあな。玩具にでもしようと思ったのかも知れん。実際、わたしは人を装うことをやめ、我々の存在を明るみに晒す真似……一族全てを危険にさらす、裏切り者となった。この手で始末してやろうと、一族を捨て魔物狩りとなった。だというのに……わたしは、また守れなかったのだよ。ジェロームを」
 ルーはさらにおのれの手指を睨むようにじっと見据えて、言った。
「ああ、弱さだ。不可能だとはわかっていても、わたしはまだあの女が考えを改めるのではないかなどと、甘いことを考えていた。いや、いまもまだ……そう考えてしまう……」
 それが、わたしの本音だ。
 そう言って、見下ろしていた手指を握り込むと青い瞳を伏せた。
「愚かだろう、わたしは。散々その想いを裏切られてきたというのに、まだ……殺せずにいる……」
 信じていたものに、裏切られる。
 それは、ジュリアンには覚えのないものだった。
 いや、正確には違う。
 背がいまの半分ほどしかなかったころは、いまでは考えられないほどに酷い生活をしていた。醜く淀んだ黒い感情など、あたりまえのようにそこらじゅうの汚泥に落ちていて、自らもその汚泥に塗れ汚れ腐っていたのだ。
 誰かを騙し、誰かのものを奪う。
 それが、日常だった。
 当時はなにも信じなかったし、誰も愛さなかった。
 けれどそんな汚泥のなかから救い上げてくれたひとは、傷つき汚れて荒んだジュリアンをそれでも信じ、愛して、居場所までくれたのだ。
 そしてジュリアンがはじめて信じたそのひとは、ジュリアンを決して裏切らなかった。
 死ぬ、そのときまで。
 いや、いまもなお、恩人であり師でもあるそのひとは、ジュリアンを裏切ってはいない。
 だから、その痛みは、想像ができない。ほんとうの意味では理解ができなかった。
 だが、信じたいと思う気持ちは、わかる。
 真実はどうあれそれを信じていなくては、自分が自分でいられない。そんなことも、あるのだと。
 そんなものは綺麗事だと、一笑に付されるのだとしても。
 ジュリアン自身、誰がなにを言おうが自分は救われたのだ、といまも揺るぎなく信じている。
 とはいえ、いまもまだ魔女リーナを信じたいというルーの言葉に、それを貫くべきだなどと熱く言えるほど、まっすぐに生温く生きてきたわけでもなく、それが綺麗事だということもわかってはいるのだ。
「それに、わたしも……どこか、悦んでいる……」
 不意にそう告げられて、どういう意味だ、と問うてはみるものの、その告白にさほど驚きを感じなかった。
「言ったろう。暇なのだ、と。わたしにとって時間はあまりにも長く、つまらない。恨みも憎しみも、徐々に色褪せてしまうほどに、長いのだ。誇り高い半面傲慢な一族の縛りから解き放たれ、長く虚ろな時間をただ漫然と過ごすのではなく、怒りと闘争心を掻き立てる宿敵を得たことを、わたしは悦んでもいるのだ」
 ただ、そう言って薄く笑んでみせたルーに、ざわりと法服の下の肌が粟立つ。
 恐怖や嫌悪などというものではない。
 いや、怖れはあるだろう。
 人間の血を糧とする魔物が、いままさにおのれの目のまえにいるのだから。
 喰いつこうと思えば、いつでも喰いつける距離だ。
 武器を持たない人間ごときに、その細腰に帯びた剣を使うまでもない。四肢の自由を奪われ首をねじ切られたあと、散々甘い匂いがするといわれたこの血を貪られるなど、おそらく無防備に立ち尽くすこちらが驚いて声を上げる間もなく行われることだろう。
 それを、忘れているわけではない。
 けれどそんな恐怖とは別に、肌をするりと不気味な手指で撫でていったものはいったいなんであるのか。
「自分勝手で傲慢な魔物、だな」
 ふと、くちびるからこぼれ落ちた言葉に、自身で驚く。けれど、止まらなかった。
「おまえは矛盾を抱えているだけ、もしかするとあの魔女よりもずっと厄介だ」
 人間を愛していながらその血を糧とし、宿敵を憎みながらもそれがもたらす空虚を紛らわせる一時を愛している。
「ああ、ほんとうは……おまえが祓うべき悪魔は、わたしなのかも知れない」
 祓うべきはあの魔女ではなく、自分。
 そう言ってこちらへと伸ばされた日の光を知らない真白な手指に、骨と肉を縫い繋ぐ赤い糸の先、心臓が恐怖ではないなにかに震えた。
 なんだ、とそんなおのれ自身に驚きわずかに身を引くと、触れることを厭われたか、とこちらに触れるかどうかというところで手指を止めたルーが、ふわりと苦笑してみせる。
 そして、
「だが、ミラは……あの子は、クソ魔女の娘ではあるがジェロームの子でもある。『悪魔の絵師』などと呼ばれてはいてもとてもやさしく誠実だったあの絵師の子なのだ。悪魔になど、なってほしくはない」
「そういうことなら……ああ、そうだな。あの子を、魔女から取り戻さなければ」
 そう言いつつも、さきほどのおのれのわけのわからない感情にこそ気まずく思い、視線を逃がそうとすると、
「ジュリアン司祭」
 思いがけず真摯な響きを内包した声音に引きとめられた。
 そんな声を出されたなら逃げられない。
 ふと諦めたようにしかたなく視線を戻すと、
「ミラを頼むぞ、ジュリアン司祭」
 不意に、目のまえの吸血鬼がまるで神の使いのような慈愛に満ちた清廉な笑みを浮かべた。
「……え」
 あまりに唐突に向けられた笑みに真白に染まった頭でたっぷりと見惚れた後、ようやく告げられた言葉を思い出し、間の抜けた声がこぼれる。
「わたしの身になにかがあったその時は、ミラのことはおまえに託す」
 微笑みながらのその言葉に、どういう意味だ、と口を開こうとしたそのとき、またしても唐突に目のまえの微笑みが消え失せると同時に身体に衝撃を覚えた。
 ルーに突き飛ばされたのだ、と理解したときには、ジュリアンはすでに濡れた石畳の上に尻もちをついており、
 そして、
 
「ミラがほしいなら、あげるわよ?」
 
 蠱惑的なくちびるを三日月のかたちにつりあげて艶やかに笑む、おそろしく美しい魔女の姿がすぐ目のまえにあった。
 

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