いつからそこにいたのか。ルーはひどくやさしげな色をその双眸に宿し、カウチの上のこちらを腕組みで見下ろしていた。
 その手には、老翁の部屋では見つかるはずのない白い錠剤の入った薬瓶を、どこからか見つけてきたらしく持っている。
「どうやって。吸血鬼(ヴァンピル)。おまえだって片付けられない、厄介な魔女なんだろう」
 突如薬瓶を持って現れたということよりも、ルーのその瞳の色にこそ驚いたジュリアンだったが、しかしすぐに首を横に振った。先ほどの老翁の話からすると、少なくとも五十年も前から彼女と魔女は争っているのだ。
「人間を遥かに超えた力を持つ吸血鬼ができないっていうのに、ただの善良でおとなしい人間の俺が魔女をどうこうできるわけ……」
「善良で大人しい、などとよく言えたなその口は。まぁそれは、あとで二度とそんなオカシナことが言えんように口をおおきく裂いてやるとして、だ。誰が、あのクソ魔女を片付けられない、だと?」
 先ほど浮かべていた慈愛に満ちたやさしげな表情を、まるでそれが錯覚であったのかと思わずにはいられないほど、いっそ凶悪ともいえるほどに険悪な表情へと急変させたルーが足音荒々しく歩み寄り、ぐい、と法服の襟を掴み上げてきた。
 咄嗟に身を引こうとしたジュリアンだったが呆気なく捕らえられ、蛙の潰れたような情けない声とともにカウチから引き上げられる。慌てて、どこにそんな力があるのかと首を傾げたくなるほどにしなやかに細い、自分を吊り上げる腕を右手で掴み返してなんとか気道を確保し、
「い、いままで散々やりあってきたんだろうが! それでもまだ魔女はぴんぴんしている! っていうことは、だ!」
「では告白しよう、司祭」
「なっ?」
「わたしは、あのクソ魔女を完膚なきまでに叩き伏し、その存在を影ひとつすら残さず消し去ってやろうなどとは、実は毛ほどにも思っていない」
 ひどく虚ろな声音で、それは、麗しいくちびるから吐かれた。
 まるで廃墟と化した教会の鐘が、黄昏に沈む荒野を渡る風に滲むように空しく響き渡る。そんな声音にこそ、まずは戦慄した。
 短い期間とはいえ、これまでいやというほどこの女には玩ばれてきたが、これほどまでに抑揚なく覇気のない声音を耳にしたのははじめてだ。そのことがより一層ひどく恐ろしいものに思え、深い闇の深淵を覗き込むかのような心地とともに背筋を震わせ冷たい汗を全身に伝わせるのだ。
 そして、その声音により紡がれた内容に、遅ればせながらようやく気付く。
「なん……だと」
 やっとのことで声を押し出し、表情の消え失せた白く美しい人形のような顔を見やった。
「いま、おまえ……なんて」
「言ったろう、ジュリアン司祭。わたしは暇潰しで魔物狩りをしている吸血美少女だと。あのすこぶる性格の悪いクソ魔女のことは考えただけで虫唾が走る上に、地面に無数の穴をあけた中にやつを放り込んで頭を出すところをいちいち殴ってやりたいほどにムカついてもいるが、殺してやるつもりはさらさらない。それは、なぜか。わたしが、暇になるからだ。わたしの相手ができるようなやつが他にないのだから、仕方がないだろう」
 そう言うなり、興味がなくなった玩具を手放す子どものように、ルーはジュリアンを放す。そして、そのまま幽鬼のようにふらりと、じっと俯いて黙している老翁の背後へとまわった。
「所詮、人間などわたしにとっては餌で、玩具だ」
 ゆっくりと、白い腕で枯れ木のような老翁の痩躯をそっと抱き締め、量は少なくはないもののそのすべてが灰みを帯びた白の髪へと頬を寄せる。
「わたしは、おまえたちとは違う生き物。抱える力も、感じる時間も、違う。魔物狩りは、時間が有り余ってしかたがないゆえのただの暇潰しで、おまえたちを助けるのはただの気まぐれ」
 突き放すかのような、言葉。
 抑揚ない声音に、感情の窺い知れない無表情。
 けれど、
「……ルー」
 その、首にまわされた、いつでもその首を折り息の根を止めてしまえるだろうその白い腕を、老翁は皺に覆われた手で、やさしくあやすように叩いた。
 途端、なにかに耐えられなくなったかのように、寒気がするほどに美しい顔に表情が生まれ、その表情がどのような感情から生まれたものなのかをこちらが覚るまえに、老翁の白髪の向こう側へ勢いよく逸らされる。
 だから、いま聞かされた言葉に含まれていたものを、ジュリアンは覚った。
 ルーが一瞬見せた表情を生み出した感情も、おそらくは知ろうと思えば、知れる。
「……おい、吸血鬼」
 吊り上げられたためにずれていた法服を簡単に正しカウチに座りなおして、溜息混じりに言う。
「俺はこう見えても一応、司祭だ。告白するというなら……嘘は言うな。吸血鬼に人の神もない、だとか抜かすなよ。昔から吸血鬼には聖水と十字架が効くって決まりがあるんだ」
 ここまで強引に巻き込んでおきながらいまさら嘘をつかれて事実を隠されるのは、おもしろくなかった。とはいえ、聖水も十字架も効かないことは実証済みであるというのに、こんな拗ねた子どものような言い分をするなんて、とも思い、おそるおそる老翁の白髪に顔を埋めたままのルーを見やる。すると案の定、
「おまえは洟垂れたガキか」
 なんだその自分勝手な決まりは、と唸るように返された。
 だが、返る言葉があったことに少々安堵し、ジュリアンはカウチの背もたれに踏ん反り返るようにして背を預ける。
「ああ、そりゃあ、自分を『吸血美少女』だとか平然と抜かしているどっかの若作り吸血鬼にしてみれば、俺なんかぴーぴー泣きじゃくる洟垂れたガキでしかないだろうよ」
「ふん。洟垂れを自覚したか、ジュリアン。それに免じて……若作りだとか言って年寄り扱いしてくれた非礼については、いまのところ見逃してやる。ほんとうなら、川向こうまでぶっとばすところだ」
 そう言って顔を上げてこちらを見たルーが、意地悪くも凄絶に美しい笑みを浮かべていることに、張り詰めていた気持ちが緩んだ。同時に、つい顔も緩んでしまったらしい、
「なにをへらへら笑っている。きもーい。へんたーい。セシルぅ、変態がいるぞ、気をつけろ」
「だれが変態だ、この規格外吸血鬼がっ!」
 緩む頬を自覚しつつも、叫んだ。
 
 

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