「魔女リーナ。若い男の苦痛に歪む顔と、その生ぬるい血を浴びることが三度の飯よりも好き。そう、ルーが司祭殿に教えた通り、自分の快楽のために僕ら人間を虫けらのように殺す、残虐な性格の魔女だよ」
 リーナ。
 と、その名が音となって老翁のくちびるから零れた途端、暖炉の上に置かれた燭台の火が怯えるように揺れたようだ。そんな気がして、ジュリアンは喉にちいさく唾を飲み込んだ。
「黄金の髪に極上の宝石のような碧緑の瞳、そして真珠のような真白い肌。女神のように美しい少女の姿と、ひどく甘い声音で誘いをかけてきてね……あれに抗うのは、男でなくとも人間ならほとんど不可能に近いねぇ」
 若かりし頃その魔女に目をつけられたという老翁は、思い出すのか、カウチの上で皺に覆われた痩せた身体を震わせる。
「自力では、どうやっても目覚めることのできない、ひどく甘美で残忍な悪夢だよ。この女神のような女になら、身も心も魂さえも差し出そうと、そんなふうに錯覚してしまうんだね」
 
 滾(たぎ)るこの血が身体の外に流れ、冷たく白い手指に伝わるのなら。
 吐き出す熱い息を、赤く濡れたくちびるが吸い取ってくれるのなら。
 苦痛に歪む顔を見て、大輪の赤い花のような美貌が笑むのなら。
 
 死んでもいい、と。
 女が悦ぶのならば、たとえ醜い獣に生きながらに貪り食われても構わない、と。
 
 重い目眩と妖しい幻覚のなか、そんな錯覚をするのだ、と。
 そう言ってふたたび震えて、もうあんな思いはごめんだ、とばかりに、老翁は枯れ枝のような腕をさする。
「ルーが助けてくれなかったなら、僕も恍惚と喉を掻き切られて、血溜まりのなかに鼻の下を伸ばしたちょー情けない屍をさらしていただろうねぇ」
「ジジイがちょーとか言うな」
「それはジジイへの差別だよ、司祭殿」
「っつーか、あの吸血鬼(ヴァンピル)でも、魔女を片付けられないのかよ……」
「するっと無視してくれてありがとう、司祭殿。まあ、付き合っていられないのはわかるよ。いま狙われているのは、おまえさんだからねぇ」
 紅茶のカップを両手で持った老翁は、ふふ、と穏やかに笑った。だが、その次の瞬間には瞳を暗くする。
「正直に言ってしまうとね……いまも、恐ろしいんだよ」
 その暗く虚ろな声音に、ジュリアンは驚きを隠せないまま老翁の顔を見やった。
 ゆらゆらと赤みを帯びた色の絨毯の上でシャンデリアの影が揺れる。
 深い凹凸を見せる絵画の向こうで、甘い芳香を放つ薔薇の花が誘う。
 カップを持つ老いた手指が、震えていた。
「ルーのことは、愛しているんだ……心の底から。命を助けてくれたことを差し引いたとしても、彼女ほどに情が深く気高いひとは他に知らない。けれど……怖いんだよ。いまはこんなに皺だらけなのだから魔女の興味もないだろうけど、それでもまた、あの誘惑に負けてしまうのではないか。今度こそ殺されてしまうのではないか。そう思うと、怖いんだ……」
「……爺さん」
「死ぬことが怖いんじゃないよ。僕はもう見ての通りのおじいちゃんだからね、そう遠くない未来に死ぬよ。それは、どう足掻いたって変わらない。だから、死ぬのはしかたがない。でも、ね。魔女の手で殺されることは、怖いよ。ルーを裏切って死ぬことが、なによりも怖いんだ。僕のルーへの想いはほんとうなのに、それを捻じ曲げられ踏みにじられて死ぬのは、怖い。僕の屍をまえに魔女が得意げに、愛など所詮こんなもの、とルーを傷つけるようなことがあったなら……地獄の一番深いところで何度身体を裂かれようと、僕は僕が許せない。僕はね、司祭殿。僕は、死ぬならルーのために死にたいんだ。なにもかもを捧げるのなら、魔女ではなく、ルーに」
 こんなこと、ルーには聞かせられないけれどもね。
 そう言って、また元の穏やかな老翁に戻り笑ってみせるひとりの男に、そのときジュリアンは憧れのような羨望を抱いた。
 
 生きなさい。
 
 そう言って死んでいったひとと、目のまえの男の姿が、重なる。
 胸の奥が、痛んだ。
 押し込めていたものがじわりと湧き上がって、零れる。
「司祭殿?」
 慌てたような老翁の声がするが、どうしようもなかった。
 固く閉じるはずのくちびるが震えて勝手に嗚咽を漏らし、なんでもないふりをするはずの顔が情けなく歪んで流したくもない涙を頬に流させる。
「司祭殿」
「どうすればいい」
 食いしばった歯の隙間から唸るように訊ねると、え、と老翁が戸惑う声で訊き返してきた。それに、法服の袖を使って顔をぬぐったジュリアンは、まっすぐな双眸を向ける。
「どうすれば、生きられる」
 
「クソ魔女を倒すのだよ、ジュリアン」
 
 答えたのは、いつのまにか現れていたルーだった。
 

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