落ち着いた色合いの絨毯に、年代物の家具。
 薄暗い天井から重たげに下がるのは、気だるげな灯りを広げる豪奢な黒いシャンデリアだ。
 そんななか、
「それで」
 司祭にあるまじきどす黒い声音を吐き出してしまったのは、目のまえで繰り広げられる甘ったるい光景を、ただ見せつけられるその嫌気によるものだ。しかたがない。
 しかし、どす黒い声音を吐きつけられた方などは、まるで気にも留めていなかった。
「やぁん、セシルのお菓子、ちょーおいしー。ほっぺが落ちちゃうー」
「ルーのために、愛と魂を込めてつくったからねぇ」
 彫りの美しい骨董のカウチに腰かけた老翁がやさしげな手つきで、その皺深い首にしなやかな両腕を巻きつけ膝に座った自称吸血美少女の薄紅色のちいさなくちびるへと、黄金色に輝くような甘い菓子を少しずつ運んでいる。
 気に留めていない、というよりは、まったく視界に入っていないのか。
 空気か。俺は空気か、とふたりの薔薇色に染まった世界から完全にはじき出されている状態のジュリアンは、端正な顔を思いきり引き攣らせた。
「神様、マジでこいつらなに……頼むから、なんとかして」
 向かいに腰を下ろしげんなりとつぶやくと、ようやくこちらに気付いたような顔をルーが向けてくる。
「おや、ジュリアン」
 アシュピンクのやわらかな長い髪が、ふわり、と夢のように揺れて、ほんのわずか、目を奪われた。
「食べないのか? せっかくセシルがおまえにも出してくれたのに」
 それ、と花と剣のどちらも似合う白く優美な手指が、ジュリアンのまえに手付かずで置かれた菓子の皿を指す。
 ジュリアンは舌打ちしたい気分でルーの長い髪から目を逸らし、まるで親の仇を見るように甘く誘う菓子を睨みつけた。
「司祭殿は甘いもの、嫌いだったのかなぁ」
「セシルの手作りが食べられないとか抜かすのなら、逆さ吊りにしてやるぞ?」
 声音を変えかわいこぶってルーが言うが、言っている内容はただの脅しだ。
 甘いものは、嫌いではない。けれど、目のまえの甘ったるい光景のせいで、まったく食べる気がしない。
「……魔女のことを話すんじゃなかったのかよ」
 まさかこんなものを見せるためにわざわざ教会から連れ去ったわけではないだろう、と皿を脇に避けつつ溜息まじりに言う。すると、
「まさか、セシルの厚意を無駄にするつもりではないだろうな」
 老翁の膝の上、その首に腕をまわしたまま、ルーが矢車草の青に輝く双眸を、す、と細めた。
 それに、ジュリアンのなかでもなにかが切れる。思わず、花の飾られた卓に両手を叩きつけ、
「厚意だとかいうまえに意味がわからないんだよ! 血が甘いだとか、魔女だとか、吸血鬼(ヴァンピル)だとか、ジジイとか!大体、いい加減離れたらどうなんだ、ふざけてんのかっ!」
 怒鳴る相手が魔物であることはわかっている。けれど、黙っていることなどできず、白い法服の裾を荒く翻し椅子から立ち上がる。そして、矢車草の青から真紅にじわりと移ろう双眸を、血が上った頭のままでまっすぐに睨み据えた。
「ルー。お菓子のことは、まぁ、あとで食べてくれるたならいいから、司祭殿に話してあげたらどうだい? 司祭殿も、座って。こんな年寄りのまえで喧嘩なんてしないでおくれ、老いた心臓が止まってしまうよ」
 するり、と黙って膝から下りた真紅の瞳をしたルーに、さすがに老翁が慌てるらしい。陽光を知らない白く細い腕をそっと、しかししっかりと掴んで、落ち着いておくれ、とルーとこちらへと交互に視線をやる。しかし、
「お願いだから、我慢しておくれ。ルーと僕がらぶらぶなのは、いまに始まったことではないのだから」
 ひとこと余計だ。
「ジジイ、宥めてんのか惚気てんのかどっちかにしやがれ!」
「おもてに出ろ、クソ司祭。セシルになんという口をきく。貴様に礼儀というものを嫌というほど叩き込んでやる!」
「いいだろう、アホ吸血鬼! おまえこそ一から礼儀を覚え直せ! ついでにどうやっておもてに出るのか教えやがれっ!」
「はっ! 出口を探してこの屋敷を永遠に彷徨え! すっかり骨になったら、沼に捨ててやる!」
「誰がこんな薄気味悪い化け物屋敷を好き好んで彷徨うか!」
「どうしよう。僕のせいでふたりが争うなんて……罪な年寄り。あぁ、胸が……」
 胸が痛い、と程度の低い言い争いをしているふたりの間で、老翁が胸を押さえた。とたんに、ルーが慌ててそのまえに片膝をつく。
「セシル。セシル、だいじょうぶか? 大きな声を出してすまない」
 冗談ではなく本気で心配するらしく、ふたたび矢車草の青色に戻った瞳でうつむく老翁の顔を覗き込んだ。
「セシル?」
「だいじょうぶだよ、ルー。でも、念のために薬を僕の部屋から持ってきてもらえると嬉しいなぁ」
「わかった。すぐに戻る」
 言うなり立ち上がったルーの姿は、瞬きの間に塵ひとつ舞わせることなく掻き消えた。
 思わず呆然とそれを見ていたジュリアンだったが、さてと、と顔を上げてこちらを見つめてきたにこやかな顔に瞳をまるくする。
「……だいじょうぶ、なのか……爺さん」
「だいじょうぶじゃないかなぁ? さすがのルーでも、ないものは探し出せないだろうし、時間はあるねぇ」
「……は?」
 胸の痛みはだいじょうぶか、と訊いたつもりだったのだが、とどこからどうみても痛みに苦しむようすのない老翁に、くちびるをひん曲げた。
「魔女の話だったねぇ」
 紅茶を手にゆったりと微笑む老翁に、毒気を抜かれる。胸が痛い云々は、とりあえずはルーを引き離すための演技であったようだ。
 あの吸血鬼と一緒に暮らしているだけあって、どうやらこの老翁ものんびりとした見かけによらず、案外くせ者であるらしい。だがやはり、
「僕も五十年ほどまえは、それはそれはいい男で。おまえさんより、もちょっといい男だった」
「一言多い」
「お陰で、クソ魔女に目をつけられてねぇ。そのときに助けてくれたのが、やっぱりルーだったんだよ」
 それを聞いて軽く瞠目したジュリアンは、ほんのわずか躊躇したがそれでもほかにどうすることもできなかったので、法服の裾を払いふたたび椅子に腰をかけた。
 
 

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