きぐるみのあとについてしばらく歩くと、それは異様な存在感をもって目のまえに現れた。
 化け物屋敷。
 とっさに、そんな言葉が頭を過ぎる。
 まるでそれ自体が、その身を繋ぐ鎖が解かれるのを待つ冷徹でありながらも血に飢えた巨大な化け物のように、じわりじわりと内側から冷気を吐き出す、黒い屋敷。隙間風のしわざだろうが、それでもこちらが弱気を胸に巣食わせているなら、獣が地を這うような唸り声を鋭い牙の隙間から漏らしているのだと勘違いしてしまうほどに、それは恐ろしい雰囲気を静かに、しかし強く発していた。
 そして、錆びかけた鎖と蔦とが幾重にも絡みついた黒々とした鉄の門は、それへと近寄るものを固く拒むように立ちはだかっている。
 雨雲に覆われた灰色の空の下に、湿った風に揺られる黒い木々。
 明度と彩度の低い、その光景。
 知らず、ジュリアンは喉につばを飲んだ。
 するとすこし先を歩んでいたルーが門のまえでぴたりと足を止めた。ゆっくりと白い毛並みに覆われた腕をあげ、門柱へと伸ばす。その、つぎの瞬間、
 
 ぴんぽーん。
 
 あまりにも間の抜けた音が響いた。
「…………あ? 呼び鈴……あはは、まさか、な」
 思わず胡乱(うろん)な目をしてつぶやいたジュリアンだ。しかし、まさか、と思い込みたいその意思に反して、
「はいはぁい。おかえり、ルー」
 穏やかな、けれど屋敷にはあまりにも不似合いな老翁の声音が、どこからともなく聞こえた。
 そして、
「んあっ?」
 突如、ガクン、と地面が大きく揺れる。
 地震か、と体勢がぐらつき片膝をついたジュリアンが声を上げるが、しかし、すぐに地震にしては異常であると気付いた。なにか、滑車がまわるような音もする。
 え、と瞠るその瞳に、それまで目のまえにあった風景が上方へと滑るさまが映った。
 いや、違う。
 まわりが上方に滑ったのではない。自分の身体が下方へ落ちているのだ。つまり、地面の下へと。
「ちょ、ちょっと待て!」
 四角く切り取られた空を見上げて、暗い地下へとゆっくり下ろされるジュリアンは声を上げた。
 すると、ちいさくルーの笑う声が穴のなかに響く。
「面白いだろう。機械仕掛けだ。セシルの知り合いに時計屋がいてな。つくらせちゃったのだ」
 さきほどまでくぐもっていたがいまは澄んで聞こえるその声のほうへ顔を向けると、宝石のような矢車草の青がふたつ、きらきらと光っていた。
 ルーの瞳だ。
 陽光が届かなくなったことで、犬のかぶりものを脱いだらしい。
 やがて暗さに瞳が慣れると、雪のような白い肌とふわりとしたアッシュピンクの長い髪の色が瞳に映った。
 黙っていれば人形のように美しい少女の汗にしっとりと濡れた肌と髪は、なんとなく見ていてはいけないような気分にさせられる。女に、ましてや吸血鬼(ヴァンピル)に劣情など抱いていいはずのないジュリアンは、なにごともなかったように装い瞳を逸らそうとするが、その瞬間、にこ、とまるで聖女のように不意に微笑まれて、くちびるをひんまげた。
「なぜ司祭になどなった」
 問われて一瞬、この後ろめたさを見抜かれたのかと思う。だが、ルーは見抜いているのかそうでないのかわからないような、ひどくやさしげな声音でもって重ねて訊いてくる。
「しかも、祓魔師だ。なぜだ」
「気が……向いたから」
「ふうん。人助けのため、とは言わないんだな」
「助けられるなんて、思ってない」
 助けたいとは思うけれど。
 そんな言葉を飲み込むと、ルーがふたたび笑み声をこぼした。なんだ、と問うと、別に、と返る。
「そういうおまえは、吸血鬼のくせに、なんで魔物狩りなんてやってるんだよ」
「暇だからだ」
「あぁ?」
 それはいっそ、不遜なほど投げやりに、ルーが答えた。
「暇でな、とてつもなく。わたしは、おまえたちとは時間の感覚が違う。わたしにとって、時間とはとてつもなくゆっくりで……気だるいものだ。それになにもせず屋敷に篭っていると、この素晴らしく美しい身体の線も崩れてしまうだろう? だから、軽い運動ついでのただの暇つぶしだ」
 ただの暇つぶし、となんともつまらなそうに言う。矢車草の青は、すこしも笑っていなかった。
 けれど、いや、だからこそ、というべきか。その言葉になぜか違和を感じて、ジュリアンは眉を寄せる。
 しかしそれきり、ルーは口を閉ざしてしまった。それ以上に話すつもりはないらしい。
 舞い降りた沈黙に、気まずくなった。
 どこか重苦しいような空気は、地下深くにもぐったからであるのか。それとも、見えない壁が周囲を覆っているせいであるのか。
 我慢できずに、いつのまにか俯かせていた顔を上げ、表情の知れない白く美しい顔を横目に見た。
 しかし、そのときふたたび足もとが揺れ、落下が終わる。
 目のまえに、先の見えない暗闇につつまれた長い廊下が現れていた。
 
 

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