ジュリアンがきぐるみにしがみついた、そのとたんだった。
 一瞬、意識が置き去りになるほどの勢いで、身体が飛んだ。いや、飛んだ、と思ったのはほんのわずかの間だった。すぐに、そんなことすらわからない状態になってしまったのだ。
 身体が飛んでいるのか、それともまわりが飛んでいるのか。
 たっぷりの水で溶いた絵の具をさらに水で流すように、まわりの景色が凄まじい勢いで流れていくのだ。
 目に痛みを感じて、ぐ、とすぐに閉じてしまった。
 音など、感じている速さではない。
 身体が引き千切られるのではないか、と思う。
 呼吸すらままならない。
 それでもジュリアンはただひたすら自分を荷物のように担ぎ上げる者にしがみついた。そうすることしか、できなかったのだ。
 けれど、身体が流れに乗った、とでもいうのか、痛みはしばらくすると引いた。
 そうすると、自分がどのような状態にあるのかを考える隙間が、混乱した頭の隅にできる。
 たしか、きぐるみを纏い自分を荷物のようにその肩に担いだ吸血鬼(ヴァンピル)は、速度を上げる、と言っていた。吸血鬼であるルーは人にはもてない速度を持っている。
 つまりいま自分はその、人が体感できない吸血鬼の速度、というものに乗せられているのだ。それも、望まないままに。
 この速度から外れたなら、即死だろう。地面に叩きつけられた瞬間、痛みを感じる間もなく、肉は細かく弾け飛び骨は粉砕される。
 ぞっとした。同時に、しがみつく手に更に力を込め、引っ掛かりを求めてきぐるみの毛並みに指を絡めた。
 どのくらいの時間、どのくらいの距離、そうしていたのかはわからない。
 ただ、恐怖を通り越しなかば放心してしまったあたりで、ふと身体が楽になった。
 おそるおそる目を開けると、見知らぬ場所にやはり荷物のように転がされている。
 目のまえにある石畳は雨が降ったあとなのかしっとりと濡れ、こちらの身体を冷やす。そこから上体を引き剥がすように両腕を突っ張ると、まったく覚えのない町並みを川の流れのむこうに見た。
 知らない川の匂い。
 肌に絡みつく湿った空気。
 雨雲のせいで明度の下がったなか、町並みはセピアの色に沈んでいた。
「なにをしている。置いていくぞ」
 不意に声を掛けられてそちらを見やると、片手に剣を握ったふんわりと真白い犬のきぐるみが軽やかに跳ねているさまが目に入る。
「……元気だな、おまえ。そんなもこもこ着てるのに」
「うふぅ。若いからぁ」
「いくつだよ」
 思わず問いかけた、その瞬間だ。
 目のまえから、きぐるみが掻き消えた。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。背後をとられ、まるでうるさく飛ぶ邪魔な虫でも払い飛ばすかのような勢いで、後頭部を叩(はた)かれた。
「っ!」
「女に年齢を訊くとは無粋なやつめ。川底で反省でもしてみるか? んん?」
 放り込んでやろうか、と髪を掴まれ上げさせられた顔を川のほうへと、ぐい、と向けられる。だが、痛い、と軽く抵抗すると、まあいい、とあっけないほどすんなりと放された。
「さっさと立て、ジュリアン。地面と仲良くするのが好みだというのなら、このまま置き去りにしてやるが」
 言うなり、さっさとルーはこちらに背を向けて歩き出す。
 宙を歩むような足取りに、どうやら機嫌が良いらしいことが見て取れた。
 つい今しがたこちらの頭をものすごい勢いで叩いた者とは思えないそのようすに、ジュリアンは眉を寄せつつも、立ち上がろうと足に力を入れ、
「う、わ」
 できずに、ふたたび湿った石畳に這いつくばる。さすがに、悔しい。いまさらながら平静を装い、乱れた前髪を手指で梳き整えようとすると、
「……?」
 不意に強い視線に気付いた。上げた手指をそのままに、そちらへと視線をやると、ぴしゃり、と怯えたように川向こうに建つ家の窓が閉じられる。
 たしかに、きぐるみとそれに殴られる司祭など、あやしいにもほどがある。いや、もしかするときぐるみの中身が吸血鬼だと知っているからなのか。
「おい、吸血鬼」
 ひょいひょいと歩くきぐるみの背に声をかけると、ぐるぅりと犬のかぶりものをこちらに向けられた。
「どこにいくんだ」
「棺桶だと言ったはずだぞ。というか、私は『吸血鬼』ではなく『吸血美少女』だと何回言ったらわかるんだ、うすらボケ。ほら、さっさとこい。甘い菓子を焼いて、セシルが待っている」
「……棺桶で、かよ」
「我が屋敷の可愛い愛称だ」
「あぁ、愛称か……って、どのへんが可愛いんだよ!」
「ほかにもあるぞ。化け物屋敷だろ、血みどろ舘、えーと、あとはなんだったかな……呻き声の安売り邸?」
「おまえ……相当嫌われてるだろ?」
 先ほどの刺すような視線が、まだ法服の下にある肌を粟立たせている。
 それがまざまざと、目のまえの相手が決して無害なものなどではなく危険なものなのだと知らせて寄越す。
 ひそひそと屋敷の通称とそこに住まう吸血鬼への恐怖や侮蔑などを囁き合うのだろう、この町の住人のようすを見てもいないのに容易く想像できてしまったジュリアンは、ぐ、ときつく眉を寄せた。
「それはそうだろうな。いつ食らいつかれるかと怯える生餌が、鎖で繋がれてもいない獣に好意などもつものか。それに獣とて、愛されようなどとは毛ほどにも思っていないからな。組み敷いた獲物に食らいつこうとしたとたんに、情などに流されるようでは生きてはいけない」
「餌、って……おまえ、な……」
「事実だ。それほどに、おまえたち人間と吸血美少女であるわたしの間には、暗くて深い川が流れている。見ろ。この川には橋がないだろう。川向こうに住む餌は、こちら側には足を踏み入れたがらない。だが、それでもこの町から出て行こうとしないのが、なんともおかしいがな」
 くす、と被り物の隙間からこぼれた笑みには、どこか悲哀の色が滲んでいたような気がする。
 ふとそんな風に感じて、この魔物の本音が覗けないものかと、じっ、と見つめ上げると、
「そんなに見つめられても、ちっとも嬉しくないぞ」
 ルーはひょいと肩をすくめてふたたび歩き出した。
 
 

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